田邊雅章の仕事

        2010年8月6日  
                    


▼2010年夏の広島・原爆ドームである。
 その前に広がる緑の敷地には被爆直前まで、広い屋敷があった。近くの練兵場に通う軍人と妻、夫婦には8歳と1歳の男の子が暮らしていた。
▼「自分はその屋敷の長男だ。」と田邊雅章さんが広島放送局を訪ねてきたのは1996年の秋のことだった。ドームの隣に住んでいたという人が生存しているとは、驚いた。
以来、田邊氏とのつきあいがはじまった。

▼田邊氏は被爆前に、岩国の親戚の家に疎開してて助かった。数日後、廃墟となった広島に祖母といっしょに帰った。家は跡形もなかった。「町からは音が消えた。焼け跡からは経験したことのない異様な匂いがした。後に化学コンビナート工場に入った時に、あっ、あの時の匂いだと思った。」
▼大学で映像学を専攻し、地元の新聞社でカメラマンをした後、独立して映像プロダクションを設立した。原爆のテーマにした作品は一切、作らなかった。避けてきた。

▼60歳の還暦を迎えた頃だった。ドーム前で「おじさん、写真撮って。」と若い女の子に言われ、シャッターを切った。「ピース」女の子の背景にドーム、そして手前にはかつての自宅の敷地が広がっていた。「この子たちには何も伝えてこなかった。」その時、残りの人生、原爆に向き合おうと決意した。


▼田邊氏の決意は、いくつかの段階を経て、自分の家、その隣にあったドーム(産業奨励館)、ドームのまわりにひろがる町のすべてを克明にCGで再現するという仕掛けに成熟していった。
▼当初、田邊氏と共同作業をしていた私は、2年後、東京に転勤した。田邊氏はその後も、次々と名乗り出る元住民の証言をハイビジョンカメラにおさめ、一人一人の家の間取りを聞き出し、一軒一軒の記憶を、時に異様とも思える執念で、CGに移しこんでいった。

▼年のうち何回か上京すると、田邊氏は声をかけてくれ、都内のホテルで、復元事業の進捗状況をエネルギッシュに語ってくれた。そのおかげで、この10年間、私の中のヒロシマは風化することなく、今の問題としてあり続けている。

  (↓被爆地蔵)
▼数年前、田邊氏は、爆心地の復元を終えた。これでこのプロジェクトもけじめがついたな、と傍で見ていた私は思った。

▼今年、ひさしぶりに連絡があり、いつものホテルで会った。そこで、また驚かされた。前作を持って渡米し上映会をした。その時の話の中で、ドームの対岸にある平和公園、「あそこは公園でよかったですね。」という声が米国人の間からでた。「冗談じゃない。平和公園には広島一の、繁華街があった。」
この時の会話で、再び、火がついた。目下、平和公園になった町、中島町を再現しているのだと73歳の田邊さんはあのころと少しも変わらない勢いで熱く語った。

▼今回の「「平和公園復元」にはアメリカの大学も協力を申し出た。日本の大学との共同プロジェクトに発展していた。作品の一部は5月の国連NPT会議でも上映された。
▼「君ともう一度、一緒に仕事したい。」田邊氏は言ってくれた。気がつけば、現場の視点を失いかけた自分がいる。公共の仕事に飛び込んだ当初の志も、ぷかぷか浮いている。そんな時、「君に助けてもらいたい。」と強く言ってくれる田邊氏の言葉には揺さぶられた。

▼今夜9時からBSハイビジョンで「ヒロシマ爆心地復元〜平和公園は繁華街だった〜」が放送される。181人の元住民たちが、その直前まで広島にあった自分たちの家の様子、町の音、暮らしのリズムを生き生きと語る、それにあわせて、CGで甦った街並みがよぎる・・・・・

 もう一度、目線を下げて、現場を歩くことからはじめようと決意させてくれた番組である。広島県福山市のプロダクションの編集室で、73歳の田邊氏とまもなく57歳になるくたびれた放送人が、青臭い議論をしながら、作り上げた番組である。

(←地蔵の下には、放射線で焼きつけられた、1945年8月6日午前8時15分の影が今に残る)

2010年8月6日