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   膿を出すように帰郷する
             2008年11月16/17日


▼11月16日、闘病のすえ父が逝ってまる四年、11月17日唐突に母が逝って一年、空っぽになったふるさとへの帰省。旧市街の真ん中にある天神様の境内から見たふるさとの遠景、母が愛用した自転車を漕いでここにきた。
 父と母の半世紀に及ぶ波瀾万丈の人生劇場の舞台となった人口10万あまりの街・・・ふるさとは何事もなかったかのように、穏やかな瀬戸内の風と共に横たわっている。

賑やかな商店街を
駆け抜けた母の自転車


駅を降りると、一塵の風。

親父が人なつっこい笑顔で迎えてくれた改札口。「元気でやっとったかね。」

駅前にでると、かすかな時雨。

駅から実家にいたる道、二人はいつも遠回りして犬のメリーの散歩道を歩いた。親父の九州弁が穏やかに体に溶け込んだ。
 実家に帰ると、晴れやかな母のよく通る声。二人で歓待してくれた。茶碗蒸し、呉汁、ロールキャベツ・・・・昔、好物だった料理がすべて並んだ・・・。食べながらいつもすまないと思った。何も孝行できないままに、甘え続けた無作為の日々。

   夫婦の余韻残る回り道 たどる

▼人の好い夫婦は何度も何度も、人の話を信じ騙された。帰郷のたびに聞かされたその恨み節さえも哀歌のように息子には聞こえた。「なんと人のいい話だ。」父や母の話に呆れてみせながら、バブル後の大都会で自分のことしか勘定に入れない群集に流されている自分の不純を恥じた。

父と母を騙した人々の固有名詞は忘れることはないだろう。いつか、その恨みを晴らさないと長男としておさまりがつかない。二人が消えてますますその思いは強くなるが、ふるさとに帰り夫婦が毎朝歩いた散歩道を辿っていると、どこかで二人に「まあ、そう言うな。」と諭されているようで、さわぐ気持ちが和らいでくる。この心の振幅が続く限り、私は帰郷しつづけるだろう。父も母も消えたこの街に、私は現世の諸々の理不尽を持ち込み、これからも降り立つだろう。そして、瀬戸内のそよ風と時雨に溶け込みながら、夫婦の余韻残る散歩道を辿る時空のなかで、ようやく平静を取り戻すだろう。この街に、父と母はまだ棲んでいるのだ、と思う。
    膿をだすように帰郷する



▼半世紀前の1952年(昭和27年)の11月3日に、父と母は結婚した。
11月は二人の旅のはじまりとおわりが重なる季節になった。

来年、母の三回忌の法要は、11月3日、二人の結婚記念日にしよう。次に来る父の7回忌の法要も、十三回忌も・・・・・すべて11月3日におこなうことにしよう。

終わりをはじまりとするために。

                          2008年11月16/17日
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