日本人が忘れてならない四つの日
2008年6月23日
ハイビスカス
Hibiscus Rosemallow
アオイ科フヨウ属
別名:扶桑花(ぶっそうげ)
ハイビスカスはアオイ科フヨウ属の総称、一般的には扶桑花(ぶっそうげ)を指すことが多い。沖縄南部では後生花と呼ばれ、死人の後生の幸福を願って墓地に植栽する習慣がある。1610年頃(慶長年間)に薩摩藩主・島津家久が琉球産の扶桑花(ぶっそうげ)を徳川家康に献じ本土へ広がったといわれる。
花言葉は、私はあなたを信じます。常に新しい美・繊細な美・新しい恋。
▼正午すぎ、NHKテレビの画面は「沖縄全戦没者追悼式」の中継映像へと切り替わった。沖縄放送局の強い働きかけで、今年から毎年6月23日のこの時刻に、沖縄「平和祈念公園」からの式典中継が全国放送されることになった。この「追悼式」を皮切りに、8月6日「広島平和式典」、8月9日の「長崎平和祈念式典」、そして8月15日の「終戦記念日」と4つの日が中継される。
▼沖縄からの映像・ナレーションの一つ一つが新鮮だ。追悼式の会場となったいる「平和祈念公園」は63年前、沖縄の旧日本軍の最後の司令官が置かれた場所だ。画面は沖縄の海に切り替わる。そこにナレーション「当時、海はアメリカの軍隊で埋め尽くされていました。追い詰められた住民の中には、崖から身を投げ自ら命を絶った人もいました。」
今日、6月23日は、旧日本軍の司令官が自決し、組織的な戦闘が終わった日だといわれている。
▼募苑の納骨堂が映し出される。県民の4人に1人が犠牲になったと言われる沖縄戦。今も犠牲者の遺骨が見つかり、これまでに見つかった身元がわからない遺骨はおよそ18万にのぼり、昨年度も96の遺骨が見つかったという。
▼祭壇にはサトウキビが飾り付けられている。63年前、人々はサトウキビ畑に身を隠し、サトウキビをかじって飢えを凌いだ。
▼式典の中で最も心に残ったのは、読谷小学校4年生の嘉納英佑くんが読み上げた平和の詩だった。嘉納くんの住む読谷村は、沖縄本島へのアメリカ軍の最初の上陸地となり、多くの住民が命を落とした。以下、嘉納君が読み上げた詩を掲載する。
「世界を見つめる目」 読谷村立読谷小学校4年 嘉納英佑
やせっぽっちの男の子が ほほえみながら ぼくを見つめた テレビの画面で・・・・・
ぼくも(その)男の子を見つめた どんなことがあったの? 何があったの?
なにも食べる物がないんだ でも、ぼくは生きたい くるしいけど、あきらめない
ぼく がんばるよ えがおが あふれる 生きる人間の力強さを感じた
悲しそうな目をした女の子が なみだをうかべながら、ぼくを見つめた テレビ画面の中で
ぼくもその女の子を見つめた なぜ、悲しい顔をしているの? なぜ、ないているの?
せんそうで、家族もいなくなっちゃった 家も 友達も 全部、全部なくなっちゃった
悲しいよ さびしいよ どうすればいいの 助けて
ぼくは 涙をふいてあげる
きずだらけの男の人が 苦しそうな顔をして ぼくを見つめた 本の写真の中で・・・・
ぼくも男の人を見つめた
どうしたの?いたいでしょ だいじょうぶ?
あらそいからはなにも生まれはしない にくしみがつのるだけ
ぼくはてあてしてあげる
ぼくのとなりで おじいちゃんが 自分の目でみてきたできごとを ぼくに伝えた
苦しかったせんそうのできごと おばあちゃんが 自分で体験してきたできごとを
ぼくに「伝えた こわかった そかい先のできごと
お父さんが 自分で聞いたできごとを ぼくに伝えた
苦しんでいる人がいること 家がなくつらい思いをしている人がいること
家族とはなればなれになってしまっている人
ざんこくでひさんなできごと 悲しくなった つらくなった
おかあさんが何もいわずぼくをだきしめた むねがいっぱいになった
あたたかいぬくもりがぼくのなかにのこった
▼「日本人には忘れてはならない四つの日があります。昭和二十年八月十五日終戦の日、広島、長崎に原爆が投下された八月六日と九日、そして沖縄戦終結の六月二十三日・・・・。」と指摘されたのは現在の天皇陛下である。
▼戦後、国家主権絶対化の否定から生まれた日本国憲法は、国家の枠を越えた国際主義の視座の上に成り立っている。天皇はこの憲法の元で、「日本国民統合の象徴」となった。現在の天皇皇后陛下は憲法の中で規定された「象徴としての天皇・皇室」の役割を着実に実践していようと強い覚悟の中にいる。その意味で、二人は日本国憲法の最も忠実な実践者だと私は最近、強く思う。
▼終戦後、米国は、11歳だった皇太子(現天皇)に敬虔で穏健なクエーカー教徒の米国人女性エリザベス・バイニング夫人を家庭教師に任命した。彼女を通して米国は徹底した民主化・平和主義教育を皇太子に施した。今上天皇の根っこには、第二次世界大戦直後の“時代の決意”が刻まれている。
▼一方、皇后陛下は初めて民間から皇室に入り、戦後民主主義の象徴となった。欧米の報道機関はその結婚を「粉屋の娘がシンデレラになった!」という見出しで大きく報じた。“昭和のヒロイン”と言われた皇后は、戦争中、疎開も経験し、親戚を東京大空襲で失う、という経験を原点に持つ
▼宮内庁で長年にわたって侍従長を勤めた渡辺允氏はこんなエピソードを披露している・・・・・。
6月23日、外遊中だった両陛下には晩餐会の予定が入っていました。その時、陛下は、晩餐会の時刻が日本時間では何時になるのか、確認されました。その時刻が日本時間の正午近くで、沖縄での追悼式の時刻と重なるという返事を受けると、晩餐会の開始時刻をずらして欲しいと主張されました。そして、調整ができると、二人はその時刻、ホテルの自室で黙祷されました。・・・・」
▼今年から、沖縄全戦没者追悼式が全国放送で中継されはじめたことの意義は深い。「日本人が忘れてはならない四つの日」、それぞれの日、テレビの画面に向かって、一人一人が原点を再確認する共通の時間を大切にしたい。
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