キバナコスモス
キク科コスモス属の一年草
。コスモスより葉の裂片の幅が広く、やや草丈も低い。コスモスはメキシコ生まれ。明治のはじめに渡来。
コスモスという名は ギリシャ語で「宇宙」「秩序」。コスモスの花言葉は乙女の真心、乙女の純潔、調和、美麗。キバナコスモスの花言葉は 野生美。
▼キバナコスモスの花言葉「野生美」。"野生≠ニいう言葉からは程遠いある犬の話をしたい。
▼その犬は白い巻き毛の雑種で、年を追うごとに異様に太っていき、ついには自分で歩くことさえままならなくなった。極端に臆病だった。河原の水の中に足を入れることもできなかった。飼い主が若ければ面白がって犬を水の中に放り投げることぐらいしたかもしれないが、高齢の飼い主は、犬の生来の臆病ぶりに苛立つこともせず、放任して育てた。
▼10年近く前になるだろうか。久しぶりに山口の郷里に帰った。そこではじめてその犬と出会った。しばらく父母と一緒に暮らしていた弟が実家を離れ、家族を連れ高知に移り住んだばかりで、父母二人だけの生活がはじまっていた。父と母が書店を経営していた頃は住み込みの店員達もいて賑やかな家だったのだが、それは遠い昔の風景となった。
▼メリーと呼ばれていたその犬は、火の消えた家で暮らす二人にとってはかけがえのない存在になっていた。メリーはひょっこり帰ってきた長男を見ると怯えて奥に引っ込んでしまったが、飼い主の態度が普通の客人とはちょっと違うのを察すると首を傾げて不思議がった。柱の陰からそっと伺う様子は滑稽であった。不恰好な犬だが黒い眼だけは愛らしく、奇妙な情をかもしだす顔相だった。
▼父と母は、メリーを飼う前にタローという犬を飼っていた。その犬は精悍で頭のいい柴犬の血の入った雑種であった。ある日、二人はタローを連れ散歩をしていた。その時、交通事故に遭い路上に倒れこんでいた犬を見つける。それがメリーだった。二人はさっそく近寄り介抱をし家に連れて帰ろうとした。その時だった。、ふと気づくとタローの姿が消えていた。それから何ヶ月も新聞に広告も出すなど必死で探したが、タローは二度と父母の前に現れなかった。「倒れたメリーを見つけて駆けていった時、置き去りにされたタローがうらましげに見つめていた」と父母はその時の様子を振り返る。それは嫉妬だろうか、飼い主に置き去りにされた失望なのだろうか、「ああ、もう自分は必要ないのか」とでも思ったのだろうか・・・・・演歌になってしまうが、タローが背を向けて姿を消していった風景を想像すると、複雑な情念を感じる。
▼兎にも角にも、この出来事から、タローに代わってメリーが住み込んだ。父母はメリーを我が子のように溺愛し育てた。運動嫌いなメリーは次々と与えられる美食を受け入れあっという間に肥満体になった。朝夕、ドタバタ歩くメリーを父母が引きずるようにして散歩する姿に「まあ、太った犬」と道行く人々は笑った。そんな失笑を受ければ受けるほど、父母のメリーへの愛情は高まっていった。肥満のメリーは、やがて台車に乗せられて散歩するようになる。野道で用を足すと再び台車にお乗りになる。なんと怠慢な犬だろう。老老介護という言葉は聞くが、これは老犬介護ではないか。長男はあきれ返る。しかし、両親はこんなに優しい性格の犬はいない。」という。
▼この夏の初め、父が病を患い入院することになった。それと前後して、メリーはついに歩けなくなった。それでもトイレは外の自分の決めた場所でしたいらしく這っていくのだが、用を足すと精根尽き果てそこで動けなくなった。地面に伏して動けないメリーを父は台車に乗せて連れ帰る。それが入院前の父の仕事だった。
▼「メリー!」 静かな家にメリーを呼ぶ甲高い母の声が響く。動けないメリーの黒い瞳が愛くるしく反応する。その表情を見ていると、小学生の頃、父母が書店のシャッターを下ろし商店街から帰ってきた時の気分を思い出す。鍵っ子にとって父母の帰宅ほど華やかなものはなかった。「ただいま」と母の甲高い声が響くと暗くひっそりした家がにわかに生気を帯びた。くるくる動く黒い瞳を見るとその時の気分の高まりを思い出す。
▼父の入院から一ヶ月が過ぎようとしている。今朝、父の容態を聞こうと母に電話を入れ呆然とした。母が号泣していた。丁度いま、病院から帰宅しメリーを呼んだが様子がおかしい。近づいてみると息を引き取っていたという。その直後に長男から電話が入った。長男は声をかける術もなくただ呆然と母の取り乱した声を聴くだけだった。
その出会いから別れまで、あの肥満体の犬には「情愛」という言葉が深く絡み付いていたように思う。
▼午後、病院から特別の許可を得て、父はチューブをつけたまま外出し母と二人、号泣の中で愛犬を火葬した。高知に住む弟から電話が入った。母の話を聞いた後、弟は「それはメリーが親父の身代わりになってくれたんだ。」と一言、情愛にあふれた言葉を投げた。それが二人に幾分かの落ち着きを与えた。
▼東京、光が丘公園。犬とともに散歩する人々の数は年々増えていくような気がする。その飼い主と犬の間には無数の「情愛」の物語があるのだろう。
コンクリートのビルの中で会議や権謀術数に明け暮れるサラリーマンが捨て去った「情愛」は、増え続ける飼い犬達の心の中に移り住んだのかもしれない。母との電話の後、はじまった会議の最中、そんなことをふと思った。
|