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       ある親善大使の最期  

        2008年5月5日            

 射干(しゃが)
 
Iris japonica
 アヤメ科アヤメ属

北海道を除く日本全国に自生している。中国にも自生しているので古い時代の中国からの帰化植物だと考えられる。
 花は外側3枚と内側3枚の花弁からなり、内側はほとんど白色だが、外側は淵が細かく切り込み、中央にオレンジ色と紫の斑点がある。オシベは3本、花柱は3つに分かれる。果実には種子はない。欧米ではあまりみない独特の花である。
花言葉は決心・抵抗・反抗。
▼高畑勳・宮崎駿コンビの初期の名作アニメに「パンダコパンダ」という作品がある。スタジオジブリが毎月発行している雑誌「熱風」の3月号でこの作品について特集が組まれていた。面白そうなので、DVDを借りてきた。
物語法事のために遠くに出かけてしまったおばあちゃんの留守を守って、竹林の中にある家で一人暮らしを始めたミミ子。そんなミミ子のもとに、小さなパンダの子・パンちゃんとそのお父さんのパパンダが突然やってくる。ひとりでもへっちゃらなミミ子だが、優しいお父さんとかわいい子供が出来て大喜び。パパンダを「お父さん」とし「私はパンちゃんのお母さんになる。」と言って、3人の楽しい暮らしが始まる。ところがある日、動物園の園長がパパンダ親子を捜しにやってくる・・・・

▼特集記事によると、高畑勳・宮崎駿さんたちにとって
1972年は忘れられない年だ。この頃、二人は会社をやめ、スウエーデンの作家アストリッド・リンドグレーンの「長くつ下のピッピ」のアニメ制作を企てていた。本人にも会い交渉を重ねたがアニメ化の承諾を得ることはできなかった。そんな折りの1972年、日中国交正常化を記念して、日本にパンダのカップルがやってくることになった。オスのカンカンとメスのランラン、空前のパンダブームが起こり、急きょ、パンダを登場させるアニメ映画を作ることになった。この時、二人の脳裏には、「長くつ下のピッピ」があった。二人は、“世界一強い女の子”ピッピを思い浮かべ、主人公のミミ子ちゃんを産み出した。明るく溌剌、しかも思いやりあるミミ子ちゃんの個性はやがてハイジへと受け継がれ、一方のパパパンダはあのトトロの原型となった。1972年、パンダ旋風と共に世に送り出された「パパコンダ」にはその後のジブリの作品群の基本が凝縮されている。 
  ↓ リンリン(2008年4月30日逝去 22歳7ヶ月)

▼4月30日、上野動物園のオスのパンダ”リンリン”が亡くなった。22歳7ヶ月、人間にするとおよそ70歳の高齢だった1972年に親善大使としてカンカンとランランが来て以来、上野動物園から、36年ぶりにパンダがいなくなった。

▼おおらかで人なつっこいリンリンは皆に愛された。その一方で、子作りのために人工授精を繰り返し、三度もメキシコの動物園にお見合いに行くなど、海外出張も多くこなした。
「世界中で一番飛行機に乗ったパンダではないか。そういう意味では苦労をかけました。」と小宮園長は述懐した。

▼こんな話を友人から聞いたことがある。 ・・・・・・離婚後、毎月一度の娘とのデート。パンダを見たいという娘と上野動物園にやってきた。入場してまず、パンダ舎に急いだが、残念なことにリンリンはいなかった。いま思えば、メキシコの動物園への子作り出張の頃と重なる。
「リンリンはお仕事でいないみたいだ。」と言うと、娘はこう切り返した。「パパと同じだね。」・・・・・・
▼先日、アニメ「パンダコパンダ」を見たとき、この話を思い出した。その矢先のリンリンの訃報、書かずにはおられなくなった。


▼動物園を逃げ出したパパンダとコパンダは、たった一人で留守番をするミミ子の家にやってくる。予期せぬ来訪者に大喜びのミミ子はパパンダに「私のパパになって」と頼む。ミミ子にはどういう事情があるのかわからないが父も母もいないらしい。快くパパになってくれると言ってくれたパパンダにミミ子はいろいろ用意する。帽子をかぶせて、パイプをくわえさせ、新聞を持たせて、パパのためのお弁当を用意し、そしてこう言う。「パパは会社に行くものよ。」
▼さあて、パパンダは困った。動物園を逃げ出してきた身にとっては、行くあてなどないのだ。パパンダの困惑顔。すると、ミミ子もはっとしたように我に帰り、こう言ってくれる。「そうそう、会社は休みだったわ。だから会社には行かなくていいのよ。」 気の利く優しい子だねえ。

▼こうして、楽しく過ごすミミ子とパンダ親子のもとに動物園からの追っ手がやってきて、てんやわんやの大騒ぎなのだが、圧巻はすべて落着してからのエピローグだ。
パパンダは動物園の檻の中に戻っている。大人気だ。そして閉園。するとパパンダはタイムカードを押して、帽子をかぶりカバンを持って「お疲れさまです。」と動物園を出て、なんと電車に乗り、ミミ子の待つ家に帰っていく。パパンダはパパになったのだ・・・・・・なかなか、いいシーンだと思う。いろいろ、とらえ方はあるだろうが、当時、日中友好の親善大使として海を渡ってきた上野動物園のパンダと重ね合わせると、また、いろいろと空想は進む。

▼7年前、空っぽのパンダ舎を前に「リンリンはお仕事でいないみたいだね。」と言った友人の言葉は正しい。メキシコへの子作りツアーは海外出張みたいなものだ。さらに、帰ってくる上野動物園でも親善大使の仕事が待っている。リンリンにとってのミミ子の家はどこにあったのか・・・などとぼんやり、空虚なことを思っていると、夜のニュースで飼育委員の杉本服治さんの談話が聞こえてきた。・・・・
いつもなら、朝、パンダ舎に行って「リンリン」と声をかけると振り向くのですが、今朝は振り向きません。「あれっ」と思い、おなかを見たら全然動いていない。急いで鍵を開けて中に飛び込んでいきました。頭をさわったら冷たくなっていました。リンリンがいたから飼育係を続けられました。正直言って、もう少し、生きていてほしかった。私も来年の3月31日に定年なんです。ほんとうに、リンリンに見送ってもらって退職したかったのですけれど・・・・・・

 杉本さんのこの言葉を聞いて、妄想は吹き飛んだ。リンリンにとって、杉本さんと過ごすパンダ舎は、心安らぐ終いの住処。日中の架け橋、親善大使の最期は大往生だったにちがいない。

▼5月5日、こどもの日、上野動物園に行ってみた。途中、公園のあちこちにシャガの花が咲き誇っていた。中国から帰化した白い花。花弁に散りばめられるオレンジと紫の斑点が上品で清楚な風情を醸し出している。主がいないのに、パンダ舎には長い行列ができ、記帳する場所も設けられていた。遺影の前には子供達の手紙と花束がお菓子といっしょに次々と供えられていく。一心に手をあわせる子もいる。まさに親善大使にふさわしい別れの場になっていた。




































▼今週は胡錦濤中国国家主席が来日する。
懸案事項山積の日中関係、それを和ませるために友好のシンボルとして中国から新しいパンダを貸し出す、という話が持ち上がっていた。
年老いたリンリン、
潮時だと感じ取ったのかもしれない。

       

2008年5月5日