Stranger in Spain (下)
   
      <堀田善衛>を携えてゴヤを観にいく

        2007年1月15日

      しつこいほど、まだまだ路上パフオーマンスが続く。
         Stranger in Spain









 


















  









◇「僕はこの頃、国際政治という奴は、もう、完全に人間の理性を越えてしまったところで、戦争を唯一のリアリティとした怪物的な論理で、というより組織で運んでいるように思えて仕方がない」

◇戦後五年になるけれども、まだわれわれのあいだには、統一的な祖国の姿というものが、誰の目にもその不安定さを重要な契機とするほかには、思い浮かべようがないのだ・・

◇海を越えたすぐ向こうの朝鮮では、何十万という難民があてどもなく食もなく、夜の中を彷徨し死に果てているという時、また一日に数十本も世界の不安定を伝えてくる電報を処理しながら、なお安らかな妻子の眠り顔を思い浮かべられるということは、やはり不思議といっていいはずである。

◇ここまでくると、木垣はまたしても判断停止、であった。歩くのがいやになって来た。日に数十回も判断停止をして生きているということは、結局、何を考えるにしても結末はすべて判断停止で終わっているということである。

◇木垣は、自分の思考乃至動揺の中心部に、ぽっかりと暗い穴、颱風の眼のようなものがあって、様々な相反する判断がうちあって生まれる筈の思考の魚が、生まれかけるや否や途端にその穴、その眼の中へ吸い込まれてゆくように思われた。もしその穴、その颱風の眼をそこだけ切りとって博物館に陳列するとしたら、それには、人間的、という符牒のような札がかけられるかもしれない。・・・・・・・筋や話をあてにせず、胸中の動揺動乱が導く筈のものをあとづけてみる。とういう小説を書いてみよう。
                       1951年 堀田善衛「広場の孤独」より

             

◇ ゴヤ 1814年の作  「1808年5月3日」




























▼54歳で「裸のマハ」を描いた男は、68歳で、この衝撃的な一瞬画を後世に問うた。
無音の世界に住むゴヤは、この絵の中に闇夜をつんざく殺戮の悲鳴を封じ込める。闇の中から中央の白いシャツの男が浮かびあがる。ランタンの光を一身に浴びたこの大きな男は次の一瞬には、轟音と共に地面に崩れ落ち、白いシャツは赤い鮮血に染められてしまうだろう。ゴヤは、銃口を向けるフランス兵を「彼らはただ命令に従うあやつり人形だ」とでも吐き捨てるように無個性に描きなぐる、その一方で、つい今し方まで生きていたであろう地面に倒れ臥す男の顔、銃口を向けられ怯える農民や怒りに打ち震える修道士の表情を詳細に描き込んでいる。ゴヤは、 英雄を讃えるためのこれまでの戦争画の常識を吹き飛ばした。描こうとしたのは、戦争がもたらす不条理そのものである。大量殺戮兵器により市民が犠牲になる「無差別攻撃の時代」の予見である。
 「一斉射撃による銃殺刑は、フランス軍の創意によるものであった。この金属製の、複数の銃剣と銃の、その鋭い人工的な角度は、そのままで“現代”の到来を示している。この複数の銃剣は、やがて機関銃となり、ロケットとなる。」「無機質の工業製品によって、つまりは顔のない暴力装置によって大量の人間が一度にまとめて殺される時代が到来する。われわれはゴヤの手によって、その時代の開始期に立ち合わされている。」 (堀田善衛 著 「ゴヤV」より)

▼左の絵は「1808年5月2日」。前日の暴動の様子を描き込んだ作品だ。同じく1814年に描かれた。ナポレオンの武力行使に対して蜂起したマドリード市民の姿をとらえたものだ。馬上のエジプト人傭兵に、市民がナイフや素手で立ち向かっていく。すさまじい表情だ。抑圧されていたエネルギーが一気に暴発した瞬間だ。戦争とは武勇伝でもなんでもなく、名もなき市民や傭兵が狂乱のカオスの中で、見境なく殺し合う、不条理だと、その荒々しく激しい筆使いで、68歳のゴヤは迫ってくる。
▼この5月2日の暴動で400人以上の市民が逮捕された。大工、下男、水運び人、靴屋、店番、散髪屋、犬の理髪屋、乞食、ガラス職人、チョコレート職人、清涼水売り、庭師、洗濯屋、行商人・・・・いずれも日頃は保守的でごく普通の暮らしを営む市民だった。彼等は翌日の未明、銃殺された。その場面を描き込んだのが「1808年 5月3日」である。
「ゴヤは注文なしに、いわば自ら押しかける恰好でこの二作を制作した。・・・・この押し掛け自主制作は、人々に、民衆に、マドリード市民に、スペイン人の全体に、ひいては人類のすべてに、人間性に対して話しかけているのである。それは人々に話しかけ、しかも何かを人々から求めている。 (堀田善衛 著 「ゴヤV」より)
 この二枚の戦争画を初めとする、ゴヤの「戦争の惨禍」を描い作品群は、20世紀のピカソに深い影響を与え、あの「ゲルニカ」が生み出される原動力となった。

▼人生の50歳代について、堀田氏はこう述懐する。「五十代とは、おしなべて人生が最高の達成、幸福と、最深度の転落、不幸の双方を味あわせてくれる残酷な年齢である。彼が行ったことも、行わなかったことも、一切はとりかえしがつかず、繰り返しも利かない。人は五十代の残酷さを知るためにはそれを生きてみるより他はない。」 ゴヤの五十代もまさにその通りだった。五十代の入口で大病を患い聴力を失った。その最中にアルバ公爵夫人との天国のような珠玉の時を過ごしたかと思うと失恋しどん底に落ちた。かと思えば、宮廷画家の最高峰、首席宮廷画家に1793年53才の時にのぼりつめた。しかし、その時、ゴヤはアルバ公爵夫人から注入されたルソーの啓蒙主義に心酔し、みずから得た地位に疑問を持つにいたる。
1802年、アルバ公爵夫人が、突然、謎の死を遂げた。それと歩調を合わすように、フランス革命を達成したフランスにナポレオンが登場し1804年、フランス皇帝を戴冠した。 ナポレオン皇帝は傑出した軍事的ひらめき、行政力を駆使して欧州制覇への野望に向かって突き進む。それに対峙する大英帝国・イギリス。スペインはその狭間で英仏の代理戦争の場と化してゆく。スペイン宮廷には当事者能力はなく、前にも増して謀略陰謀の巣となってゆく。この怒濤のように転落する混迷のスペインの中で、ゴヤは50代を漂流した。
1805年、ゴヤ59才。第三次対フランス大同盟が成立。イギリス、ロシア、オーストリアがこれに参加し、トラフアルガー沖でネルソン提督のイギリス艦隊はフランス・スペイン艦隊を殲滅させる。しかナポレオンはアウテルリッツ三帝会議でロシア、オーストリア両皇帝軍を破る。
1806年、ゴヤは60才。ナポレオンはベルリン勅令によって大陸封鎖令を出す。
1807年、中立条約にも関わらず、フランス軍がスペインを侵略。
 「ヨーロッパ各地で何万という人間が、一度に、死んでゆく。それはそれまでの傭兵と傭兵との間では見られない事態であった。正銘の“現代”である。」(堀田善衛 著 「ゴヤV」より)

1808年、ゴヤ62才。あの隆盛を風靡したゴドイが失脚、カルロス4世は退位した。王位継承者のフェルナンド七世は亡命を余儀なくされた。そして、5月2日、マドリードでフランスに対する民衆蜂起、3日、民衆の銃撃処刑、フランス占領軍に対するスペインの独立戦争が勃発する。
 
1808年ー12年に描かれた油絵「巨人」。恐怖におののき逃げまどう人々や動物の背後に現れる巨人。これは、狂気の時代に抛り込まれた民衆の意志が生み出した象徴である。「巨人」は民衆を背にして、山の向こうからやってこようとしている何ものかに立ち向かおうとしている。ゴヤはこの作品を自分のために描き、自分で所有していた。

1810年、64才のゴヤは銅板画集「戦争の惨禍」の制作にとりかかる。ゴヤはこの独立戦争を決して美化することなく、人が人を殺し合うありとあらゆる狂気の様を、6年間の戦争中、こつこつと冷徹に記録しつづけた。
 ゴヤは絶えず、変化し続けた。その手法を次々と自在に変えながら、常に時代より半歩先を走り続ける・・・・・・


←「戦争の惨禍」第一番
 来るべきものへの悲しい予感


「戦争の惨禍」第9番 →
彼女たちはそれを望まない
 
フランス軍が女性を強姦しようとしている。それを背後から、母親だろうか、老婆が立ち向かおうとしている。




 ←「戦争の惨禍」第30番
 戦争による被害
 
 ピカソの「ゲルニカ」そのものではないか



            

                   「戦争の惨禍」第12番
 →
        そのために生まれてきたのか?



 

「戦争の惨禍」第7番
  なんと勇敢な!





       「戦争の惨禍」第36番
          なにもない
        
命を落としたばかりの男を
         軍服の男が醒めた目で
         見つめている  虚無











←「戦争の惨禍」第44番
 
Yo lo vi 私がこれを見た 









「市民軍、国民軍が編成されて様相は一変した。皆殺し戦争の時代がここに開始されたのである。市民、国民としての権利と義務の平等を認められてはじめて、皆殺し戦争が可能になった。戦死者は名誉の死というわけでタダ奉公になる。現代史の背理性がここに開始される。
 敵に対する憎悪もまた国民的規模をもつようになる、それまでは戦場となった地域の住民は、流れ弾にでもあたらぬ限り、傭兵同士の戦争とは関係はなかった。一時避難をすればよかったのである。ところが国民戦争となればそうはいかない。戦場が敵地であるとなれば、地域の住民もまた敵である。南京大虐殺の素地はすでにここにあったと言ってもさほど過言ではないであろう。


さらにナポレオンの戦法は、軍隊の現地自活、戦費も征服によって現地でまかなう。つまり徴発による戦争である。荒らされ、搾取されるものは現地の住民であり、鍋釜はもっていても兵隊に生活はかかっていず、親方ナポレオンで人殺しに専念する。
 恐るべき、“現代”の顔が、ここにはっきりとその顔を正面からのぞかせている。文化の優位と普及から発して皆殺し戦争へ。・・・・・
 この現代がまだ終わっていないことだけはたしかであろう。」

    (堀田善衛 著 「ゴヤV」より)
 


1814年、ナポレオンの時代は終わった。スペインの市民が勝利したかに見えた。しかし、現実はそんなに簡単に図式化できない。帰国した国王フエルナンド7世が再び時代を逆転させたような専制政治をはじめた。自由主義者は弾圧され迫害された。この年、ゴヤは猥褻な作品「着衣のマハ」「裸のマハ」を描いたとして異端審問にかけられる。しかし、この同じ年に、ゴヤは「1808年5月2日」と「1808年5月3日」を描き上げる。ゴヤ68才、まだまだ枯れていない。

 ▼1815年、ゴヤ69才。左はこの年に描かれた自画像だ。若い。その肌は滑らかで皺などはない。眼のまわりには若干の隈があるが、その眼には力がみなぎっている。聴力を失い、あの狂気にあふれる「戦争の惨禍」を通して絶望の淵を見つめ続けた老人の顔だとは、とても信じがたい。どうみても働き盛りの男の風情である。
▼ゴヤは旺盛に絵を描き続け、変化し続けた。自分を常に変化させる、革新性をみなぎらせていたのが、ゴヤという存在なのだ。プラド美術館で、「1808年5月3日」の横に掲げられた「自画像」を見ていると、素直にそう納得させられる。
 スペイン絵画研究の第一人者、故・神吉敬三氏はこう語っていた。
 「実は十六世紀以降、各世紀を通じて少なくとも一人ずつ巨匠を生んでいる国というのはヨーロッパにはございません。『フランスは?』という話は当然出てくるでしょう。しかし、あそこは国際的な芸術都市として、みんなよそから集まってくるわけです。同時に、スペインとはだいぶ違いまして、段階的にみんなが協力してあるレベルまで美術を持ち上げてゆく、そうすると今度はそのうえに乗って次の世代がある程度の進歩をさせる。またその次の世代がそのうえに乗る。ある意味ではフランスの官僚性と非常に似た形で美術は運営されている。スペインの場合はそうではございませんで、グループもなければ派もありません。一世紀に一人ずつとんでもない天才が出てくるわけです。そして一気にそれまでの美術を爆発させるような形で、極端な場合は二、三世紀先を先駆するような偉業を成し遂げる。それがスペインだと思いますが、その典型的な例がゴヤであります。」
(1996年 ゴヤ生誕250年の記念講演より・・・ちなみにこれが神吉氏最後の講演となった・・・)

▼右も同じく1815年に描かれた「自画像」。
ゴヤは1812年、妻のホセーフアに先立たれた。ところが、それからほどなく40歳以上も年下の女性(レオカーディァ)と結婚している。彼女とは息子の結婚式の際に出会ったらしい。さらに驚くことに、1814年、レオカーディァが女の児を出産する。ゴヤ68才、レオカーディァ26才。1814年といえば、ナポレオンの時代が終わり「1808年5月2日」「1808年5月3日」を描き上げた年、同じ年に子供までもうけていた、なんと旺盛な人生なんだろうか。

1819年、73才。ゴヤは愛人レオカーディァと5才の娘ロサリートとの暮らしを営むために高台の別荘を手に入れる。丘の前には川が流れ、対岸にはマドリード市の風景が広がる。目の前には王宮が聳える。若き頃、野心に燃えて飛び込み、首席宮廷画家にまでのぼりつめた舞台だ。そして、あのアルバ公爵夫人のリリア宮が見える。彼はこの高台の別荘でわが人生を俯瞰しながら、幼い愛娘と静かに暮らそうととでも考えていたのだろうか。しかし、変転を強いる運命は、ゴヤに安住を許さなかった。

▼この年の暮れ、ゴヤは人生二度目の大病にかかり死線を彷徨う。左は、ゴヤを死の淵から救い出してくれた医師アリエータに感謝をこめて、1820年、ゴヤが描いた「ゴヤと医師アリエータ」(117×70cm)である。画の下に銘文が付されている。
 「1819年末の危篤状態から、優れた技量と看護で73才の私を救ってくれた友人の医師アリエータへ、感謝を込めて、1820年描く
 ゴヤ」
▼その画の様子から、肺の急性浮腫症状だと考えられる。肩は落ち、眼は血走り、呼吸困難の半窒息状態である。死線を彷徨う自分の姿を、ゴヤは手鏡か何かで観察したのだろうか。その血走った眼で彼は死に向かう自分の姿を観察した。すさまじい。
▼さらに、この画の背景に眼を凝らすと、左に二人の人物がうっすらと描き込まれている。さらに右手にも影が・・・・堀田氏は左の二人は、愛人のレオカーディァと司祭ではないか、右は、おそらく骸骨、つまりは死の表象そのものではないか、と推測する。
▼そして、その時、ゴヤの眼は、ある風景を目撃していた。死の世界。ゴヤは観察者としてその暗闇に浮かぶ「黒い風景」の詳細を記録していた・・・・・

▼驚くことに、死の淵から帰還したゴヤは、とてつもない大仕事にとりかかりはじめた。

「仕事は、1820年から22年にかけての三年間はたっぷりかかり、その間、彼の生活に関する情報はほとんど完全に欠如していて、その他の仕事も、ほんの三件くらいしかないのである。
 この間の時日を、ゴヤは、そのほとんどを、新しく得た別荘の主要な二間(階下の食堂と二階の応接間)の壁面を、全部で十五枚、まことに驚くべし、合計で三三平方メートル以上、独創ということばを持ち出すことがいささかならず気がとがめるほどの、独創的かつ創造的な作品で塗りつぶしたのであった。
 1820年3月末で、彼は74才であり、それも病後である。
 作品は、磨いた漆喰壁に直接油絵で描かれたもので、その点、フレスコ画法で描かれたサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会のそれとは異なるが、仕事の規模としてはまさるとも劣らぬものである。その肉体労力だけでも本当に驚くべきものである。
 1820年から23年、つまりは74才から77才にかけての病後の老人が、自宅の食堂と応接室に足場を組んで、その上に立ったり腰掛けたりして、4年がかりで絵を描いている。・・・・・・・
 それは、如何に職業的画家のすることとはいえ、狂気の沙汰である、
 いや、職業的画家であればこそ、なおさらに狂気の沙汰である。
 何故ならば、職業的画家とは、他人に見せる、見てもらうために絵を描く人の謂いなのである。
 それが、アトリエならがどもかくも、プライバシーそのものである、自宅の食堂とサロンの壁に描くのであるから、これはもう持ち運びもならず、まして展示も不可能である。
 ということは、他人様の誰にも見てもらう必要のない、つまりは先に言ったように、いわば見られないための絵画である。
 それは、美術のみならず、芸術一般が始原的に内蔵している矛盾の極北であろう。

 しかも、そこに描かれるものの内容たるや・・・・・・・。」(堀田善衛「ゴヤW」より)

▼暗い部屋で一人喘ぎながらも、画家ゴヤは壁に次々と現れる幻影の姿に創作欲を駆り立てられた。脳裏に克明に刻まれた「黒い絵」の数々を、病み上がりのゴヤは壁にぶつけるようにあぶり出した。プラド博物館に、その壁から剥ぎ取り持ち込まれた全ての絵が展示されている。「黒い絵」の展示室、さぞかしその狂気の沙汰の世界に入ると、気が滅入るだろうと思っていたが、私を包んだ空気はそれとはまったく逆だった。生気、展示室は「俺は死後の世界を見た!」と嬉々とするゴヤの無邪気な興奮に満ちていた。ゴヤの本質は、あくまでも無邪気な目撃者なのだと私は思う。 死後の世界をも、目撃し、絵に描いた、  
 Yo lo vi 私はこれを見た <ゴヤ  
74才から77才、「死の淵」を見たゴヤの興奮が溢れてくる。
▼1階、玄関のポーチを入ってすぐ、食堂の入口の壁に描き込まれた婦人像。おそらく彼女は同棲していた若き愛人レオカーディァ。喪服を着ている。彼女がもたれかかっているのは棺桶。その中には、ゴヤが入っている。いまなくなったばかりのゴヤに凭れて所在ないレオカーディァが、これからはじまる「黒い絵」の水先案内人だ。

▼レオカーディァの目線の先、食卓の向こう、反対側の壁に描かれているのは「わが子を喰うサトウルヌス」。
地上と天空の支配権を持つサトウルヌスが、わが子に滅ぼされるという神託を受け、生まれてくる我が子を次々と食い殺していった、という古代神話を描いたもの。
 その瞬間の逆上。白目を剥き出しにして、我が子に食いつくその一瞬の姿に美しいものは何もない。醜悪の極地、保身のために我が子をまでも握りつぶしてしまう究極のエゴイズム。救いはどこにもない。食堂の壁にこんな狂気の絵が飾られている。それを背にして、ゴヤと愛人と5才の娘が食卓を囲む、その日常の風景を想像するだけで身の毛がよだつ。こんなに日常の風景はどこにも・・・・・・いや、現在の我々の日常はこれとおなじ狂気と常に隣り合わせなのだ・・・・・ゴヤはそのことを突きつけて、楽しんでいるようだ・・・

▼これまた、根拠のない妄想の類だが、実物の前に立ったとき、最も印象的に飛び込んできたのは、食べられる子供の肢体であった。その白い肢体にゴヤ託したのはは子供ではなく、亡き妻、ホセーフアではないか。奔放に生き、家庭を振り向くことの少なかったゴヤの影で、ホセーフアは常に留守番をし続けた。その一方で、40年間の結婚生活の間に、ゴヤは20人の子をホセーフアに産ませた。おそらく産ませぱなしのゴヤの所業も大きく影響して、結局育ったのは男の子一人だけだった。ゴヤの身勝手さが、妻や無数の子供達を食い物にした・・・・・ゴヤはそんな自分自身の人生を嘲笑いながら、この絵を通して妻に懺悔したのではないか。



▼愛人レオカーディァの目線に先に「わが子を喰うサトウルヌス」がある。その横、窓一つ置いて、左隣の壁に描かれたのは「ユーディト」。ユーディトと呼ばれる女性は、聖書の経外書の女主人公。パレスティナ・ペチュリア市の寡婦だという。彼女は、アッシリア人がペチュリア市を襲った際に、策略を持って敵の将軍を誘惑し、その首を斬った、という物語を持つ。絵はまさに凶器を掲げ敵将を殺害しようとしている瞬間である。
▼この絵にゴヤは、あのアルバ公爵夫人の人生を写し取っていたのではないか。聴力を失い絶望のどん底にいたゴヤに近づき、甘美な思い出を紡いでくれた夫人は突如としてゴヤのもとを離れた。ゴヤにルソーの啓蒙思想を注ぎ込んだ彼女が次に接近したのは、よりによって帝国の宰相ゴドイだった。なぜ、彼女は独裁政治の長の愛人となったのか?その謎を、ゴヤはこの絵に託したのではないか。そして、アルバ公爵夫人の謎の死の真相も、この絵に託しているのではないか。     Yo lo vi 私はこれを見た <ゴヤ















▼次へ進もう。「聖イシードロの巡礼」
荒涼とした大地の中、どこまでもつづく行列。昼間だろうか夜だろうか、大地には草木一本生えていない。、皆口々になにやらわめきながら、うごめくようにして行列は動く・・・・。これこそ、死の淵で、彼の目の前に浮かんだ、死へ至る旅の風景ではないか。皆が向かうその果てに、無に帰する世界がある。
▼余談だが、ゴヤの一連の「黒い絵」の形相を、「狂気」「錯乱」などという言葉に閉じこめて、「暗い男だ。」と一蹴し通り過ぎてゆく、21世紀初頭の鑑賞者がいる。それは、我々が生きている現代の限界点を表明しているようにも思える。情報過多の時代に生きる21世紀の我々はその代償として「想像力欠乏」に陥ってしまった。戦後の日本。明るい経済発展、復興に眼を奪われるあまり、隣の半島で繰り広げられた朝鮮戦争の惨禍を自分の苦痛として引き寄せる想像力を封鎖した日本人の精神構造は、線維化していく肝臓のように堅く固まっていくばかりだ。
◇海を越えたすぐ向こうの朝鮮では、何十万という難民があてどもなく食もなく、夜の中を彷徨し死に果てているという時、また一日に数十本も世界の不安定を伝えてくる電報を処理しながら、なお安らかな妻子の眠り顔を思い浮かべられるということは、やはり不思議といっていいはずである。
◇ここまでくると、木垣はまたしても判断停止、であった。歩くのがいやになって来た。日に数十回も判断停止をして生きているということは、結局、何を考えるにしても結末はすべて判断停止で終わっているということである。
1951年 堀田善衛「広場の孤独」より

▼この社会の線維化は、世代間の精神交流をも封じ込めてしまった。例えば「認知症」という言葉にすべてを封じ込め良しとする「想像力欠乏症」。中高年記を過ぎ、自分の肉体が衰退に向かって転がり落ちると共に、また人生最悪の出来事に遭遇するに伴い、その精神は混乱し秩序を失うことがある。年と共に、興る奇行を「認知症」「せん妄」などという言葉に封じ込め、それぞれの老人達の叫びに耳を傾けなくなってしまったのが現代である。死の淵を見た老人達は、その鮮烈な風景の囚われ人となる。その衝撃と恐怖と不安が人々を奇行に走らせるのだ。老いゆくことは、この死の淵の風景の目撃を強いられることである。その風景を目撃し混乱する老人達を現代社会は「認知症」あるいは「せん妄」という言葉でかたづけてしまう。     ↓ 「聖イシードロの泉へ」
▼老人ゴヤは73才で死の淵を目撃した。現代ならその老人の奇行は「認知症状」「統合失調症」として片づけられてしまうのかもしれない。部屋中に足場をつくり、教会の宗教壁画を描く形相で、家の壁の全てを塗りつぶす75才の老人、しかも描く絵は暗くグロテスクの極地である。その異様な風景を、愛人と5才の娘はどのような心境で見守っていたのだろうか。

▼ 二階に移動する。この居間も四面の壁、すべてにゴヤは描き残した。その中で、もっとも印象的なのが次の二枚だ。居間の入口に立って左手に描かれた1.23×2.66mの大作がある。「決闘」


















▼泥土に埋まり、身動きできない二人の男が、殴り合いを続けている。逃げ場のない二人は、どちらかが息絶えるまで、殴り合うしかないのだ。ここには長い人生の過程で、ゴヤが目撃してきた様々なステージの抗争の図が凝縮されている。
「彼らはお互いに、争っているという単一の現実に閉じこめられて、残された唯一の自由であるところの棍棒を振るう
 これらの無益な抗争、内戦は、日成らずして外国(ルイ18世)の干渉を招くであろう。他のヨーロッパ世界が、混乱を排して資本主義経済の建設に励んでいるとき、ひとり人里はなれたスペインでは・・・・。と、そこまでを考える必要はまったくないにしても、この一枚は必然的にそこまでのことを思わせるもである。
 人間としてのこの二人を結びつけているものは、彼らの争いそのものに他ならないのである。ゴヤは何度も、男女が結びつけられて、あるいはシャム兄弟のように背中でくっついて別れようにもどうにもならぬ図を描いてきたものであった。
 人類の狂気、あるいは狂気の人類は、この世の終わりまでかかるものである、とする世界観が彼にあったものであろうか。それがなかったとは言えない。
 彼らの二人が二人とも地に倒れてしまっても、カスティーリアの高原を吹き抜けていく風に何の変わりもない。・・・・・・・・」(堀田善衛「ゴヤW」より)


▼一階と二階の壁を埋め尽くした14枚の「黒い絵」、その出口を占める作品が「犬」。画面のほとんどをしめるのは赤褐色の砂である。その下方に配された小さな犬の頭。これだけで、我々はこの作品が最後の一枚となる訳を悟る。アリ地獄に絡め取られた犬の身体はまもなく、砂の中に消え去るだろう。いくらあがいても、もがいても行く手にあるのは「死」だけである。その最後の瞬間、かろうじて命をつなぐ首をだして、犬は虚空を凝視している。それは行く手に暗黒の死の世界を見た、ゴヤそのもの姿だ。これ以上、何を語っても役立たない。我々は黙って絵の前に立ち、この犬の断末魔を目撃するしかないのだ。それにしてもなんと瑞々しい発想の絵だろうか。その冒険に満ちた構図、まるでシュールリアリムに傾倒する青年が描いた絵のようだ。この時、、ゴヤは76才である。



















▼いよいよ、ゴヤの長い人生にも幕切れの時がやってこようとしている。堀田善衛はなぜにここまでゴヤの人生を追尾したのだろう。今回の旅の最中、この長編評論を読み返しながら、考えた。一つは、やはり堀田の原点となった戦後の日本。復興の混乱の中で、自らの置かれた状況を直視することもせず、目先の快楽、安定に走った日本社会の中で、堀田善衛は孤独にあがき格闘した。その姿は18世紀から19世紀をまたぎ近代社会のカオスに突入したスペインの大地にあって、一人、時代の目撃者として格闘しつづけたゴヤと重なる。いやむしろこう考えた方がいいのかもしれない。堀田は自らの分身として、ゴヤを重ね合わせ、スペインという化け物と格闘しつづけたのかもしれない。裏返せば、それはつかみどころのない戦後日本との格闘の軌跡でもある。「スペインは語るに難い国である。」この壮大な長編はこの至言で幕開けした。それと同じように「日本は語るには難しい国である。」 その一部始終を、目撃しつづけるしかない。ゴヤと同じように・・・・・。

←ゴヤ「自画像」1824年 79才
▼そしてもう一つ、今回、スペインという恰好の環境で、しかもゴヤの実物を目の前にして、「ゴヤ」を読み返すという、イベントを通して、あらためて見えたことがある。それは、ゴヤが82才まで生きた、という事実である。しかも、「枯れる」とか「引退」とか「隠居」と言った、ありきたりの言葉とは無縁に常に描き続け、新しい技法を取り入れ、新しいテーマに挑み続けた、という揺るぎない事実である。自らの部屋で、誰からも観られることのない作品に4年の歳月をかけて取り組む75才の老人。部屋中につくった足場によじのぼり、絵の具を投げつけるようにして壁に絵を描く老人の姿を想像するだけで熱いものがこみあげてくる。その無限の創作欲に圧倒されるとともに、「お前も続け!それが評価されようがされまいが関係はない。自宅の壁にありきたりの力をそそいで絵を描いてみろ。」と鼓舞されるようにも思える。おそらく、日本文壇の頂点にまで上り詰めていた堀田は、ゴヤを通して、次に進むべき道標を学ぼうとしていたのではないか。そして、ゴヤの走った50才以降の人生路は、53才になった、いまの自分にとって、何よりの活路である。



▼1824年、79才のゴヤは、スペインを離れ、フランス、ボルドーに居を構える。そこでも大病を患ったが、それでも毎日、デッサンをし肖像画を描き続けた。そして、驚くことに、リトグラフという新しい技法に興味を示し、それを取り入れた版画集をも創りあげる。
 「芸術家(ゴヤ)は、石版をカンバスのように画架に立てかけて描いた。クレヨンをとがらさずに使った。立ったまま、いつも近づいたり離れたりしながら効果をたしかめた。彼はまず、石の面の全体を灰色に塗りつぶしてから、ナイフで光のあたる部分を削り落とし、かくて頭部や人物像、馬、牛などを描き出した。次にもう一度クレオンを使って影を濃くしたり、アクセントを施し、人物像を見せたり、動きを与えたりした。こういうふうにして、一度彼はカミソリの尖端を使い、リタッチは一切なしで暗い背景から不思議な肖像を浮かびあがらせた。もし私が、ゴヤのリトグラフの全部が拡大鏡を使って作られたものだと言ったとしたら、あなたはお笑いになるかもしれません。というのも実際に、彼は細かい仕事をしようとしてそうしているのではなく、視力がもう衰えていたからです。」(ローラン・マトロン)

こうして80才のゴヤがリトグラフという新しい技法を使って生みだした作品。翁が二本の杖を使いながらゆっくり歩く姿・・・題名はこうつけられた。    
         
       Aun aprendo
       おれはまだ学ぶぞ 




▼そして、最後の一枚がくる。ゴヤの82年の生涯の終着にこの絵が来たことに、凡人の私はほっとしている。1827年に描き上げた作品「ボルドーのミルク売り娘」。
 毎朝、朝日が昇る頃、ロバに乗ってミルク売りの娘はやってきた。ミルクを受け取り、見上げたゴヤの目は、朝日を浴びた清楚な娘の一瞬の佇まいを、脳裏に映しこんだ。これまで何枚の人物像を描き上げただろうか。その一枚一枚はまるで文学のように、その人物の遍歴や人生の苦悩、場合によっては未来の姿まであぶり出した。しかし、このミルク売りの娘には物語はこめられていない。毎朝早く、、ゴヤにミルクを届けてくれる娘、その接点だけでゴヤは筆をとる。その娘は、ただ茫漠といつものようにやってくる。その姿は毎朝、世界を照らす陽の光の中に、ごく自然に溶け込んでいる。
 波乱に満ちたゴヤの人生が、このごく普通の日常の中に溶け込んでいくことに、私は救われる。
この作品は、やがて来る印象派の時代を予見するものとなった。ああ、ただ、今、そこにある暮らしのなかに溶け込んでごく自然に生きていければ・・・・・・・
  1828年4月16日午前2時、ゴヤ永眠。享年82才。
愛人のレオカーディァの手記によると、ゴヤは死の間際まで、じっと右手を見つめていたという。






































※絵画引用は、Francisco de Goya Onlineから世界各地の公共美術館からさせていただきました。営利活動に使うことは一切ありません。
※堀田善衛「ゴヤ」の他に参考にしたもの:
       ローズ=マリー&ライナー・ハーゲン著「ゴヤ」
       神吉敬三「スペイン絵画の巨匠 ゴヤの革新性」

2007年1月15日