「まさか」の引き金
2007年9月21日
パンパスグラス
(下野)
イネ科コルタデリア属 学名 Cortaderia selloana(和名:白銀葦シロガネヨシ)
8月から10月にかけて、垂直に立ち上がった茎に長さ50〜70cmの羽毛のような花穂をつける。色はややピンクがかった白銀色。穂の高さは2〜3m、風になびく姿は壮観である。
南アメリカ原産。 (ブラジル、アルゼンチン、チリ)。「パンパ」はアルゼンチン近辺の
草原地域の名前。 「パンパ地方に生えている、 グラス(芝)」
▼「人生には上り坂、下り坂もあるが、もう一つの坂がある。『まさか』だ。」
後継者の突然の退陣表明を受けての小泉前首相の発言は、またもコピーライターのように印象的だったが、それがかえって空々しく尾を引くのが数年前とはまったく違う時代の空気なのだろう。時代は決して後戻りしない。
▼朝青龍問題と首相続投問題が同時に世間を賑わせている渦中、居酒屋では二人のの去就が話題になったが、その際、「続投と決めたんだからやるしかないじゃないか。」と言うと、隣席は、驚いたように、「君はやっぱり、山口県人だなあ。同郷人をかばうね」。今回の参院選挙での大敗の責任をとってやめるのが常道であったと思う。しかし、首相は続投を決意した。その真意は、憶測だが、「小泉・安部」の二枚看板として選挙の看板になってきた自分の役割への反発ではないか。選挙に負ければこれで終わりなのか、そんなことはない、国民投票法の成立、教育基本法改正、防衛庁の省への昇格、とこれまで歴代の総理ができなかったことをやってきた。選挙の顔だけではない・・・・」これが選挙直後の首相の胸の内ではなかったか。そして、首相候補の最右翼とされながら、あと一歩で首相になれなかった父・故安部晋太郎氏の無念さを感じれば感じるほど、易々と総理の座を明け渡すことはできなかったのではないか・・・・・・しかし、党内の空気は一変した。辞めない総理への不信感、その空気を敏感に感じた首相の感受性が側近への不信へと連鎖し、首相は内へ内へと引きこもっていった。これまでプリンスとして、国家や憲法などを大きな概念として考えればよかった環境とは一変した。首相の人生の中で、これほど自分自身のことを攻撃される事態は初めてであったにちがいない。
▼そんなことを思うと、「そういう逆風を受けても続投すると決めたのだから・・・・」という緩い気持ちになった。そこが同郷人としての甘さなのだろうか。
▼安部首相は岸信介元首相の孫だという流れで語られるが、首相の中にはもう一つの遺伝子がある。父方の祖父、安部寛氏の遺伝子である。日置村(現在の長門市)の村長を務めた安部氏は、地元では「今松陰」と呼ばれ、その清廉潔白な姿勢から吉田松陰の再来といわれた。真珠湾奇襲の翌年に行わた翼賛選挙。すべての政党が解散させられ、大政翼賛会に統一にさせられた。いうまでもなく大政翼賛会は戦争支持を掲げている。その異常事態の中で第21回衆議院選挙が行われた。安部寛氏はこの選挙に出馬、無所属・非推薦で出馬し、東条英機ら軍閥主義を徹底糾弾した。もちろん、軍部から厳しい弾圧を受けたが、なんと4位当選を果たす。国会でも寛氏は三木武夫氏らとともに東条首相の戦争政策を批判し退陣を求め、戦争反対、戦争終結の運動を起こす。安部晋三首相にこの反骨の遺伝子が流れていることは、地元ではみなが知っていることだが、東京の人は意外に知らない。
寛氏は戦後第一回の総選挙に出馬すべく動き始めた。しかし、不運にも選挙を数ヶ月前に控えた1946年1月30日に心臓麻痺で急死した。51歳だった。
▼それから7年後の1953年の総選挙で、安部晋三氏のもう一人の祖父、岸信介氏が政界に復帰した。戦後、戦犯として巣鴨プリズンで過ごした岸は釈放された後も公職追放になったが、講和条約の発効と共に公職追放を解除された。岸は極東裁判でも何も尋問されなかった。その理由として、岸自らがこう語っている。「“なんで、ほかの戦犯のようにやられないんだろう”という疑問は、多少持っていた。そこへ、だんだんとアメリカでも吉田に対する批判が高まってきた。いまは進駐軍がいるからいいけども、やがて進駐軍が引き揚げたとき、左右の対決のバランスが崩れるかもわからない。そこで、保守のリーダーとしておれに白羽の矢が立てられ、早々に釈放されたんだ。」(大下英治著「安部晋三」より)
▼岸信介の軌跡には、近代日本人の精神の屈折が象徴的に表れているように思える。
▼以前にも書いたが、1986年に出版された岸田秀氏の「黒船幻想」(トレブイル社)から書き写したい。
<わたしは、近代日本は精神分裂病の一ケース、アメリカは強迫神経症の一ケースと見れば、それぞれの国家としての行動がよく理解できると考えている。ペリー来航から太平洋戦争を経て現在の貿易摩擦に至るまでの近代百数十年の日米関係は、政治的、経済的要因だけでは説明できず、何よりもまず、病的国家と病的国家との病的関係と見なければならない。
▼このようなわたしの国家観、歴史観は、唯物史観をはじめ一般の常識と矛盾するし、とくにアメリカに関するわたしの精神分析的説明は、アメリカ人なら当然、腹を立て、決して承認しないであろうと考えられるものである。
▼アメリカの国家の起源は、親切に迎えてくれたインディアンを虐殺し、しかも、虐殺者であるピルグリム・フアーザーズを聖者に祭り上げ、虐殺を正当化したことに発し、そのため、他民族の大量虐殺を強迫的に反復するという病的症状を呈するに至り、それが自由と民主主義の名のもとでの対外戦争、対外侵略に表されているという説明なのだから。・・・・・・(略)・・・・・・
▼1853年、ペリーが来航して開国を迫られたことによって日本は、軍事的に到底かなわない欧米諸国を崇拝し、迎合と屈従によって危機に対処し、外的現実に適応しようとする層と、現実適応なんかは考慮せず、ひたすら日本の誇りと独自性を主張しようとする層とに分裂した。前者が外的自己(この場合で言えば、佐幕開国派)、後者が内的自己(この場合で言えば、尊皇攘夷派)である。日本においては、この分裂状態が現在に至るまで、様々な形で(たとえば、内治派と征韓派、政党政府と軍部、保守党政府と左翼陣営、政界と経済界など)つづいているというのが、わたしの説である。このような外的自己と内的自己との分裂は、個人の場合で言えば、まさに精神分裂病であって、近代日本は精神分裂病の一ケースであるという私の見方は、ここから出ている。
▼「アメリカと日本の最初の関係のはじまりなわけですけれども、その最初の事件に関するアメリカ人の見方と日本人の見方に、非常に大きな開きがあって、そこに日米誤解の出発点があるんじゃないかと思います。日本の側から言えば、あれは強姦されたんです。」
▼「僕は、個人と個人の関係について言い得ることは集団と集団との関係についても言い得ると考えているわけです。強姦されたと言ったのは、司馬遼太郎さんですがね。僕はどこかで読んだんですけれども、そのとき、まさにそうだと僕は思ったわけです。日本が嫌がるのにむりやり港を開かされたのは、女が嫌がるのにむりやり股を開かされたと同じだと。ところがアメリカのほうは、近代文明をもたらしてあげたんだぐらいに思っている。」
▼「アメリカのほうは、封建主義の殻に閉じこもっていた古い日本を近代文明へと開いた。むしろ恩恵を与えたぐらいのつもりで、日本のほうは強姦されたと思っているわけですね。同じ事件に関する見方が、かくも違っている。」
▼「ああいう形で日米が出会ったのは、やはり不幸な出会いだったんじゃないかと思います。いわば、ある男と女の関係が強姦ではじまったようなものです。そしてその強姦された女は、その男と仲良くしたいと思うんだけれども、いろいろなことから、どうしてもこだわりがあるわけです。」
▼「日米関係の出発は、お互いにぜんぜん知らなかった同士であった男と女で、男が女を強姦することによって、二人の関係がはじまったというのに匹敵する一つの不幸の出発であったと。」
▼「強姦と和姦の区別は非常に難しいんで、このへんはアメリカのウーマンリブの連中も主張していると思うんですけれども、強姦された女が男に協力するんですよ。最後まで抵抗して、いやだいやだと言い通し、暴力で押さえつけられて、むりやりやられるというケースはむしろ少なくて、あるところで男に協力するわけですね。あそこのほうがいいと男を快適な場所に連れて行ったり、男が喜ぶようなサービスを自ら選んで提供したり。」
▼「やっぱり個人の神経症の患者の精神療法とまったく同じで、患者自身がもっとも認めたくない不愉快な事実を認めないと、治療にはならないわけですから、その事実を両方が認識する必要があるんではないかと思います。そして男と女の場合でも、強姦された女も、この男とと仲良くしようとする場合には、被害者のほうも、その事実を否定するわけですね。加害者はもちろん否定する。被害者も否定する。だから否定するという点で、加害者と被害者が同盟するということがあるわけです。」
▼「自分がそういう屈辱的な目にあいながら、のこのこと相手について行ったわけですから。自分がそんな卑屈なことをしたことは自分でも認めたくないんです。最後の最後まで抵抗して暴力で抑え込まれた場合は、女は、少なくとも自ら進んでは協力しなかったという最低線の自尊心は守ったわけですから、まだしも屈辱感は少ないんです。怯えて屈伏し、男に気に入られてようとして積極的にサービスしたりしてしまった女のほうが屈辱感はくらべものにならないほど深い。そういう点から考えれば、抵抗したあげく、軍事的に敗北して植民地になった国よりも、日本のほうが屈辱感は深いと見なければなりません。しかし、強姦した男のほうから見れば、後者の女に対しては前者の女に対するほど加害者意識はないでしょうね。女が喜んでいるように見えたでしょうから。」(岸田秀「黒船幻想」より)
▼巣鴨プリズンを釈放され、暗黙のうちにアメリカの意を受け形で政界に復帰した岸は、アメリカとの微妙な関係を持続しながら、自主憲法制定の目標を掲げた。その屈折した心理状態は近代日本のゆがみそのものであり、今に続くジレンマである。
▼祖父に溺愛されてそだった晋三氏は、間近に祖父の葛藤を見てきた。60年安保の騒動の際、デモ隊に囲まれた祖父の家の中に晋三氏はいた。投石するデモ隊に対し、晋三氏は水鉄砲を向けて対抗したという。
▼今回の「まさか」の首相退陣表明、その直接の引き金となったものは何なのか?
確かに、選挙大敗後の自民党内の足並みの乱れの中での孤立感というものあるだろう。しかし、それ以上に大きな要因となったのがアメリカの存在ではないか。
▼アメリカでは、2006年11月の選挙で、野党・民主党が上院・下院とも制した。それ以後、強硬なブッシュ政権も民主党との対話路線への変更を余儀なくされている.。対話路線に転じたアメリカに安部政権は歩調を合わせることを強いられる。そのことは、一方で「主張する外交」「戦後レジュームからの脱出」を掲げた安部政権を支持してきた保守層の期待を裏切ることになる。アメリカの変容に臨機応変に対応できず迷走が加速した。それに追い打ちをかけた国内問題、閣僚の不祥事、挙げ句の果てが参議院選挙での大敗・・・・。
▼そして最悪の時に、オーストラリアでのブッシュ大統領との会見があった。中東政策の失敗を国内で糾弾され追いつめられているブッシュ政権は、安部首相にあらためてインド洋での給油継続を強く求めた。これが首相の混乱する精神に、鋭い矢のようになって突き刺さった。ブッシュ政権から得てきた信頼を失うわけにはいかない。そうしたアメリカに対する心の置き所の脆弱さが、「まさか」の引き金となった。
会談後の会見で、首相の口から「職を賭してまでも・・・・」という言葉が思わず飛び出す。
▼追い込まれた首相の心理状態は、テロ特措法延長という一つの矢に収斂されていく。そして、それを実行するにあたって、座右の銘である吉田松陰の「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」を反芻し、その結果が民主党の小沢党首との会談という、最後の頼みの綱だった。「小沢さんならわかってくれる。」
▼安部晋三氏には二つの大きな遺伝子が絡まり合っている。一つは昭和の妖怪・岸信介、もう一つは、戦時中、軍閥政治を批判し続けた安部寛。その混在する価値観を、状況に応じて臨機応変に使い分けるのが長州人の気質であり狡さである。しかし、自民党のプリンスとしてもてはやされのぼりつめたここ数年の首相の行動原理は、すべて岸氏の軌跡を辿るものだったように思う。「俺は岸の養子ではない。アベカン(安部寛)の息子だ。」と常々言っていたという父・安部晋太郎氏に倣って、祖父・アベカンの遺伝子をもっと遠慮なく表出させてもよかった。
▼首相退陣表明から僅か数日しかたっていないのに、世間の興味はすでに次の首相は誰なのかに移っている。都内の病院に入院中の首相は、今日、53回目の誕生日を迎えた。、[
※参考:大下英治氏著「安部晋三」(徳間文庫)
PS
「アメリカという国は重大な問題に際して、複雑な国内問題と子供っぽい感情を持ち込む国だ」
ドゴール
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