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  道草 「こころの中の小さな宝石」                   2003年6月4日


▼人事異動の季節は、せっかく馴染んできた人との別れが切なくもあるが、昔の同僚と再び同じ職場で働くという、再会も用意されている。

▼後輩のK君が仙台から戻ってきて私の席の前に座った。職場で席を同じくするのは、湾岸戦争の頃以来、10年ぶりである。あの頃と変わらぬ、柔かく暖かい雰囲気を持つK君と雑談していると思わず心が和み、人徳というのはこの人のためにあるのだな、と思ってしまう。



▼そのK君が「先輩、これ読んで下さい。」と言って新聞の切り抜きを差し出した。「仙台にいる時、この切抜きを机の前に貼り付けていました。」という記事は2000年12月24日の朝日新聞、井上ひさし氏のコラム「いつもそばに、本が」、 見出しには「こころの中の小さな宝石」とあった。
▼井上氏は大学時代、図書館の蔵書整理のアルバイトをした。戦争末期、空襲を恐れ図書館長が防空壕に投げ込んだ無数の蔵書を地上に引き上げ、泥を落として陰干しにするのが仕事だった。その本の山のてっぺんに、太宰治の「惜別」があった。以下、井上氏の文章からの抜粋・・・・

▼<これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である>という一行で始まるこの短い小説は、清国学生として仙台医学専門学校(いまの東北大学医学部)に学んでいたころの周樹(のちの魯迅)を書いたもので、小説の山場で、周君は、手記の書き手(そのころは周くんの同級生)にこんなことをいう。▼・・・・・吹雪の夜、難破して、やっと岸にたどりついた水夫が、灯台を見つける。やれ、うれしや、助けを求めて叫ぼうとして、窓の内を見ると、つつましくも仕合せな夕食の最中である。ああ、いけねえ、助けを求める自分の凄惨な一声で、この団欒がメチャメチャになる。水夫は、ほんの一瞬、ためらった。そこへたちまち、ざぶりと大波が押し寄せ、水夫を一呑みにしてしまう。もはや助かるはずがない。この水夫の美しい行為をだれが見ていたのだろう。灯台守の一家は何も知らずに一家団欒をつづけていたにちがいないし、水夫は波に呑まれて、ひとりで死んでいったのだ。月も星も、それを見ていなかった。しかし、その美しい行為は厳然たる事実である。 ▼<そのような、誰にも誰にも目撃せられていない人生の片隅に於いて行われている事実にこそ、高貴な宝玉が光っている場合が多いのです。それを天賦の不思議な触覚で探し出すのが文芸です。>▼つまり芸術家というものは、人間のこころの中から、小さな、しかし燦然ときらめく宝石を取り出そうと苦心する人たちのことで、読者はその宝石の鑑賞者であり、またじつはそれぞれが小さな宝石の所有者である。この数行は、わたしを激しく打ち据えた。▼もちろん、本ばかり読んでいて、ちっとも整理しようとしない臨時雇いは、すぐさまクビになったが、しかし、得たものは大きかった。なにしろ、わたしは、書物を読むときの、揺るがぬ憲法を手に入れたのだから。(井上ひさし)

心にしみいる文章だった。太宰の「惜別」は遠い昔、浪人時代に読んだ記憶がある。当時、東京の予備校に通い始めた私は、東京の雑踏やその取り澄ました標準語に怖気づいていた。その折に読んだこの小説の主人公も青森の田舎町から仙台に出てきたものの、その津軽弁に気恥ずかしさを感じ人前で話すことができない。周樹のような留学生の前では物怖じせずしゃべれる・・・・そのくだりだけが妙に印象に残っているが、うかつにも上記のような珠玉の言葉にひっかかることもなく、ストーリーを追うだけで、ぼんやり読み飛ばした。帰ってさっそく、「惜別」を読み、感じ入った。
▼「惜別」は太宰が戦時中に執筆し終戦直後、出版された。太宰の作品の中ではめずらしく、流れを止める説明的な文章が多く、それが体制迎合だと揶揄されたらしいが、戦時中に検閲を意識しながら、魯迅を題材に、結局、自分の内面をさらけだしてしまう、太宰のすぐれたナルシズムはあらためてあっぱれだと思う。2003年の今、国家の大儀や正義が再び膨張する時代状況の只中で、太宰の「小さな宝石」に目を向けることへ決意を再確認することは、行く手を照らされるようで清清しい。18歳の頃にはまったく理解できなかったが今やっとその真意がわかるような気がする。

▼K君によると、この切り抜きを渡してくれたのは、私より10年先輩のNさんである。明朗で磊落なN先輩はその一方で後輩に実にきめ細かい心配りをしてくれる人である。仙台で15年後輩のK君の机に、切り抜きを置いていく風景が目に浮かんでくる。そういえば、10年前、K君と共にNさんと同じ部署で一年間働く機会があった。当時、自分の能力について逡巡する日々を送っていたが、ある日、Nさんが一冊の本を紹介してくれた。1980年代に亡くなった文豪達への追悼文を集めた「水晶の死」という厚い本だった。追悼集を編纂した立松和平氏のことば・・・・・死者が親しければ親しいほど、筆者も一生懸命になる。思いが乱れてペンが走らないのではなく、悲しみの底でいっそうの集中力が湧くのがおおかたの文学者であろう。それが文という業なのだと言い直してもよい。相手が文学者ならば、可能な限り思いのたけの籠もった文章でこの世から送り出してやりたい。祭壇に供された花は枯れ、人の思いも変わる。だが、文は書かれた時の存在を永遠に持続するのだ・・・・・
▼「文は書かれた時の存在を永遠に持続するのだ」 これもNさんからもらった宝物である。
 
                  2003年6月4日        
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