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        "私の桜"  定点観測A

        200年3月30日            


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▼1994年に封切られた映画「スモーク」(ポール・オースター作、ウエイン・ワン監督)という映画が醸し出した世界が好きだ。まさにタバコの煙のように彷徨い漂うそれぞれの人生が、絡み合い縺れほぐれる・・・その映画のシーンの中で、特に印象的なのは、ニューヨーク・ブルックリンの葉巻店主、オーギーの日常だ。オーギーは20年以上にわたり毎朝午前8時、3丁目と7番街の角に立ち、同じアングルで朝の情景を撮り続けている。それを黒い大きなアルバムに整理し、もう全部で14冊にもなっている。ある日、オーギンは友人のポールにアルバムを見せる。

 ◇ ポール(すっかり驚いて)  みんな同じじゃないか。
   オーギー(得意げな笑みを浮かべて)  その通りさ。同じ場所の写真が
4千枚以上。
                午前8時の、3丁目と7番街の角。ありとあらゆる天候の下、
                4千日ぶっ続けに撮ったんだ。俺が休みをとれないのもこいつのせいでさ。
                毎朝いつもの場所にいなくちゃならん。毎朝同じ時間に、
                同じ場所にいなくちゃならんのだよ。
   ポール(途方に暮れている。ページをめくり、まためくる)はじめて見るな、こんなの。
   オーギー 俺のプロジェクトだよ。何ならライフワークと言ってもいい。
   ポール(アルバムをテーブルに置いて、別の一冊を手に取る。
               そのページをぱらぱらめくると
やはり同じものが現れる。
              困りはてて首を振る)すごいねえ。(相手の気分を害さぬ
ように努めて)
             でも、いま一つぴんと来ない気がするんだ。つまりさ、どうしてこういう・・・・
            ・こういうプロジェクトを思いついたのかな?
   オーギー さあねえ、ただ何となく頭に浮かんだんだよ。
                何てったってここは俺の街角だからね。
              世界のなかのごく小さな一部分にすぎないけど、
             そこでいろんなことが起きている。
            ほかのいろんな場所と同じだよ。これは俺のささやかな場所の記録なんだ。
   ポール(アルバムをぱらぱらめくり、まだ首を振りながら)ちょっと圧倒されるねえ。
   オーギー(依然にこにこ笑って)もっとゆっくり見なくちゃわからんよ。
   ポール え?
   オーギー 速すぎるってことさ。あんた、写真をろくに見てもいないじゃないか。
   ポール だって同じ写真じゃないか。
   オーギー 全部同じだけど、一枚一枚みんな違ってもいるんだよ。
                  明るい朝もあれば暗い朝もある。夏の光もあれば秋の光もある。
                 平日もあれば週末もある。コートを着て長靴を履いた人間もいれば、
                 短パンにTシャツの人間もいる。それが同じ人間のこともあるし、
                別の人間のこともある。別な人間が同じになることもあるし、
                同じ人間が消えてしまうこともある。地球は太陽のまわりを回り、
               太陽からの光は毎日違う角度で地球を照らすんだ。
   ポール(アルバムから顔を上げオーギーを見て)ゆっくり見る、かい?
   オーギー イエス、そうお勧めするね。わかるだろう。明日、そして明日、そして明日、
          時はのろのろとした足どりで過ぎていく。

 オーギーの言葉を受けて、ポールはゆっくりとページをみつめる。しばらくの静寂のあと、

   ポール おい、これはエレンじゃないか。

  ポールは交差点を行き交う人々の中に、亡き妻の姿を発見する。

  オーギー そうだな。たしかにエレンだ。この年のにはずいぶんたくさん出てくるよ。
                  きっと出勤途中だったんだね。
  ポール (感極まり、涙ぐんで)エレンだ。見ろよ。僕の愛しいエレンだよ。



▼ 
オーギーのように毎日、「私の桜」の前に立とうと決意したものの、二日酔いやなんやで、恥ずかしながらうまくいっていない。最初の意気込みからして、笑われてもしかたないが、とにかく、今朝の「私の桜」を紹介する。想像に反して、蕾は下の方から破裂するように一気に咲いた。

2008年3月30日