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光妙寺三郎の墓2008年6月29日カミツレ キク科
ヨーロッパでは薬草といえば、このカミツレを示すほど有名。消炎、鎮痛、鎮けい、発汗、強壮などの作用があり、かぜ、神経痛、リュウマチ、腰痛、婦人の冷え性、下痢、胃腸炎、不眠症、小児ぜんそくなど幅広い効用がある。 花言葉は、苦難の中での力・逆境に負けぬ強さ・逆境の中の活力・親交・仲直り
。 ▼故郷の父母の墓への道端にはカミツレの花が白い絨毯のように敷きつめられていた。その一部をお裾分けしてもらい墓前に供えよう。 ▼浄土真宗光妙寺。その門をくぐリ墓地に入るたびに気になる墓がある。この地方の墓石の多くは隣町の御影石を使うのが普通だが、その墓石はそれとはまったく違う黒い石、なんという石なのだろうか?気になって近づくと、墓には「光妙寺三郎君の墓」とあった。 ▼ずっと気になっていたその名前を先日、暇に任せてインターネットの検索にかけてみた。 期待もせずに何気なくボタンをクリックすると、その名前はすぐに引っかかった。 光妙寺三郎出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
▼郷里の山口県防府市三田尻周辺は、港に近く江戸時代は瀬戸内海の交通の要衝であった。毛利藩の参勤交代の大名行列は三田尻の街並みを通り抜け港に向かった。幕末、中央の情報がいち早く届くこの一帯は、長州藩尊皇攘夷派の勢力下にあり、維新の震源地の一つになった。 ▼幕末、三田尻の町民や農民多くはは、長州正規軍とは違う「諸隊」という、いわば市民軍にこぞって参加した。高杉晋作の奇兵隊は、数十ある 「諸隊」のはしりである。 ▼光妙寺三郎は1847年(弘化四年)、この光妙寺の三男として生まれた。ちょうど十代の後半、血気盛んな年頃、三田尻の若者達は「諸隊」に志願し、三郎もそのひとつ鴻城軍に入隊した。この隊の総督は、井上馨であった。波瀾の人生が始まる。 ▼以下は、山口昌男氏の「知の自由人たち」、福井純子氏の論文によるーーーーー 19世紀末のパリの街。 遊学中の西園寺公望が行きつけのカフエ、「星旗桜=カフエ・アメリカン」の扉を開ける。すると中では、一人の日本人が女性を相手に陽気に戯れていた。その日本人は男は、入ってきた西園寺にすぐに気がつき、歩み寄ってきた。そして、いきなり「如何なるこれ風流」と問いかけた。すかさず西園寺は「執拗これ風流」と答えた。西園寺は、女性に執拗にからむその男を揶揄したつもりであったが、男は大笑いして、「真に知己なり、乞う今より交を訂せん」と返した。 これを契機に、パリを舞台に交流が始まった。その男が光妙寺三郎である。 ▼幕末という激流に飲み込まれた、瀬戸内の小さな寺の息子は、流れ流れて、きらびやかなパリジェンヌの前に颯爽と登場する。しかも水を得た魚のようなプレーボーイぶりがなんとも面白い。さらに、パリで出会った男が、その後、明治政府の中枢を担い昭和の初めまで強い影響力を持ち「最後の元老」と呼ばれた西園寺公望(1849−1940)だったとは・…。 ▼幕末の動乱を井上馨のもとで潜り抜けた光妙寺は、明治に入ると横浜フランス語伝習所に入学した。そして1871年(明治4年)、以後7年間にわたる欧州留学の途についた。当時、パリはパリ・コミューンの混乱の中にあったため、まずベルギーに入った後、1875年(明治8年)1月にパリ大学法学部に入学した。一方、西園寺も同年の11月に同じ法学部に入学した。二人が星旗楼でであったのは1875年、以後、3年間、二人は兄弟以上の濃い悪友となり、奇想天外な青春の日々を送る。 ▼パリでの青春時代、二人が潜り抜けた痛快なドラマについては、今度、調べてみたいものだが、その鍵を握るのは、一人のパリジェンヌ、ジュデイット・ゴーチェ。彼女は光妙寺三郎と同じ1847年生まれ、西園寺の二歳年上、著名な詩人・作家テオフイル・ゴーチェの娘で自らも作家である。自由奔放な性格で、当時は文豪V・ユーゴーの愛人であり、作曲家R・ワーグナーともうわさがあった。彼女はジャポニズム愛好者でもあり、その好奇心から日本からやってきた若者に近づいたことは充分考えられるし、実際、彼女と日本人留学生との交流を物語る資料も多くある。 ▼奔放なパリジェンヌ・ゴーチェをめぐっての、西園寺と光妙寺の青春。3年間の蜜月時代には様々な情が絡まり縺れ紡がれていったにちがいない。 ※ ゴーチェは,西園寺公望が「古今集」から選んで直訳した短歌をもとに訳詩集「蜻蛉集」を私家版として出版しているが、その扉に、光妙寺三郎に向けて次のような献辞を添えている。 遺されたこうした資料から、光妙寺とディエットは愛人関係にあった のではないかと推測される。 ▼ 今から10年前、東京の寺(何という寺なのか、今後、取材する)にあった、「光妙寺三郎君の墓」を親戚が見つけ、郷里のこの場所に移築したという。墓には、三郎が没した日が刻まれていた。明治26年(1893年)9月27日逝去、享年47歳。 この孤高の墓を立てたのは、親友・西園寺公望にちがいない |
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2008年6月29日 | ||||