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    カトレア   ラン科カトレア属         

洋ランを代表する植物。野生種はメキシコから中央・南アメリカにかけておよそ30種類が分布する。新大陸に自生するカトレアが欧州に持ち込まれたのは1823年。あっという間に人々を魅了し、次々と人工交配がおこなわれ、今、目にするもののほとんどが人工的に作られたもの。カトレアという名前は19世紀はじめのイギリスの園芸界の後援者W・カトレーイを記念したもの。カートレイは花を愛し、珍しい植物の収集に熱心で、植物学者J・リンドレイを資金的に援助した。カトレア属はリンドレイが最初に命名したもの。(八坂書房「花ごよみ花だより」より)
花言葉は、優雅な女性・魔力・あなたは美しい・純愛・成熟した魅力。
カトレア(紫)の花言葉は、優美な女性・優美な女心 。カトレア(白)の花言葉は、魔力
カトレア(黄)の花言葉は、魅了。カトレア(桃)の花言葉は、成熟した年配の人の魅力

▼単身赴任をきっかけに洋ランの魅力にはまってしまう人が多い。こまめに手入れしなくてもよく育ち、よく咲いてくれる。そのうえ進化の途上の植物だからなのか人工交配が比較的簡単で、それぞれ自分なりも美しさの追求ができるのが大きな魅力らしい。カウンターバーで洋ランの魅力を滔々と語り続ける先輩を横に、毎夜ひっそりとした一人暮らしの部屋にたどりつき蛍光灯のスイッチを入れると闇から鮮やかなカトレアの色が浮き出す光景を想像する。単身赴任の男はこうして洋ランにはまり、やがて自分好みの花を咲かせたいと躍起になる。洋ランはこうした一方的な愛情に健気に応え次々と変幻しながら「理想の美」を披露し続ける。

▼フランスに住む中国人作家ダイ・シージェが2000年に発表した「バルザックと小さな中国のお針子」という作品がある。出版されるとたちまちベストセラーとなり30カ国をで翻訳され今なおヒットを続けている。
▼文化大革命の嵐が吹荒れる1971年、二人の若者が反革命分子の子として再教育のために、四川省の山岳地帯に送り込まれる。17歳と18歳の若者は、厳しい労働に明け暮れる中、村に唯一ある仕立て屋の娘に淡い恋をする。ある時、二人は禁書となっていたバルザックの小説を密かに手に入れる。そして、その禁断の書を密かにお針子に読んで聞かせる。この愛らしく清楚なお針子をバルザックによって気品あふれる貴婦人に育て上げたいという思いをこめて、毎夜、若者たちはバルザックの世界に酔う。美しい恋の手ほどきの物語がユーモアと詩情豊かに描かれていく・・・そして小説の最後は、お針子が一人、故郷を捨て都会へ向うシーンである。二人の若者は彼女を追い、引きとめようとするが彼女は決意を変えない。若者が問いかける。「君を変えたのは?」 彼女が答える。「バルザック。 バルザックは教えてくれた。女性の美しさは最高の宝物だと。」
▼「小さな中国のお針子」は映画になった。それを見逃してしまったのだが、待望のビデオがでた。さっそく借りて観たが、残念ながら映画は小説の描き出した世界を超えてはくれなかった。ただ映画は27年後それぞれ音楽家と歯科医に成長した若者が再び村を訪ね、さらにその山岳の村がダム建設のため水に沈む、というシーンを加えてノスタルジーを増していた。ただ、失われたものへの切ない郷愁というより、小説で得たものは大切に磨き上げた愛しいものがある時するりと抜けて旅立つ突然の裏切りと飛躍の残酷さと無情である。小説で描かれた「途端のオチ」の方がよりいっそう切なくさせられる。
   ☆☆☆
▼さて映画の舞台となった中国四川省、山岳地帯の若者はやがて成都、あるいは西安の大学をめざす。その西安の西北大学の文化祭で29日、唖然とする事件がおこった。学生の多くの出し物はそれぞれの地方の特色を出した舞踊だった。その流れの中で舞台に登場した日本人留学生の姿を見て観衆は呆然とした。胸に赤いブラジャー、下腹部に紙コップを付けてなにやら踊り始めたのだ。その場にいた中国人の教師や学生が踊りの下品さに怒りだし、すぐに中止になったが騒ぎはこれに留まらなかった。香港紙の文匯報が、寸劇をした留学生らは「ほら、これが中国人だ」と書かれた札を掲げていたと報じた。留学生らは、それは誤報だと主張、寸劇の最後にそれぞれが背中に「日本」「中国」、ハートマークを書いた札をかけて日中友好のメッセージを強調したかったとその趣旨を説明したが後の祭りだった。翌日には数千人規模の抗議デモにまで膨れ上がってしまった。
▼折りしも「中国の小さなお針子」を読み直していた時に起こった、この騒動は様々なことを考えさせてくれた。文化大革命当時とまではいかないにしても、若者たちが受けてきた教育はその多くが中国共産主義の歴史でありさらにその中の多くが日帝時代の悲惨な描写にさかれている。さらに西安の大学に来る若者は豊かな家の子弟とはいえ、「中国の小さなお針子」の舞台となった保守的な山里を故郷に持つものが多いはずだ。こうした観客の感性のマジョリティを察する想像力がこの日本人留学生には欠如している。
▼「中国の小さなお針子」の中で、青年がバイオリンを見つけられ演奏を迫られる場面がある。
「曲名は?」と村長が尋ねる。 モーツアルトのソナタだったが、彼らは咄嗟に答える。「曲名はモーツアルトの毛沢東を偲んでです。」本当のことを言ったら直ぐに捕まってしまいとんでもない事になるからだ。

   「私は、青少年期にさしかかる頃から自分を訓練してきたことがひとつあります。中国のことを考える時は、自分が中国人だったらと、心からそういうようなつもりになることです。そのためには中国のことを少し勉強しなければいけませんが、とにかく中国に生まれたつもりになる。
 朝鮮のことを考えるときには、自分が朝鮮人だったらと思う。沖縄問題がありますと、自分が那覇に生まれていたらとか、宮古島に生まれたらというように考える。そういう具合に、若い頃から訓練をしてきました。」 (司馬遼太郎)

▼なぜ、日本人留学生はそんな出し物を選んだのだろうか。推測するにそれは彼らのオリジナルではなく、日本のテレビでドリフターズなどが一時期やっていたコントのコピーではないのか。幼い頃からテレビの前で育った彼らの共通の記憶の中にあったコント、彼らはなんのためらいもなく、「あれはぜったい受ける」と出し物を決めた。
 日本のテレビがバラエティに大きく傾斜していくのは昭和40年代の終わりだ。まさにドリフターズの「8時だよ全員集合」を皮切りに「おれたちヒョウキン族」、そして今の吉本興業全盛期へと突入する。自戒をこめて言えば、1970年代、隣の中国が文化大革命に突入し同じ世代の若者が苛烈な青春期をおくっていた頃、日本で我々はこうしたバラエティ番組を口あけてポカンと観て過ごしてきた。そのコントは「けだるい日常」の中でアメーバのように人々の心に浸潤していっていった。視聴率優先の中では、この弱いものを軽くいたぶり面白がりとりとめもない時間をすごしていく「ここちよい空気」から抜け出すことをテレビ製作者も考えられなくなってしまった。 
▼西安大学で留学生が選んだ出し物は、自分たちが面白いと思ったものは必ず受け入れられる、という日本人の思い上がりを象徴している。せめて、舞台に上がった直後に、ハートマークを掲げ日中友好がこのコントのテーマだということを明確にアピールすべきだった。わかりやすくプレゼンしてほしかった。
▼ 中国の山岳地帯で、青年から禁書であるバルザックを密かに与えられた少女は、やがて「バルザックは教えてくれた。女性の美しさは最高の宝物だと。」という言葉を残し、一人、都会を目指した。それから25年の歳月が過ぎ、彼女は何を手に入れたのだろうか。けだるい日常の中でテレビの前に座り、意味なく仲間をいたぶり笑うコントに興じる風景だったとしたらそれこそ複雑な思いになるが、今の日本はそれが普通の風景になっているからせつない。
 中国で紙コップだけの裸踊りを始めた日本人の風景。豊かさの中でつかんだ自由の姿がこんなものだったのか。

   ☆☆☆
▼ カトレアの話から始まり、変な方向にいってしまったが、単身赴任の男がベランダで丹精こめて洋ランを作るのは、中国の小さなお針子に理想の美しさをたくしバルザックを読んで聞かせる青年の心情に似ている。カトレアはほっておいてもりっぱに育つ強い花なのに男はいつのまにかそれを忘れている。

                          2003年10月31日
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