トップページにもどります

         草霊 2007年 晩秋〜冬
  3. 弔辞 
         綽子さんが急ぐから紅葉いっせいに赤くなる      


▼「綽子」 母の名前である。これをすぐに「のぶこ」と読める人は少ない。「綽」という字を辞書で引いてみる。意味は、「ゆるやか。ゆったり。余裕。しとやか。おだやか。」
「よゆうしゃくしゃく」という四文字熟語は「余裕綽々」と書く。母の人生は、母自身がよく言うように「七転び八起き」、決して順風満帆ではなかったが、この名のように、ゆったりと構えすべて前向きに気分を切り替え乗り越えてきた。その外向的で屈託のない明るさは商売にはうってつけで、「誠文堂書店はあの奥さんでもっている。」という声をよく聞いた。道行く人に気楽に声をかける母の横で、「なのに、どうして息子の自分はこんなに内向的なのか」とよく思ったものだ。
賑やかな商店街
駆け抜ける母の自転車

 
▼葬儀には予想をこえる大勢の人が参列した。書店を閉めて15年近くになるのに、式場にはそのころからつきあいのある人が一堂に会した。店を閉めても母はそうした人々とつきあいを大切にした。
この数日、母の友達の多くから最近の母の暮らしぶりを聞いた。息子の想像を超えて、母は亡くなるその日まで精力的に街中を歩いていた。

▼前述したように、理不尽極まりない「からくり」に嵌められ店を手放し父との二人暮らしをはじめてまもなく、母は毎朝4時に起きて製パン工場で働き始めた。失意の渦中、すぐにこうした行動に入るのがいかにも母らしい。しかも、この早朝の労働を通して、母は多くのパート仲間と緊密なつきあいをはじめ、それをその後の糧にした。特にその中の一人、Mさんとは毎日のように会い、さらに頻繁にメールの交換をする親友となった。
  Mさんの弔辞
◇綽子さん 最初の出逢いは十年前の俳句からでしたね。
職場で丁度時間帯が一緒になり俳句の話をして意気投合し、毎日、仕事の帰り、と言っても駐車場までの短い距離を遠回りして俳句の事からいろんなことを話し、まるで前からの知り合いのように、家族ぐるみのおつきあいが始まり、中でも五年前の十二月NHKの俳句大会へ投句して冗談に“二人が入選したら東京へ行こうよ”と言っていたら冗談が本当になり、主人を交えて四人でお祝いを兼ね会食しましたね。そして家族の祝福をあびNHKホールへと旅立ちましたね。寒い一日でしたが寒さも吹き飛び勇んで・・・・。従妹ご夫婦の計らいで宿も案内も全部していただき心強く二人で修学旅行気分で夜も寝付かれず、睡眠不足もおかまいなくホールへと夢の様な出来事でした。はじめて枕を並べて寝ましたね。・・・・・・まだまだ思い出は限りなく、こうして思い出しながらもまだ・・・・信じられません。綽子さんとは年齢も育ちも全く違うのに、あなたの大好きな言葉だった「出逢い」を大切にしていつも私を実の妹以上に可愛がって下さいましたね。それだけにショックをかくしきれません。

  ▼この東京旅行で母が留守の最中、父は病院に行き診察を受け、前立腺の異常が発見された。母が帰郷後、父は地元の中央病院で手術を受けたが傷口が塞がらず、再手術がおこなわれた。この手術の不手際によるストレスが大腸に癌を誘発したのだと思う。その後、夫婦を襲った嵐のような日々、いつも近くで支えてくださったのがM夫妻だった。父が放射線治療のため、2時間以上離れた大学病院へ行くことになると、夫妻は自動車で送り迎えを引き受けてくださった。なんでも自分の手でつくってしまう器用なMさんのご主人は、家のトイレや階段の手摺り、庭に入る木戸までつくって下さった。父の死後、Mさん夫婦の存在は母にとって大きな支えとなり、母は毎日、メールで「おはよう。きょうも元気でね。」と言葉をかけあってきた。

◇独りになられてから、ある時は句作に時間も忘れ、向学心旺盛で熱心なあなたについて行くのがやっと。それに何事も前向きで憧れの方でした。私のような者とお付き合い出来る方ではないのに、失礼をも許して下さり、また助けて貰い・・・・一緒に消費者モニターもやりましたね。行動派のあなたは人に騙されない勉強をし早速役に立ちましたね。
◇私が悲しい時は一緒に泣いて嬉しいときは一番喜んで下さり、慈悲深く、何でも話せる心許せる方、言い尽くせない程お世話になりましたね。一日中、一緒にいてもまた帰るとお互いに電話をし、「よくも話題が有るね。」と二人で感心しながら、最近は一日も声を聞かないと寝られず、いつも「ラブコール」していましたね。もうそれも聞かれません。
◇二年前、同じ携帯を買い、メールの勉強にあなたの上達の早さにはびっくり。最近は教えた私よりも上手にすぐに返事があり、美しい花を見つけ写メールも、もう見られませんね。
◇花が大好きで野の小さな花も大切にされ、今まだ玄関に飾ってあるアザミも「二本あるので一本あげようか」と本当に誰にも何にも優しい心の持ち主でした。

◇6月20日だったかしら、CT検査の結果、県立綜合医療センターへお伴しましたね。頼りない私でさぞ心細かったのに信じて下さり、二泊三日のカテーテルの検査の結果も姪御さんと一緒に聞かせてもらいました。でもあなたの意志は変わりませんでしたね。「6月21日は誕生日だから退院します。」ときっぱり手術を断られ、それから東京のご子息のもとへ旅立たれ「二ヶ月はかかるかも?」と泣き泣きの旅だと聞きましたが、明日もう帰りの新幹線の中だということで、またびっくりしました。

◇それ以来、病気はどこに行ったのだろうかと思う程、お元気だったのに・・・・・。今思えば、11月14日(水)から17日(土)まで毎日、逢いましたね。14日は初体験のコンニャク作りへ参加、
15日、16日は私が福祉の手伝いの帰りに「珈琲入れて待っているので、何時頃になる?」とメール頂き、寄せて貰いましたね。実家に帰った気分で一緒にお茶しておしゃべりして買い物と確かに忙しかったね。
◇夜はいつも感謝メール頂き、「楽しい一日有り難う」とありがとう、ありがとう、感謝の気持ちの素晴らしさ見習わなければとメールを返して・・・・・


▼母は自分の人生が、父の命日(11月16日)に向かって収斂していくのを感じ取っていたのではないか?この一ヶ月、母は実に精力的に街に繰り出し、いろんな人と挨拶を交わし話をしていた。
 昨年、母は自転車で転び、背骨を打撲しその後遺症を抱えていた。にも関わらず、数週間前、自転車をこいで街を巡っていた。見かけた友達が驚いて「大丈夫?」と声をかけると「自転車を修理したからもったいなくて。」と笑ったという。多くの人から活発に出歩く母の様子を聞く度に、その裏腹に独りになることを怖れた母の心理が見え隠れした。体調が崩れていくのを感じ取り、それから逃れるように外の世界に飛び出していたのではないか。インプリントされた「さだめ」が刻一刻と迫るのを察した本能が、母をこんなにも忙しく動かせたのではないか?
11月17日(土)、最期の日、母は製パン工場で知り合った仲間との談笑を皮切りに、実に多くの人々の間を渡り歩いた。
◇17日は「桑の山お大師参りのグループにどうしても逢いたい。自転車で行く。」と言ってたね。だけど「折角、ここまで元気でいて、今、転んでは・・・」と迎えに行き、皆といっしょに朝食し楽しく二時間くらいおしゃべりしたかしら。帰りは勝間小学校で山頭火の劇があるので送り、後ろ姿を見送り別れました。それが最期になるとは夢にも思わず何も変わらないと思っていたのに!!
「あの時がお別れだったのね。」それならまだまだ、お話一杯あったのに残念 「早すぎるよ」
◇私たちの先輩としても、元気でいきいき明るく前向きのあなたに、月一回のお参りを通してまだまだあなたから学ぶこと沢山あったのに、どうかこれからも、「千の風」になって、側に居て見守ってください。お墓に眠ってなんておられないで今まで通り、一緒にお参りもしましょう。
◇最期まで自分の体を忘れ人助けで命を捨ててしまわれましたが、この尊い精神をきっときっと受け継いで参ります。
 短かったけど、深い思い出たくさんたくさん有り難うございました。     さようなら


▼Mさんと別れた後、母は、最近、没頭している自由律句の仲間とともに過ごす。葬儀には、句の師である富永鳩山氏が列席し、弔辞を下さった。父の墓にむかう小道添いに富永さんの庵があり、母は墓参りの途中、庵にあがりよく茶飲み話をした。その流れで、自由律の句を詠み始めた。
 富永鳩山さんの弔辞
◇ 一昨日、市役所の記者クラブで「群妙」第2号の発行を発表する、その朝、綽子さんの訃報を聞きました。私は何のことか分からず、何度も聞きなおしました。が、いまだに信じることができません。
◇思えば、綽子さんと出会ったのは昭和37年、私が学校を卒業して防府に帰り、誠文堂へ本を買いに行った時でした。本の好きな私は随分立ち読みもさせてもらいました。
◇後に、「山頭火ふるさとの会」に入って、親身になってお手伝いをしてくださるようになり、いつも、おいしい手作りの料理を持ってこられ、皆さんを喜ばせては楽しんでいらっしゃいました。
◇本当に手作りの人生を歩んでこられました。綽子さんはお話が大好きで、誰もが友達で、気さくで皆さんから慕われ、皆さんのお母さんでした。お茶の仲間、俳句の仲間、逢う人皆、親しい友達のようでした。
◇しかし、しばらくの間、ご主人の看病に専念されるため、あらゆる活動をお休みされておりましたが、一昨年の十一月にご主人は他界され、その後はほとんど毎日のようにお墓参りをされていました。
◇昨年、「少し外に出てみよう。」とお誘いして自由律俳句講座に入られました。最初の頃は、ご主人を失った悲しみ、御主人に話しかける句となり、私たちは深い感銘を受けたものです。私の講座は「新しい自分に出会う」がテーマです。それに共鳴され、それを機会に少しづつ気持ちがほぐれたようで、それからは自由律俳句が大好きと言われるようになり、どんどん新しい自分に出逢い、毎日が新鮮であったようです。
◇「自由律俳句クラブ・群妙」を立ち上げるとすぐに参加され、創刊号を出す折りにも積極的に協力いただき、11月17日は図書館の講座で、いつもの席で熱心にメモをとられ、その後は「群妙」第二号の荷造りを手伝ってくださいました。その時も手作りの小松菜の漬け物を持ってきてくださり、私は今朝もその漬け物をいただいてきました。綽子さんのやさしい気持ちがそのまま味となっている漬け物、これが最後の漬け物になってしまうのでしょうか。あなたは本当にやさしい人でした。あなたのやさしい気持ちを忘れないで、私たちはこれからあなたの思い出と共に歩いていきます。
◇俳句の世界では「作者は亡くなっても句は残る」という言葉がありますが、綽子さんは自由律俳句とともに身をもって「こころざし」と「やさしい人柄」を残され、本当にありがとうございます。
◇ご主人によほど会いたかったのでしょうね。これからはゆっくり、ご主人と水入らずでお話しください。
◇残されたご家族の皆様の、悲しみ、お嘆きをお察し申しあげ、お慰めの言葉もありません。
でも、綽子さんはすばらしい自由律俳句を残して、私たちに「人生は素晴らしい」と教えてくださったことを皆さんにお知らせしてお別れをします。   合掌
                                       富永 鳩山

▼富永さんは、葬儀の前日、句を学ぶ仲間たちに、急きょ、献句を送ってくれるよう呼びかけた。そのわずか30分後に、FAXから次々と句がはき出された。その速さに驚いた。
あなたのコーヒーで私は自由だった   むつこ

お気に入りの二番目の席で笑っている  江津子

家出して泊まりにおいでという母のような人  里美

ひまわりのような笑顔と輝きありがとう  きよこ

おかずを分けあった手のぬくもり     阿佐子


▼大勢の友達が集まり、母の葬儀は賑やかだった。これがなによりの母へのはなむけになったと思う。集まった皆が、突然、逝った母を惜み、その一方で、そのようにして自分も旅立ちたいものだと言った。だれにも迷惑もかけずに去りたい、そして、子供に迷惑かけずに逝った母を「子孝行」だと羨んだ。そうした言葉を浴びながら「その通りだ。」と思う反面、遠く母を独りにし逝かせた息子としての責任を突きつけられているのだ、と感知せざるをえない。  
ひとりぼっちで逝かせた

親不孝を背負ってゆく




▼数日後、市内の毛利邸を歩いた。紅葉が実に見事だった。今年は暖かだったため、なかなか紅葉しなかったのだが、ここ数日の寒波で一気に紅葉が進んだ。

 葬儀で、富永鳩山さんが母にくださった献句が身に染みる。



綽子さんが急ぐから

  紅葉いっせいに赤くなる   鳩山

            



父の3回目の命日、その翌日に、命日を重ねるように逝った母。
母が父のもとに押しかけたのか、それとも寂しがり屋の父が母を引き寄せたのか・・・・。
喜怒哀楽、七転八起の人生行路だったが、最後まで二人三脚を貫いた、
優しい夫婦だった。



                      2007年11月〜12月
トップページにもどります