リセット
            2007年1月16日

 
   

 ▼7日間のスペイン旅行。12日にトレドを離れ、一旦、マドリッドのアトーチャ駅に戻り、特急でバルセロナをめざした。
4時間半の鉄道の旅。
 
▼車中、「ハックション!」とくしゃみをした。ボックス席に乗り合わせた女性が、
「サルー」とていねいに私に語りかけてくれたらしい。らしい、とはなんとも情けないが、本人はその瞬間の出来事にまったく気付かなかった。
 あとで、息子が解説してくれる。
 日本では、くしゃみをした方が、「失礼」と言うが、スペインではまわりが「salud!」と言ってくれるそうだ。
「salud」とは「健康を!」、「お大事に!」という気配りのある言葉である。留学して半年になる息子は、このスペイン人の気遣いに、当初、驚いたそうだ。あーあ、そんなこととは知らずに、ずいぶん、無愛想な態度をとってしまったようだ。申し訳ない。(この原稿を読んだ友人がさっそく教えてくれた。英語圏でも、くしゃみに対する反応はGod bless you 、いたわりの言葉だそうだ。無知でした。すみません)。


▼マドリッドでは気まぐれな夫の美術館巡りに辟易していた妻は、バルセロナに入ってから息を吹き返したように、溌剌と動いた。インターネットで探し出した安い宿、精力的な観光、妻のスケジュールをもとに、息子が地図を片手にナビゲートし、3人は、よく歩いた、歩いた、万歩計は軽く一日2万歩を越えた。

  バルセロナの「魂」 大聖堂カテドラル
 
バルセロナが隆盛を極めた13世紀から15世紀に建てられた。完成までに
 150年の歳月がかかった。

美しい支柱、その交差、



豪華な
ステンドグラス



 



      ■ サンパウ病院

 19世紀末、繊維工業などの発展により経済力を蓄えたバルセロナでは、新興ブルジョアジーが豪華で美しい建造物を建てようという運動が起こった。その代表がモデルニスモと呼ばれた運動。カタルーニャの伝統に根ざしつつ進歩的なスタイルを追究する建造物が次々に現れた。その代表的な建築家がドメネク・イ・モンタネールとアントニ・ガウディだ。

 サンパウ病院は、14万5000平方メートルの広大な敷地にドメネクによって建てられた病院。「芸術には人を癒す力がある」という信念で1902年に着工され、ドメネクが亡くなった後も息子に引き継がれ、1930年に完成した。
 この病院は「世界遺産」にも指定されている。

 ここにくるまで、ドメネクという建築家の存在を知らなかった。

































 
 



























■ サクラダ フアミリア
高台にあるサンパウ病院の正面玄関から、南にまっすぐ延びる大通り「ガウディ通り」の行き着く先に、天を突き刺す鐘楼が何本も見える。これがアントニ・ガウディ設計のサクラダ・フアミリアだ。























▼ガウディ通りの両側には鈴かけ(プラタナス)の樹が並ぶ。冬枯れの樹の向こうに聳える鐘楼はそれらと同化し、同じ樹の仲間のようだ。
 ガウディは1852年の6月25日、銅細工職人の第五子として生まれた。バルセロナの建築学校を卒業後、新興ブルジョアジーのエウセビ・グエロに認められ彼をパトロンとして次々に作品を発表した。1883年、31才の時、サグラダ・フアミリアの建築設計者に任命される。「貧民達の大聖堂」と呼ばれるこの寺院は、寄付金のみによって資金を調達するという志を持っている。

▼ガウディはこの寺院に、彼の自然・表現主義の思想を存分に注ぎ込んだ。幼い頃、リウマチを患い虚弱体質だった彼は、鳥のさえずりや虫の羽音に耳を澄ます、自然の営みへの鋭敏な感性を研ぎ澄ましていた。それはやがて、天体や植物など自然の造形を取り入れたイスラム建築への造詣へとつながる。つねに自然との共生関係の中で人間の営みを包み込む、その思想が形となって、この壮大な建造物にこめられている。























▼ガウディの構想では、この壮大な建造物にイエス・キリストの「生誕」「栄光」「受難」の3つのフアザードを描くことになっている。そのフアザードの一つ一つに4本づつ鐘楼を、合わせて18本を建てる。ガウディ自らが生前に完成させたのは東側の「生誕」のフアザードと4本の鐘楼である。あとは世界中から集まった建築家の手により、今も工事が続いている。



▼聖堂内部の天井は、光を受けるヤシの葉をイメージしてつくられた。柱は枝分かれしてのびる樹木の形態からヒントを得た・・・・

 新興ブルジョアジーのために次々と実験的な建物をつくってきたガウディは、晩年の1914年から26年まで、このサグラダ・フアミリアの建設に専念した。この地球上に生き惑星を構成しているあらゆる生き物の形態を刻み込むことで、彼は近代社会が邁進する「人間至上主義」に真っ向から抗することを自ら科したように思う。



             

▼ガウディは1926年6月7日、路面電車にはねられ、その事故がもとでこの世を去った。終生の仕事場であるサグラダ・フアミリアへ向かう途中だったのだろうか。いずれにしても、それから80年を経て、今なお、ガウディの頭脳に描かれた完成図をめざして、多くの人々が工事を続ける様はなんと美しいことか。


















 モデルニスモの街
























 ←ドメネク 作
「カタルーニャ音楽堂」








 ←↓ ガウディ作 「カサ・ミラ」
        ガウディが手がけた最後の民間建築物




























      



                     ↑
    ←↑ ガウディ作 「バトリョ邸」 ↓















 昼はサンジョセップ市場の中のカウンターで




 果物、野菜、魚、パン・・・・あらゆる生鮮食品が
 所狭しと並ぶ市場 バルセロナ市民の台所





 目の前で料理してくれる。食料品は安い。
 “材料を買い込んでキッチン付の安い宿で料理するよう な旅がいい”








 クール・ジャパン クール・スペイン


 ▼バルセロナ繁華街のビルに入る息子について行くと、漫画専門店だった。驚くことに、その大部分が日本の漫画本だった。我が家の名字から、息子は日本では「しんちゃん」と呼ばれていた。こちらにきて、街を歩いていると街の子供達から「しんちゃーん」と呼ばれて驚いた。聞くと、スペインでは「クレヨンしんちゃん」が大ブームで、子供達は日本人をみれば、「しんちゃん」と言うらしい。テレビでは、「ドラゴンボール」のアニメも人気を博している。ニュースのリポート企画でハこんな放映があった。
「ある地方の街のサッカー倶楽部が困っている。子供達の入会が減っているという。調べてみると、多くの子供が、放課後、家に帰ると部屋に閉じこもって、日本製のサッカーゲームに没頭している。おかげで、実際のサッカー倶楽部に通う子供が減ってしまった・・・・。」 こんな、本当かな、と思うリポートまで放映されたそうだ。
▼1970年代、はじめて海外の旅に出たとき、驚いたのは、メイド・イン・ジャパン、日本製の商品に対する関心、経済大国日本への興味の高さだった。百円ライターに皆が目を丸くする、という光景まであった。しかし、ただ経済だけの知名度にすがりついているようでもあり居心地はあまりよくなかった。それから30年、息子達の世代が体験する世界では、日本といえば、「ゲーム」「アニメ」そして「マンガ」、この文化の波及効果のおかげで、息子達留学生は世界にすぐにとけ込んでいるようにもみえる。
▼秋葉原系の「オタク」もすっかり国際的地位を持っているようだ。そのマンガ専門店に英が「電車男」のビラが貼ってあったのには驚いた。

▼地方の街で育った私にとって、若い頃、一番、カルチャーショックを受けた街は「東京」だろう。その後、、欧米の街を訪ねても、やはり、上京したばかりの頃の戸惑いをこえるものはなかった。とはいえ、やはり、異文化の石の街を歩いていると異邦人としての不自然な感覚にとらわれる。
▼これに対して、東京育ち、しかも、アニメやマンガを通して日本文化への「あこがれ」が高まる空気に後押しされてか、息子達の世代は、力むことなくごく自然に欧州の風土に馴染んでいるようにみえる。そのしなやかさが、若さ、ということだろうか。うらやましい限りである。

▼夜、サッカー、スペイン・リーグを観る。カードは同じバルセロナ市を拠点とする、FCバルセロナとエスパニューラ、バルセロナ・ダービーと呼ばれる伝統の一戦だ。
 接戦の末、エスパニョーラが勝利した。会場となったオリンピックスタジアムは大変な熱狂だ。いつまでも興奮するサポータの輪を繰りしながら帰路についた。その時、息子が「やっぱり、Jリーグの方が興奮するよなあ。」と言ったのは新鮮だった。川崎で生まれ育った彼はベルディのサポーターである。欧州リーグをめざしてJリーグが旗揚げして15年になるだろうか、その成熟と共に育った息子達にとっては、スペイン・リーグもJリーグも気負いなく等価価値で観ることができるのだろう。この30年、日本で成熟したサッカー・スポーツやアニメ、マンガ文化の大きさを改めて感じる。漢字のTシャツ姿で街をゆく若者達の姿を見ると、ごく自然に「クール・ジャパン」の風が吹いているのを体感する。














▼メモがわりにカメラを撮っていると、スペインの路地に、いいしれぬ魅力を感じる。路地にすわり、楽器を奏でる若者がなんと多いことか。スペインの若者達も日本人と同じ「オタク」の気質にあふれているのかもしれない。フランコの独裁体制時代から、政治とは距離を置き自分達の身辺から文化を掘り起こしてきたスペイン人に、日本人との共通点を思う。今もこの路地のどこかにゴヤやピカソがいる・・・・。




































▼かつては、休みのたびに、妻のつくったスケジュールをもとに、子供3人とずぼらな夫はぞろぞろと、行楽地を歩いたものだ。家族そろって、どこかに行くことは、いつのまにかなくなってしまった。今回は、全員そろってとまではいかなかったが、久しぶりの家族旅行だった。その意味で、充実した1週間だった。
▼15日の朝、バルセロナ・サンツ駅で、息子は、「じゃあね。」とあっという間に雑踏に消えていった。授業の間隙を縫って、我々に付きあってくれた息子は、何事にも「はい、はい。」と素直にガイド役をこなした。この旅では親の思うようにしてやろうと決意してきたようである。いつのまにか、彼も大人になった。特急でマドリッドに戻り、そこから乗り継いで、セルバンティスの故郷・アルカラの大学にかえる。なんとか午後の授業に間に合うという。

▼再び二人になった。空港までの電車に乗った。車内に、サックスを手にした男が入ってきて演奏をはじめる。地下鉄でもこうした小さな楽隊によく出会った。さりげなく演奏が始まり、終わると小銭が投げ込まれる、そんな風景によく出会った。
▼車内で演奏された曲は「イエスタディ」だった。旅の終わりにはちょうどいい。
 ちょっと湿った感傷と共に、冬のスペイン風景が走りすぎてゆく。

 息子は、無事、特急に乗っただろうか。

さあ、あすからまた、出直そう。リセットだ。

2007年1月16日