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        長崎市長 凶弾に倒れる  
        2007年4月19日

◇長崎市長・伊藤一長の名前と姿をはっきりと記憶に刻んだのは1995年11月のニュース映像だった。広島・長崎への原爆投下から50年のこの年、オランダ・ハーグの国際司法裁判所で、「核兵器の威嚇と使用は、国際法上違法か否か」を裁く、まさに史上初の“核兵器裁判”が開かれた。
 この時、法廷に立ち、核兵器の違法性を切々と訴えたのが伊藤長崎市長だった。

◇伊藤一長氏は、長崎に原爆が投下された2週間後の1945年8月23日、山口県長門市で生まれた。3年後、長崎に移り住み、以後、長崎で育ち、長崎市議、県議などを経て、1995年の5月、50才の時、長崎市長に初当選した。
◇初当選からわずか3ヶ月後に国際法廷に立つことになった伊藤市長のやや紅潮した表情とその潔い訴えに鮮烈な印象を受けたのは私だけではないだろう。
 市長は、原爆による爆風で吹き飛ばされて即死した少年や、黒こげになった少年の遺体の写真パネルを判事達に示しながら、陳述をおこなった。

「こちらは爆心地付近で焼死した少年の黒焦げの死体です。この子たちに何の罪があるのでしょうか。この子たちが銃を持って敵に立ち向かったとでもいうのでしょうか。ノーベル平和賞を受賞されたマザー・テレサは、長崎の原爆資料館に展示してあるこの写真を見て『すべての核保有国の指導者は、ここに来てこの写真を見るべきだ』と言いました。あえてわたしからも申しあげます。すべての核保有国の指導者は、この写真を見るべきです。核兵器のもたらす現実を直視すべきです。そして、あの日この子らの目の前で起きたことを知ってほしいのです。この子らの無言の叫びを感じてほしいのです。」
「核兵器は、その強大な威力により、戦闘員と非戦闘員、また軍用と民間用とにかかわらず無差別に殺傷または破壊する兵器であり、また、核兵器特有の放射線は、特定の軍事目標のみを対象とすることができず、直接戦争に関係のない人々をも殺傷する非人道的な大量殺戮兵器であると言わざるをえません。わたしは、戦闘に関する国際法では、兵器の選択について無制限な自由は

認められておらず、その禁止を明文化されていない兵器であっても、@文民を攻撃すること、A不必要な苦痛を与えること、B環境を破壊することは禁止されていると聞いています。核兵器の使用は、まさしくこれらの禁止事項に該当するものであり、国際法に違反していることは明らかです。
 わたしは、当裁判所が、このたびの審理に際し、核兵器の持つ非人道的性と国際法上の違法性についての公正な判断を示され、核兵器廃絶を悲願とする長崎・広島の市民はもとより世界の同じ思いの人々にこのうえない力と勇気をお与え下さるよう願ってやみません。そしてこのことこそ、去る50年前、長崎・広島のあの原子野で悶え死んだ老若男女21万4000人の犠牲者にたいする最大の鎮魂になるであろうと信じます。・・・」

◇法廷で、女性のすすり泣く姿も映し出された。市長の証言が終わると、ベジャウイ裁判長はゆっくりと「感動的な陳述に感謝します」と述べた。

◇この鮮烈な証言から数ヶ月後、私は広島放送局に転勤となり、奇しくもこの核兵器裁判の全貌を描いたドキュメンタリーの制作に参加することになった。その意味で、私は市長の証言に誘われて、核拡散という理不尽きわまりない迷路の中に分け入ることになったと言っても過言ではない。

◇あれから、12年、昨夜、「市長、銃撃される」の第一報が飛び込んで来たときから、職場でその一部始終を凝視する巡り合わせとなった。腹の底からこみあげる怒りと、鈍くつきぬける空洞を抱え込んだような喪失感が、睡魔をともなった疲労感とともに波打っている。深夜2時28分、市長が息を引き取ったという知らせが入った。早朝、ホテルに帰ったが寝付かれなかった。一見、平和な日本という国で、こんな惨劇が起こっていいものか、腹が立った、そして、おそらく、この事件も数あるワイドショーのネタの一つとして数日騒ぎ立てられた後に、使い捨てのライターのように、忘却されていくのか、洪水のような情報を浴びるうちに全てが他人事になってしまう想像力欠落症候群に陥った日本人の日常、そしてその中に安穏と暮らす自分の怠慢・・・すべてに腹が立つ。
                          2007年4月19日
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