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         光妙寺三郎の墓

        2008年6月29日            

カミツレ
  Matricaria recutita

    キク科

ヨーロッパ、西アジア原産の2年草。
 カミツレの語源は、ギリシャ語のChamomilla(低い)とMelon(リンゴ)からの造語、丈が低くリンゴに似た香りがあることから付けられた。
別名、カモミール、カモマイル。


ヨーロッパでは薬草といえば、このカミツレを示すほど有名。消炎、鎮痛、鎮けい、発汗、強壮などの作用があり、かぜ、神経痛、リュウマチ、腰痛、婦人の冷え性、下痢、胃腸炎、不眠症、小児ぜんそくなど幅広い効用がある。
 9月頃種をまくと、翌年の5月から6月頃に花が咲く。舌状花がピンとはっているときに花を採取し日干しにして早めに乾燥させる。乾燥させた花を急須に入れて、熱湯に注いで5分後に服用、お茶代わりに飲んでもいい。また、乾燥花を水に入れて沸騰させ、布で濾して浴槽にいれる。神経痛、腰痛にもよく効く。
 ヨーロッパでは紀元前2000年の古代バビロニア時代から薬用に使用されていた。日本には江戸時代、オランダから入ってきた。

 花言葉は、苦難の中での力・逆境に負けぬ強さ・逆境の中の活力・親交・仲直り 。



▼故郷の父母の墓への道端にはカミツレの花が白い絨毯のように敷きつめられていた。その一部をお裾分けしてもらい墓前に供えよう。
▼浄土真宗光妙寺。その門をくぐリ墓地に入るたびに気になる墓がある。この地方の墓石の多くは隣町の御影石を使うのが普通だが、その墓石はそれとはまったく違う黒い石、なんという石なのだろうか?気になって近づくと、墓には「光妙寺三郎君の墓」とあった。

▼ずっと気になっていたその名前を先日、暇に任せてインターネットの検索にかけてみた。
期待もせずに何気なくボタンをクリックすると、その名前はすぐに引っかかった。

光妙寺三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  • 山口県防府市に浄土真宗の寺、光妙に生まれた。
  • 1865年長州藩諸隊の一つ鴻城隊に入隊した。このころは三田、光田姓を名乗った。
  • 井上馨の書記役を務めた。
  • 横浜フランス語伝習所に入学し、長州藩藩費留学生としてフランス留学した。同じくフランス留学した西園寺公望とパリで親友となった。この頃から光妙寺姓をなのるようになった。
  • 1878年に帰国、法制局専務などになった。
  • 1880年には前年に外務卿になった井上馨のもとで、外務省少書記官に転任した。
  • その年帰朝した西園寺が東洋自由新聞の社長に就任すると、官僚のまま編集社員として加わったが自由民権的な新聞であったことが問題になった。
  • 1882年にフランス在勤を命じられ翌年パリに赴任した。
  • 1884年帰朝命令を受け、翌年外務省を免官となった。
  • その後明治法律学校の講師、検事、帝国議会議員などを務めた。
▼今回、帰省したのを機会に、住職に聞いてみると、その人物、光妙寺三郎は間違いなくこの寺のご先祖だった。さらに、住職は座敷の間に飾られている、光妙寺三郎の肖像画を見せて下さった。油絵に描かれた光妙寺三郎は粋な男前だった。
















▼郷里の山口県防府市三田尻周辺は、港に近く江戸時代は瀬戸内海の交通の要衝であった。毛利藩の参勤交代の大名行列は三田尻の街並みを通り抜け港に向かった。幕末、中央の情報がいち早く届くこの一帯は、長州藩尊皇攘夷派の勢力下にあり、維新の震源地の一つになった。
▼幕末、三田尻の町民や農民多くはは、長州正規軍とは違う「諸隊」という、いわば市民軍にこぞって参加した。高杉晋作の奇兵隊は、数十ある  「諸隊」のはしりである。
▼光妙寺三郎は1847年(弘化四年)、この光妙寺の三男として生まれた。ちょうど十代の後半、血気盛んな年頃、三田尻の若者達は「諸隊」に志願し、三郎もそのひとつ鴻城軍に入隊した。この隊の総督は、井上馨であった。波瀾の人生が始まる。

▼以下は、山口昌男氏の「知の自由人たち」、福井純子氏の論文によるーーーーー

 19世紀末のパリの街。
遊学中の西園寺公望が行きつけのカフエ、「星旗桜=カフエ・アメリカン」の扉を開ける。すると中では、一人の日本人が女性を相手に陽気に戯れていた。その日本人は男は、入ってきた西園寺にすぐに気がつき、歩み寄ってきた。そして、いきなり「如何なるこれ風流」と問いかけた。すかさず西園寺は「執拗これ風流」と答えた。西園寺は、女性に執拗にからむその男を揶揄したつもりであったが、男は大笑いして、「真に知己なり、乞う今より交を訂せん」と返した。
 これを契機に、パリを舞台に交流が始まった。その男が光妙寺三郎である。


▼幕末という激流に飲み込まれた、瀬戸内の小さな寺の息子は、流れ流れて、きらびやかなパリジェンヌの前に颯爽と登場する。しかも水を得た魚のようなプレーボーイぶりがなんとも面白い。さらに、パリで出会った男が、その後、明治政府の中枢を担い昭和の初めまで強い影響力を持ち「最後の元老」と呼ばれた西園寺公望(1849−1940)だったとは・…。

▼幕末の動乱を井上馨のもとで潜り抜けた光妙寺は、明治に入ると横浜フランス語伝習所に入学した。そして1871年(明治4年)、以後7年間にわたる欧州留学の途についた。当時、パリはパリ・コミューンの混乱の中にあったため、まずベルギーに入った後、1875年(明治8年)1月にパリ大学法学部に入学した。一方、西園寺も同年の11月に同じ法学部に入学した。二人が星旗楼でであったのは1875年、以後、3年間、二人は兄弟以上の濃い悪友となり、奇想天外な青春の日々を送る。
▼パリでの青春時代、二人が潜り抜けた痛快なドラマについては、今度、調べてみたいものだが、その鍵を握るのは、一人のパリジェンヌ、ジュデイット・ゴーチェ。彼女は光妙寺三郎と同じ1847年生まれ、西園寺の二歳年上、著名な詩人・作家テオフイル・ゴーチェの娘で自らも作家である。自由奔放な性格で、当時は文豪V・ユーゴーの愛人であり、作曲家R・ワーグナーともうわさがあった。彼女はジャポニズム愛好者でもあり、その好奇心から日本からやってきた若者に近づいたことは充分考えられるし、実際、彼女と日本人留学生との交流を物語る資料も多くある。
▼奔放なパリジェンヌ・ゴーチェをめぐっての、西園寺と光妙寺の青春。3年間の蜜月時代には様々な情が絡まり縺れ紡がれていったにちがいない。

    ※ ゴーチェは,西園寺公望が「古今集」から選んで直訳した短歌をもとに訳詩集「蜻蛉集」を私家版として出版しているが、その扉に、光妙寺三郎に向けて次のような献辞を添えている。
  「こよなく君の愛で給う/大和島根のもろもろの花/ここに集めて捧げまつる。/涙しげきこの国に/おぼつかな 香ぐはしきそのこころは、色は。」(高橋邦太郎 訳)

      遺されたこうした資料から、光妙寺とディエットは愛人関係にあった      のではないかと推測される。

  今から10年前、東京の寺(何という寺なのか、今後、取材する)にあった、「光妙寺三郎君の墓」を親戚が見つけ、郷里のこの場所に移築したという。墓には、三郎が没した日が刻まれていた。明治26年(1893年)9月27日逝去、享年47歳。

 パリの留学を終えて帰国した光妙寺と西園寺。光妙寺は外務省高官を勤め再度パリ勤務も果たすが省内での評判は芳しくなくフランスから帰国後の明治18年3月に依頼免官となった。その後、第一回の帝国議会選挙にも出馬し当選も果たすが、パリ大学法学士という輝かしい経歴の割には、明治政府の本流から外れてしまった。そのことについて、山口昌男氏はこう分析している。「光妙寺三郎は、どこで出世の道からそれ、はみ出してすねたような晩年をおくることになってしまったのか・・・・・答えは、やはり三郎のフランス体験にある。そこで三郎は、西園寺と対等な水平感覚でつながり、また国際的なネットワークを通じて横断的なつながりにすっかり馴染んだ。そこで培った水平型・横断的な感覚は、堅固な垂直構造すなわち上下関係を通じて成立する日本社会に、どうしてもなじむことができないものであった。そして、三郎が常に抱えている違和は、怒りや衝突や突然の方向転換という形をとらざるをえないのである。三郎の生涯が悲劇であるとするならば、それは余りにも早い時代に水平型の感覚というものを知ってしまった日本人の悲劇である。」

▼一方、西園寺は帰国後、明治政府の中枢を担い、近代日本を作り上げた一群の功労者のなかで最も長く生き、「最後の元老」とまでいわれた。西園寺は、明治の派閥政治、さらに官僚政治という垂直型、縦社会の中でしっかりと自分の場所を確保し生き抜いた。だが、その渦中で、西園寺は心のどこかに、あのパリの青春時代そのままに自由奔放に個として駆け抜けた光妙寺三郎への畏敬とコンプレックスを同居させたのではないか。
「西園寺は、自分の中にある水平型感覚を押し殺すことで、日本社会に順応した。西園寺は、光妙寺三郎に少し引け目を感じていたのではないか。」(山口昌男)

瀬戸内の御影石で作られた墓石群の中で、一人、異質の黒い石で作られた細長い墓。「光妙寺三郎君之墓」と刻まれたその墓を作ったのは誰なのか、住職に尋ねたが、「判らない。」とのことだった。しかし、ある確信を持って思う。
  この孤高の墓を立てたのは、親友・西園寺公望にちがいない
2008年6月29日