防災の日、激震
2008年9月1日
小紫(こむらさき)
クマツヅラ科
ムラサキシキブ属
別名を、平安中期の女流歌人小式部内侍からとって小式部(コシキブ)ともいう。本州中部以西の日本と朝鮮列島、中国に分布する。秋、鮮やかな紫色の果実を10数個づつかためてつけて、それらが整然と並ぶ姿は美しい。行き届いた秩序を感じる。
花言葉は、聡明・知性
▼防災の日、朝7時前に毎年恒例の緊急連絡訓練の電話が入る。いつもより少し早く家を出た。地下鉄の駅の入口で、リュックを肩に提げたAさんに会う。区役所に勤めるAさん、きょうは勤務が終わっての帰路、歩いて帰る「歩行訓練」を命じられているのだ、という。
▼昨年の中越沖地震、今年に入っての四川省の大地震、岩手県や宮城県を襲った地震、これらの被災地ではいまだ自宅に帰れずに仮設住宅暮らしを強いられている人々が大勢いる。さらにこの一ヶ月、各地を襲っている局地的な集中豪雨、またアメリカでは今現在、100万人の人が大型ハリケーン「グスタフ」の接近に備えて緊急避難している。・・・・列挙していくだけでも、自分の身に災いがいつ降り注いでも不思議でないと思える。そういう差し迫った危機感が、各地の防災訓練に緊迫感を与えている。
▼普通なら、防災の日の夜は各地の取り組みを紹介するニュースや、防災関連の特集番組で締めくくられるはずだった。ところが、今年は夜9時30分の首相の緊急会見で、それらは吹き飛ばれれてテレビ画面は「福田首相辞任」というビックニュースで溢れかえった。
▼防災の日の首相の動静。
朝7時48分、官邸。49分、内閣危機管理センターで総合防災訓練の関係閣僚協議。8時30分、訓練関連の記者会見。40分、緊急災害対策本部会議。11時3分、羽田空港。20分、航空自衛隊のU4「多用途支援機で同空港発。
午後0時34分、関西空港。1時1分、大阪府岸和田市の浜工業公園。近畿府県合同災害訓練を視察。2時21分、報道各社インタビュー。53分、関西空港。3時8分、U4機で同空港発。4時10分、羽田空港。44分、公邸。5時26分、官邸。54分、麻生自民党幹事長。6時4分、町村官房長官加わる。9時30分、内閣記者会との記者会見で辞意表明。50分、町村、岩城、二橋正副官房長官。53分、塩谷官房副長官加わる。10時28分、公邸。
▼大阪から公邸に戻って、麻生自民党幹事長を官邸に呼び込むという次の行動までの時間、1時間10分、この間に首相は辞任を決意したことになる。首相に何があったのか。首相は何に思いを巡らせたのか。いずれにしても、この時間の中で、首相の頭は「防災の日」から「政局」に完全に切り替わった。
首相は辞任会見の最後、「首相の会見はひとごとのように聞こえるが・・・」と言う記者の質問にこう答えて締めた。
「『ひとごとのように』とおっしゃったが私は自分自身を客観的に見ることができる。あなたと違う。そういうことです。」
しかし、どう考えても端には、首相がやけになったとしか思えない。自分の思い通りに動かない取り巻きに対して気力を失ったとしか見えない。
その上で、首相は今後の解散選挙へのスケジュールだけは客観的に思い巡らし、今日という日を選んだ。
▼この難局を打開するには解散総選挙しかない、しかし自分では選挙には勝てない。小沢民主党に対抗するために新しい人材と代わる。そして自民党総裁選挙を民主党代表選挙とぶっつけ世間の関心を自民党に向ける。新総裁選出の熱気の中で解散総選挙に持ち込む。その流れから逆算すると、辞任するのは9月1日しかない・・・・・選挙を見据え政局を読む、冷静な思考の中から選ばれた、2008年9月1日、防災の日。
▼85年前の1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、関東大震災。14万人の死亡・行方不明者を出し、190万人が被災した未曾有の大震災だった。そして、この時、日本には首相が不在だった。8日前の8月24日に加藤友三郎総理が急逝したためだ。
首相不在の85年前の首都は、午後9時30分頃、台風の影響の強風もあり大火災に見舞われていた。
▼2008年9月1日午後6時、官邸で総理が幹事長と官房長官を呼び入れ突然の辞意を表明していた頃、Aさんは区役所を出て、リュックサックを背負って「歩行訓練」に入った。巷では9月1日は防災の日で、今週は防災週間、1960年6月11日に岸内閣が閣議決定し制定した。前の年の9月、伊勢湾台風により5000人の死者を出した痛手から考案されたものだった。
ちなみにこの閣議には、福田首相の父親の福田赳夫氏が農林大臣として参加していた。
|