70年後  〜パリ・マドリード・バルセロナ〜

        2007年1月10日

カタルーニャの花/ 
 その花の名前を何というのだろう。
 カタルーニャ地方の都、バルセロナ、サン・パウ病院 の中庭に咲く花。透き通った紫色の花群れが、ムデ ハル様式の病院に見事に映えていた。
 病院をつくった建築家ドメネクの言葉  
 「芸術は人を癒す力がある」 
              
 その花弁に近寄ってみる。大気の光を受けとめ、放たれる透明の紫には、どこかに凛とした主張がある。怒濤のごとく押し寄せる時流に抗して、根っこから沸き上がるスペイン民衆の鋭い視線が乱反射している。












▼今回の観光旅行、マドリッドに行く前にまずパリで2日間を過ごした。2007年の初めにパリの地に立つのはそれなりに意味のあることだと思っていた。そんなことを口走れば、「また、得意の詭弁かい。」とかわされそうだが、本人は結構、真剣だ。

▼今から70年前の1937年。
加山雄三が生まれたこの年は、
世界史の中でも大きな転回点となった年である。中国大陸では7月、廬溝橋事件を皮切りに日中戦争が勃発する。11月には日独伊防共協定が成立、そして
12月には南京虐殺事件が起きた。欧州ではナチズムが猛威をふるいはじめ、スペインでは前年に勃発した内戦が全国に拡大し、この年の4月26日、フランコ将軍の独裁を支援するナチス・ドイツ軍が、スペイン北部バスク地方の古都、ゲルニカを空爆した。人口7000人の小さな街はこの日1日の空爆で廃墟と化し、地上から姿を消した。非戦闘員である市民を殺戮する「無差別爆撃」が世界で初めて行われたのだ。これを契機に近代戦争の様相は一変する。市民を大量殺戮する狂乱は、日本軍による重慶などの中国の都市への爆撃、東京大空襲など日本各地への米軍による空爆、そして広島・長崎への原爆投下、さらに現在のイラク空爆に至るまで膨張している。

▼世界史に一気に暗雲がたちこめた、この年、フランス政府は5月24日〜11月25日まで、パリで万国博覧会を催した。パリで万国博覧会が開かれるのは1900年以来のことであった。スペイン共和国もパビリオンを建てて参加したが、そのスペイン館の壁画を依頼されたのがピカソだった。
▼依頼を受けたものの、当初、ピカソは何を題材にするか思い浮かんでいなかった。その折りに、故郷スペインからゲルニカの悲劇のニュースが飛びこんできた。
ゲルニカ空爆の第一報がパリの新聞に載った翌々日の5月1日には、ピカソはゲルニカを主題とする6枚の素描を描き上げ、以後、10日間に20点のスケッチを完成させた。そして、5月11日に、ピカソは高さ3.3メートル、幅7.5メートルの巨大なキャンバス向かい、一気呵成に作品を描き上げた。
この写真は絵はがき
▼1937年の6月4日、大作「ゲルニカ」は完成し、6月下旬、エッフエル塔下に広がる万博会場に運び込まれた。1937年のパリ万国博覧会のテーマは「現代生活に応用された芸術とテクノロジー」であった。テクノロジーの象徴として注目を浴びたパビリオンは「航空館」だった。巨大テクノロジーの象徴として来たるべき航空機時代を予見する「光」のパビリオンだった。そして、その対局の「陰」の役割を「スペイン館」が期せずして果たことになった。スペインは前年から内戦に突入していた。スペイン館は、反乱軍の仕掛けた内戦によって危急の場におかれた共和国政府が、世界に向けて救援を求める情報発信基地の役割を担っていた。
▼そのスペイン館の入り口に巨大壁画「ゲルニカ」が掲げられた。それは単にスペインの窮状を訴えるという役割を越えて、隣接する「航空館」の威勢を制御し、航空大時代のもたらす狂気を露わにし、人類への鮮烈な警告灯となった。
▼私は、1981年に観たドキュメンタリー「名画“ゲルニカ”の帰郷」(構成:柏倉康夫)で、この不思議な因果関係を知った。「ゲルニカ」は万博が終わってもスペインに帰ることはなかった。スペインはその後、1977年まで、フランコ将軍の独裁体制へと入っていく。「ゲルニカ」は、ロンドン・ニューヨークへと流転し、1981年、ピカソ生誕100年を区切りにスペインに帰郷した。

▼2007年1月10日、マドリッドのソフイア王妃芸術センターで、70年後の「ゲルニカ」に初めて対面した。18世紀に建てられた古い病院を改造して作られた美術館は現代美術コレクションの殿堂。その中核に「ゲルニカ」がある。縦3.5メートル、横7.8メートルの大作の前をぞろぞろと団体ツアー客が通り過ぎていく。

















 
















あらゆる断片が次々と折り重なって、惨劇をより狂気の沙汰へと塗り固めていく。その時空の乱反射の中で、人も、牛馬も、モノも分断され、めまぐるしく過ぎてゆく。「ピカソはなぜ身体をバラバラに分断するのか?」 すべては、この「ゲルニカ」にたどりつくために編み出された手法ではなかったのか。どこまでも投げつけられ高速で過ぎる断片の絡まり合いは、今もめまぐるしく流転し変化ているのだ。
 「私は探求しない。見つけるのだ。」(ピカソ)

 突然、馬のいななきが響き渡った。
俗物的などんな「風化」も許さない、大地からめくりあがる爆発である。




▼館内には、北京語、ハングル語、関西弁・・・・ガイド達がよく通る声でそれぞれの「ゲルニカ物語」を語っている。
 70年後、「ゲルニカ」の前はのどかな賑わいで溢れている。

▼日本人ツアーのガイドの話が背後から飛び込んできた。
「画面下に倒れている兵士をみてください。折れた刀を握りしめた腕の先に、一輪の花が咲いています。ゲルニカの花です。この血と怒りでまみれた大地の底から必ず再生するという人々の決意を、ピカソはこの一輪の花にこめたのです。」 









迂闊にも私は、この時、はじめて花の存在を知った。その花は、何度も塗り替えられた下絵の中からあぶり出されたようにして、さりげなく咲いていた。


 この花の横に、今度の旅で一番気に入った花を並べよう、と思った。



 

参考にした本:
 「絵画の二十世紀」(前田英樹 nhk出版) 「ゲルニカ物語」(岩波新書) 「ゲルニカ帰郷」(柏倉康夫 nhk出版) 「ピカソからゲルニカへ」(筑摩書房)

2007年1月10日