山頭火・句碑探訪 @ 2007年 9月12日
鐵鉢の中へも霰
<建立場所>
愛媛県松山市御幸一丁目
<建立年月日>
昭和16年3月21日
◇住宅街の一角にさりげなくある「一草庵」を訪ねたのは何年ぶりだろうか。自由律俳人・種田山頭火の終の住処である。あいにく、鍵がかけられており、家の中に入ることができなかったが、目的は庭の句碑にあった。
◇山頭火は1882年(明治15年)12月3日に今の山口県防府市に生まれた。この地は私の故郷でもある。高校の先輩でもあるこの雑草詩人の遺した句は、年追うごとに身に染みる。その、時に情けないほどのナルシズムを若いことは毛嫌いしていたが、晩年の山頭火と同じ年齢になるにつれ、ごく自然にその句が流れ込むようになっている。気負いなく、山頭火はいい、と思えるようになった。
◇西日本各地を雲水姿で流浪の末に、山頭火は亡くなる一年前の1939年(昭和14年)に松山市のこの地に「一草庵」を構えた。ここから歩いて道後温泉にいける。好きな酒と温泉の日々であったにちがいない。10ヶ月、この庵で過ごし1940年(昭和15年)10月11日、59歳で逝った。
『一草庵記』 昭和15(1940)年5月
わが庵は御幸山すそにうづくまり、お宮とお寺とにいだかれてゐる。老いてはとかく物に倦みやすく、一人一草の簡素で事足る。所詮私の道は私の愚をつらぬくより外にはありえない。
おちついて死ねさうな草萌ゆる
◇山頭火研究会が発行した「山頭火句碑集」を引っぱり出し、ぼんやり眺めている時、ふと、自分もここに記されている句碑を全部訪ねてみたい、と思った。偶然、その数日後、松山への出張が決まった。これは何かの縁だ。
鐵鉢の中へも霰
『山頭火随筆集 白い路』より
雪もよひの、何となく陰悪な日であった。私自身も陰鬱な気分になってゐた。数日来、俊和尚に連れられて、その相伴で、方々で御馳走になった。私はあまり安易であった。上調子になりすぎてゐた。その事が寒い一人となった私を責めた。かういふ日には歩けるだけ歩けばよいのだが、財布の底には二十銭あまりしかなかった。私は嫌とも行乞しなければならなかった。私は鐵鉢をかかへて、路傍の軒から軒へ立った。財法二施功徳無量檀波羅密具足円満ーーーその時、しょうぜんとして、それではいひ足らない、かつぜんとして、霰が落ちてきた。その霰は私の全身全心を打った。いひかへれば、私は満心に霰を浴びたのである。
笠が音を立てた。法衣も音を立てた。鐵鉢は、むろん、金属性の音を立てた。
けふは霰にたたかれて
鐵鉢の中へも霰
前の句はセンチが基調になっているから問題にならない。後の句は表現しようと意図するもjのが、どうも表現されていない。ずいぶん苦心したけれど駄目だった。
此句は未完成であるが、鐵鉢は動かない。最初から最後まで鐵鉢である。そして私はその霰をありがたい○としてかぶったのであるが、その意味でまた、いただいたのである。
◇句碑に刻まれた文字は山頭火の自筆である。その勢いのある筆跡はいかにも自由奔放な詩人にふさわしい。
鉄の鉢に降り注ぐ霰がたてるパラパラという音が聞こえてくる。翁は両手で鉢をかざし、
空を仰いだのであろう。
◇句碑に使われた石は瀬戸の青石である。山頭火が逝った次の年の3月21日春分の日に友人が建てた。
◇碑の下には山頭火の髭(あごひげ)がおさめられたために、この句碑は髭塚(ひげづか)と呼ばれている。
参考 「山頭火句碑集」(山頭火研究会)
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