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                清流と炎 

       2007年 8月6日

 
  珊瑚刺桐
(サンゴシトウ)
     マメ科

熱帯アメリカ原産。枝先の鮮紅色の花が珊瑚に似て、茎にトゲがあることからこの名前がついた。葉が菱形で、アメリカデイゴの交配種であることからヒシバデイゴの別名もある。

花言葉は夢、童心。


 今年の8月6日に公園でみた花。鮮紅色のこの珊瑚刺桐。

2007年86日午前8時。広島平和記念式典の中継映像を、見た。例年と同じように、式典中継の始まりは、死没者名簿の奉納のシーン。この一年に死亡、または死亡が確認された被爆者は5221人になる、というコメントを聞いて、改めて驚いた。奉安箱に納められた原爆死没者名簿は91冊、記載された死没者は253008人に上るという。
「253008人」 改めて肝に銘じなければならないのは、その死亡者のほとんどが市民であるということだ。ごく普通の暮らしを送る市井の人々を無差別に殺戮する空爆、その極みに原爆がある。
式典に集まる2万人もの市民の顔々を一望しながら、昨夜放送された「ハイビジョン特集“証言記録 マニラ市街戦 〜死者12万 焦土への一ヶ月〜”(2007年85日午後7時〜9時 衛星hiを思い出す。。
番組は、戦前、アメリカの統治下で平和を謳歌するマニラ市民を映像から入る。美しい街並み、ショッピングを楽しむ市民、美しい夕日・・・しかし、1945年、そのマニラが戦場となった。「T shall  return!」の公約を果たすため、躍起になって攻め上がるマッカーサー率いる米軍、海の要衝を死守するという大儀のために無謀な応戦に突入する日本海軍。彼らは陸軍の反対を押し切って、陸に不慣れな海兵隊員をマニラ市内に配置するという無謀な道を選んだ。
 わずか一ヶ月のマニラ市街戦で、12万人の死者がでた。そのうち、10万人がマニラ市民だった。この番組は、マニラで戦った日本、アメリカの元兵士、そしてマニラ市民38人の証言、さらに掘り起こした記録映像で、市街戦の全貌をあぶりだした。
戦争にいたる道の最初の引き金に、大衆の無責任なポピュリズムが大きな役割を果たしていることは否定できない。「国家のために」という大衆の連呼に後押しされるようにして、政府が信念を失い軍が膨張していった。そして、その大団円は、焼き尽くされ行き場を失い逃げ惑う無数の市民の惨禍に収斂されていく。
 取材・構成は金本麻理子、フリーのディレクターである。番組の終盤、彼女は元米兵に率直な質問を投げかける。「なぜ10万もの市民が犠牲にならなければならなかったのか?」
 元米兵は「少し考えさせてくれ。」としばらく言葉を探し、こう答えた。
「時々思うんです。私たちがそこへ行った理由は何か?でも何度考えてもわからない。唯一の理由は 誰かがそこに行けと言ったからです。」
 「戦争を始める奴らを最前線に立たせるべきです。そうしたらいくつの戦争が起きると思いますか。ゼロだよ。」
地を這う一兵卒の悶絶を体感できる想像力があれば、だれも軍備増強など考えない。
 
平和式典に戻ろう。会場を埋めつくす列席者を過ぎって、中継カメラは後方にある建物・原爆資料館にズームインする。画面は資料館の中に切り替わり、カメラは入口にある「地球平和監視時計」に向かう。ここには二つの数字が表示されている。一つは「22645」広島に原爆が投下されてからの日数。その下にある数字「301」は最後に核実験がおこなわれてからの日数だ。昨年の秋、北朝鮮で核実験がおこなわれた直後、時計はリセットされた。館内の柱には、世界で核実験がおこなわれるたびに広島市が送りつけた抗議プレートが埋められている。その数は8カ国、593枚になった。カメラは去年10月の北朝鮮の核実験の翌日、金正日に送られた抗議文を大写しにした。
秋葉市長の平和宣言。北朝鮮の核実験からわずか10ヶ月、今年、市長はどのような言葉を残すのか。
  「運命の夏、8時15分。朝凪を破るB−29の爆音。青空に開く落下傘。そし  て閃光、轟音――静寂――阿鼻叫喚」  
 広島の惨状を語る最初の言葉は、人々の心をついた。市長は、日本政府に対してのはっきりと注文し、核保有国アメリカに対しての毅然とした抗議もした。
 「唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を  学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶  のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあ  るがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり“ノー”と言う  べきです。・・・・」

 しかし市長からは、核実験をおこなった隣国北朝鮮の核開発に対しての厳しい警告を聞けなかった。これが不思議でしかたない。

今年も、子供代表の“平和への誓い”が心に迫る。
  「私たちは、ヒロシマを“遠い昔の話”にしません。私たちは″戦争をやめよ   う、核兵器をなくそうと訴え続けます。」

 広島市立五日市観音西小学校6年生の森辰哉君、広島市立東浄小学校6年生の山崎菜緒さんの声はすばらしかった。透きとおった、心のこもった声が清流のようだと思った。そういえば、昨夜の「マニラ市街戦」、中条誠子の凛としたナレーションも美しかった。毅然とした決意の言葉にふさわしい「声」が人々を浄化して流れていった。

  この式典中継をはじめ、毎年、原爆関連の番組を出し続けているのは広島放送局の若い十数人のチームである。このチームが7月末、中国地方向けのローカル放送で「“原爆の火”守り続けた男」(7月27日午後7時30分〜55分「ふるさと発」)を制作した。
 山本達雄さん(二年前他界)は、被爆直後、叔父の消息を求めて、焦土となった広島を彷徨った。2週間の捜索、その最後の日、もう一度、叔父の屋敷跡にきた。その時、崩れた屋敷の片隅で燻っている炎を発見する。山本さんはそれを叔父の形見として、懐炉に入れて持ち帰った。以来、山本さんは、故郷の福岡県八女郡の星野村で、炎を絶やすことなく燃やし続けた。しかし、広島でどんな体験をし、なぜ火を灯し続けるのか、家族にすら語ることはなかった。
▼父の死後、山本達雄さんの二男の拓道さん(57)が「原爆の火」に込められた父の思いを確かめたいと、知人への聞き取りや遺品の整理を始めた。番組は、“原爆の火”を守り続けた父の心の軌跡を、息子がベールを剥ぐように一枚づつ明らかにしていく。
▼今年、広島放送局の働きかけで、星野村で燃え続けていた炎が、62年ぶりに広島に戻ってきた。
炎は、8月1日、放送局の前に灯った。碑の前には「ヒロシマの火、平和への灯」と書かれている。星野村の火は、全国の宗教関係者らが平和記念公園で復興の願いを込めて点火した「平和の灯」と共に、広島の地で永遠に燃え続ける。

夏の熱い陽射を受けて萌える緑の中、ひときわ鮮やかな珊瑚刺桐の紅。市井の人々の揺るぎない情念を移しこんだ「ヒロシマの火」と重ねあわせて、記憶しよう。


                          2007年8月6日
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