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  道草 「ゲームの感覚」 2003年7月12日

 ノウゼンカズラ(凌霄花) /ノウゼンカズラ科ノウゼンカズラ属。中国原産で日本への渡来は古い。平安初期の文献に陸霄という名前で登場する。かずらの名が示すごとく蔓性の植物で他の植物や支柱にまつわりついて登ってゆく。 霄は空の意味で蔓が木にまつわりついて天空を凌ぐほどに高く登ることから凌霄花の名が与えられたといわれる。外側がオレンジ色、内側が朱色をした筒形の花は英名のトランペット・フラワー。花言葉は栄光、名声。

▼「四川省」というパソコン・ゲームの囚われ人となっている。同じ二つの麻雀牌を拾い出しひたすら消していく。卓の上に何もなくなったらゲームは完了である。そのタイムをいかに縮められるかというわずかばかりの向上心はあるが、そんなことは些細なこと、無心になってひたすら牌を拾い出す時間がたまらない。
▼近頃、憂うつで悲しいことが多い。いちいちここに書いても周りを不愉快にするだけだから止めておくが、気がついたら「四川省」に逃げ込んでいる。無心の中で反射的に動く指先に身をゆだねていくと、あっという間に数時間過ぎている。無為な時間を食っている。
▼小学生の頃、友人が突然の病で他界した。その直後から友人のお母さんがパチンコ屋に入り浸りになった。当時、小さな町のうわさ話になったが、その時のお母さんの気持ちが今になってようやくわかるような気がする。無心で玉の軌跡を追う単純な時間を貪らなければ複雑な心の洪水があふれ出してしまったのだろう。
▼先日長崎で起きた、12歳の中学生が4歳の幼稚園児を誘拐殺人するという衝撃的な殺人事件。新聞各紙はさっそく「12歳の心の闇」を論じ「親の責任」「一人っ子、少子化の危うさ」を語っている。これらの報道の中で、報告されていないのが、中学生が幼児と出会ったゲームセンターでの出来事である。中学生はこの日なぜゲームセンターに来たのだろうか?その時、どんなゲームをしていたのだろうか?中学生は幼児にどのように近づいたのか?幼児にとってゲームセンターでの中学生はどのように映ったのだろうか?
▼溺愛される母親の起伏の激しい感情は一人っ子の中学生にとって大変厄介な存在だったに違いない。ちょっとした母の言葉に傷つき少年は家を飛び出す。逃げ出した先のゲームセンターにはゲームに強いものが尊敬される極めてシンプルな世界であったに違いない。さらにそこには一人っ子たちにとっては実に新鮮な世界がある。中学生や小学生、違う年齢の子供たちが一堂に会した今時めずらしい世界である。一方、幼児にとって、ゲームに精通した中学生は心を許すに足る存在だったにちがいない。
▼路面電車を降りアーケードをまっすぐ歩き、たどり着く量販店の駐車場、そこから見下ろした下界は少年が精通していた三次元のゲームの風景そのものだったのではないか。連れてきた幼児を突き落とし削除、ゲーム完了・・・。
▼複雑で制止しきれない混沌とした現実から逃避し、単純極まりないゲームの世界に飛び込む。そこでは自分がすべてを俯瞰でき、うまく行かないときは簡単にリセットボタンをクリックすればいい。何度もやり直しがきく世界である。その世界に囚われた者たちは、無心の時間を貪り食い何度もリセットを繰り返す。
12歳の少年はいったいどんなゲームに没頭していたのだろうか?

▼「四川省」にはまってしまったどうしようもない夫の後ろを妻の覚めた言葉が通り過ぎる。「いまに感情がなくなってしまうわよ。」 言い得て妙だと思う。
                          2003年7月12日
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