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         草霊 2007年 晩秋〜冬

 1. 木枯らし


▼トチノキの林の向こうから、大きな風が吹き寄せ、公園の木々が一斉にザワザワと音を立てて舞いはじめた。饗宴はしばらく続き、人々は足を止めて冷気の中に身をおき、風の音に耳を澄ました。
大きな掌のようなトチノキの葉が宙を舞い落ちる様を撮影しようと、その林に足を速めた。
▼今年は、トチノキの移ろいをつぶさに観察しようと、この「草木・・・」の中でもいくつか掲載したが、ここ一、二ヶ月、木の下にたつことはなく、年初の志は途絶えてしまっていた。そんな怠惰な私におかまいなく季節は着実に積み重なっていく。ここ数日の冷え込みのためか、公園の紅葉は一斉にすすみ、あらゆるものが、冬に向かって駆け足で動きはじめていた。

▼風を撮影するのは難しい。それでも、素人なりになんとかならないか躍起になったが、うまくいかなかった。落ち葉を追いながら、昨夜、郷里の母が電話で披露した俳句を思った。最近、自由律の句に並々ならぬ情熱を燃やす母が、作った句は、昨日、故郷にも吹きあれた木枯らしを詠んだものだった。
 「木枯らしの○○○○ 寂しくなる」  その○○○○がなんだったか、思い出せない。


▼外界の季節の変化に目が向かなくなった時の自分は要注意である。関心が内に内にと向かっていき、回りに対する配慮や想像力が枯渇していく。そのことで、多くの人を傷つけ自分も抛り出された苦い経験を幾度となくしてきた。新しい職場に移って半年、馴れない仕事も佳境に入っていた。それに没頭しようと本人は躍起なのだが、思うように運ばないことが多い。なんとかならないものか、と逡巡するうちに、また、いつもの隘路に入りかけていた。
▼11月16日金曜日、職場に居残り、溜まりに溜まった資料の整理を一気にやってしまおうと机に向かっていた。
 携帯電話が鳴った。郷里の母からのメールだった。開くのが少し億劫だった。最近、母にメールすることが少なくなっていた。母のことや故郷のことを考え出すと、これも厄介な事が多い。連絡をとって、新しい情報を知ると、またややこしくなる・・・・父が亡くなってまる3年になるが、いまだ追憶から逃れられずふとしたことで父を思い出し涙する母を包み込むことも正直しんどかった。とはいっても、父の命日の11月16日くらいは、息子は母にメールなり、電話なり、もっといえば丁寧な手紙などしたためる配慮があってよかった。何の連絡もしてこない息子に母もついに痺れをきらしたのだろう。
 「今日はお父さんの命日〜三年前おもいだしています。忘れたのかと?寂しくなりました」
慌てて返事を打った。
「忘れてはいません。毎日、夢をみます。」
嘘である。すっかり忘れていた。見栄ったらしい言い訳である。
しばらくして、母から再びメール。
「秋雨の中 お墓に参りお寺の法話がありました。明日もありますが、月一回の俳句の日なので行けません。」
 きわめて静かでたんたんとした文章だった。それが、かえって切なかった。

▼はじめた仕事の整理には、予想外に時間がかかった。仮眠室で休んで17日の日中もたっぷり時間をかけ、ようやく自分なりに納得できる形にたどりついた時には、夜の8時をまわっていた。50歳をすぎてもこんな非効率な仕事をしている。そのことで、家族にも迷惑をかけっぱなしだし、故郷のことも置き去りにしてきた。悪いと思うが、もやもやした仕事の道筋を自分なりに整理し方針ができたことで気分はすっきりした。ささやかな充実感に浸ることもできた。
 自分の机のまわり以外は明かりが消えた大部屋で、携帯電話を手に取り、郷里の母に電話を入れた。
▼明るい開口一番だった。「ようやくかかってきたね。元気かね。」 夏に帰郷して以来、3ヶ月ぶりに聞く母の声だった。買い被りかもしれないが、「ようやくかかってきたね。」という言葉に、息子からの電話を待ちわびていた母の気持ちを察した。ほったらかしにしてすまなかった。

▼母は溜まっていたものを一気にはき出すようにいろんな話をした。
最初の話は、庭の松の木のこと。今年、実家の周辺では松食い虫が異常にはびこり、庭の松も枯れてしまった。この松は、父が念願の一軒家を建てた時、隣町に住む伯父が贈ってくれたものだ。父と伯父は決して仲の良い兄弟とは言えなかった。二人の間には複雑な感情が絶えず渦巻いていた。戦後、山口市で書店を営む伯父を頼って、父と母は九州から移り住んだ。伯父の店で働く父にとって、一刻も早く独立することが夢だった。4年後、父は隣町の防府市に店をだした。父にとっては兄からの自立であったはずだが、伯父にとっては父の店は自分の店の出先であり支店であった。屈折した兄弟だった。二人の関係は、間を取り持つ母の持ち前の明るさでなんとか繋がっていた。
 「そんなお父さんが“兄貴は一つだけいいことをした。”と言って喜んだのが、新築を祝ってお兄さんが贈ってくれた松の木だった。」  それにしても突然枯れるなんて・・・・
不吉な思いに囚われかかっていた母の気持ちをほぐしてくれたのが叔母の一言だった。
「九州では、あの世へ逝った人が、一番大切な人を連れていく代わりに、一番大切にしていった木を天国に持っていく、という言い伝えがあるから、きっとそれよ。」
 この言葉に母は元気を取り戻した、叔母に感謝、と言った。「これで、10年くらい長生きできるね。」と返したが、声は返ってこなかった。枯れた松は、母の友人のご主人が切り倒してくれ、正月に近くの神社に奉納し薪として供養してもらうことにした、と、この長い話を母は締めた。

▼次に話は俳句のことに移った。最近母は、自由律俳句に没頭している。街は山頭火のふるさとである。自由律を愛好する市民が多く、この6月には市民の手によって自由律俳句の機関誌「群妙」が創刊された。母はこの運動に意欲的に参加し、投句した。11月17日は、「群妙」の2号が出来上がった。その梱包作業を手伝ってきた。そう言って、母は出来上がったばかりの誌上に載った句を一句ずつ読み上げ説明を始めた。

    あるきはじめた靴十二センチ
 
弟の娘に女の子が生まれた。母にとっては曾孫にあたる。去年の夏に生まれた夏希、夏希は秋になって歩き出した。この子のために靴を買ってやろう、歩き始めた足は11.5センチだった。四捨五入して十二センチ・・・母らしい素直な句だと思った。

  園児のままごとに苦笑い
 
父の墓の直ぐ前が保育園になっている。墓参りに来ると園児がままごとをしていた。「あなた、食べたら食べっぱなしにしないで、お皿洗ってよ。」  その会話に思わず苦笑い。ままごとも昔と随分変わったものだ。
     ビルの谷間に青田いすわっている
 6月、動脈瘤の手術覚悟で母は上京した。ところが予想に反して、今手術は必要ない、という診断がでて、母は大喜びした。その返り電車の中から見た大都会のビルの谷間に、青田を発見した。その驚きを詠んだ。いすわっている、という表現に、嬉々とした母の心情がでていると思った。

  なにもかもふる里と結びつくなつかしい名前
 東京の病院の創業者が母の旧姓の高木だと知り、母は喜んだ。あれ以来、出会う人出会う人が、高木だったり、故郷の知り合いと同姓だったりする。奇縁だ、なつかしい。

▼それから、母はこの日の句会で詠んだ句を披露した。
 木枯らしの○○○○寂しくなる
木枯らしの後に続いた言葉がなんだったのか、思い出せない。「自由律はできるだけ短く自分の気持ちを率直に出したほうがいい、と先生に言われた。」などと母は元気に説明したが、聞きながらその句が妙に切ないのが気になった。父の命日に誰も連絡してこなかったことが余程こたえたのか。最近、母は「寂しくなる」という言葉をよく使う。

▼ 句の説明を終え母は、なんとか2号発行にまでこぎつけたものの「群妙」は資金難で3号は発行できるかどうか微妙だ、と心配した。そして、かつて書店を経営し本を売りさばいた自信からなのか、「私がなんとかする。」などと意欲を示した。
▼その流れで、話は市内の書店の近況に入った。かつて、父母が誠文堂書店を営んでいた頃、市内には他に八千代書房、藤井書店、福島書店、松谷博報堂というライバルがあった。その一つ一つの近況を母は語った。ほとんどがシャッターを下ろし、わずか松谷博報堂が大判焼きをしながら店を開けている。「みんななくなってしまったね。」
▼それから母は、理髪師をする姪の夫が独立して店をだしたいと言っているが、自分には援助する術がない、と気を揉んだ。「大丈夫だよ。まだ、若いんだから、自分で道を切り開くよ。」 と流した。この問題に深入りしてほしくない。世話を焼きすぎて、いつも最後は自分達が失うことばかりの父母の人生だった。これ以上、心配事を抱え込んでほしくない。

▼ 「毎朝、仏壇に向かってあなた達、兄弟の家族が元気でありますようにと祈っているよ。親とはそんなものなのよ。」いつもの台詞も随所に散りばめ、話は次々と移っていく。
▼ 最近、九州にある親父の故郷の、遠い親戚の男性から電話が入った。その人は、一族の系図を作成ているという。そのための情報を求めてきた。母は咄嗟に「うちの息子も興味を持って調べている。」と答えた。間違いではない。九州の筑後平野、貧しさから抜け出すために決死の人生に乗り出した、昭和初期の父や伯父たち兄弟の人生に興味がある。単に肉親というより、あの貧困の昭和初期からはじまり、戦争、戦後の高度成長、そしてバブルとその破綻、その欲望と挫折の人生航路はそのまま、近代日本の映し絵であり、日本人これからのグローバル社会を生き抜く上での大きな羅針盤となる。筑後平野を出発点に取材を重ねたいと思っている。そのことを母は知っている。「近々、連絡があるからね。」と母は念を押した。正月に母を連れてその人を訪ねてみようと思った。

▼最後は、十二月、検査のために再び上京する時のことを話した。前回は慌ただしかったが、今度は検査を終えたらのんびり東京見物でもしよう。八王子の親戚一家にも会おう。仙台から叔母がやってきてもいい、と言っている・・・・・「まだ、十二月までは時間があるから、ゆっくり予定を考えよう・・・・・」 旅費などは心配することはないよ。こっちでなんとかするから・・・・こう一言付け加えればよかった。


▼こんなに長く母と話したのは、久しぶりだった。母は明るい声で元気に暮らしている様子を報告してくれたが、それがふと息子に対する気遣いのようにも感じられた。頭の中に、「木枯らしの○○○○寂しくなる」の句が残った。父の命日に誰も連絡をしてこなった、その寂しさを振り切るように、翌日、母は精力的に街に出て人に会い、句会にでた。昼間の陽気な姿を想像すると余計切なくなる。
    
「一人暮らしの母 父の命日を忘れた息子 離れて暮らす親不孝 今度の異動で郷里近くの勤務地を希望しよう 」  電話を切ったあと、文章にならない言葉が泳いだ。


▼翌日11月18日、久しぶりに爽快な日曜日朝を迎えた。光が丘団地の壮年テニスでも、不思議なくらい体がよく動いた。「キレがよくなったねえ。」お世辞めいたかけ声にも、本人は「確かに。」と本気に受け止めるくらい上機嫌だ。溜まった仕事を自分なりに整理し、月曜日からどう動くか自分なりに方針もたった。体の芯から充実感が沸いてくる。
▼木枯らしの公園。押し寄せる風、木々は一斉に木の葉を舞わせた。ザワザワと様々な木の葉が地を転がって舞った。なんの変哲もないその動きに反応して、何度もシャッターをきった。

夕方、公園をでて、団地に向かう歩道橋で奇妙な雲を見た。
強い風に押されて流れる雲二つ、まるで天女が手をつないで飛んでいるような美しい光景だった。思わずシャッターを押した。その時、母の句を思い出した。「木枯らしの○○○○寂しくなる」 その○○○○はハーモニーだ。
 木枯らしのハーモニー 
                  寂しくなる












▼その夜。電話が鳴った。妻に替わって受話器をとった。相手は実家の町内の民政委員の方だった。「お母さんと連絡がとれないんです。」  その瞬間、しまった、と思った。

▼数十分後、自宅で倒れている母が発見された、との連絡が入った。
死亡推定時間は11月17日の午後10時。亡くなってまる一日がたっていた。
電話で話した直後、母は亡くなったことになる。

                          2007年11月〜12月
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