K・N氏からの便り ジャズの話をしよう B    
  ※ このシリーズ「ジャズの話をしよう」は私の職場の親友N氏が寄せてくれたものです。  


     
    静謐


          
             2006年10月9日             

先月23日、彼岸。朝日新聞の天声人語は、マイルス・デイビスとともにジョン・コルトレーンについて語っていた。9月23日、コルトレーンの誕生の日として記事はひも解かれていた。それにしても彼岸の日、その対極にある生誕の日を記念して書いたに違いない同世代とおぼしき記者に親しみを覚えた。

◇記事は、麻薬と手を切った末に到達した音楽“至上の愛”に触れ最後、故寺山修司氏のジャズへの想いで終わっている。

コルトレーンはマイルスとセットで語られる事が多い。マイルスに多くを学び、巣立っていったコルトレーンのひとつの頂点が
“至上の愛”である。

◇記事をきっかけに久しぶりに“至上の愛を聴く。
そして最大の感銘を受けたTransition”にふたたび向き合う。

1960年代後半、ジャズと出会った頃にはすでにコルトレーンは亡くなっていた。コルトレーンのまるで洪水のような音の数々。それにもかかわらず私は“静謐という言葉を彼に見い出した。

◇没後わずか2年の月日しか経っていないにもかかわらず、彼はカリスマとなりジャズシーンに大きな存在感を与えていた。

ジョン・コルトレーン、1926年9月23日アメリカ、ノース・カロライナ州・ハムレットに生まれる。1967年7月27日没。享年40歳。

◇バプテスト派の牧師を叔父に持つ彼は、教会でサックスを覚えた。アイドルはジョニー・ホッジス。17歳の時フィラデルフィアで本格的な音楽活動を始める。その後出会ったミュージシャンがビー・バップの革命児ディジー・ガレスピーである。1949年から1951年にかけガレスピー・バンドに在籍しながら、ビーバップを学び同じサックス奏者のチャーリー・パーカーに衝撃を受ける。が、彼は下済み生活に甘んじようとしていた。麻薬という悪魔から抜け出せないでいたのかもしれない。この時一人のミュージシャンと出会わなければ、彼はカクテルミュージシャンに終わっていた。

1955年、マイルス・デイビスとの出会いが彼の生涯を決定した。コルトレーンは後年語っている。“マイルスと出会った時、今までの行き方ではどうにもならない。他人を利用してまで自分を発見しなければならない。”と。以後、亡くなるまでの12年間がコルトレーンの音楽家としての全てであった。

1955年から56年にかけて、マイルスとの作品が数多く残されている。そこにはマイルスのサイドメンながら、彼の教えを忠実に守りかつ自己の世界を展開しょうと苦悶しているコルトレーンの姿をうかがい知る事が出来る。ジャズレーベル、プレスティッジに残された4部作、そしてCBSでの録音Round About Midnight”などは、マイルスと共にコルトレーンの作品でもある。その合い間ピアニスト、セロ二アス・モンクとの体験が、彼を大きく成長させた。こんな逸話が残っている。モンクはクラブで演奏を終えると自分のアパートに戻り、窓から外をじっと見つめていたという。その間、コルトレーンはひたすら演奏するほかなかった。2時間も3時間も終わるところを知らず演奏は続いたという。コルトレーンはモンクの残響に学び、成長していったに違いない。

マイルスの金字塔とされる”Kind Of Blue”は、コルトレーンにとっても自己の成長を誇示する作品となっている。“シーツを敷き詰めたような”と言われている“Sheets Of Sound”の世界。一小節にいくつものコードが存在する彼の演奏。一瞬にして低音から高音へと移行するドライブ感。そして身をよじるほどに表現する切なさ。その後彼は自己の世界への、挑戦の旅に出るのである。

◇モードジャズの古典、輝かしいアルバム、“Giant Steps” “My Favorite Thingsなどから始まる苦行の歴史。愛称Trane”は“Train”も重ねられた。アルバムのタイトル名にもなった”Train”は止まる事の知らない汽車である。そして当時フリー”というキーワードとともに存在したモード“への求道的な姿。発表する作品ごとに神秘性を増していくコルトレーン。

ジャズの持つ重みを一身に背負いながら、彼は数々の作品を世に問う。そして一つの頂点が1964年12月に録音された至上の愛“である。緊張のたたずまいの中にリーダーとして身をおいたコルトレーン。全員で祈りをささげているような神秘的な演奏。あらためて歴史に深く刻まれている4重奏団を紹介しよう。John Coltrane(ts),McCoy Tyner(p),Jimmy Garrison(b),Elvin Jones(ds).

1960年以降、時代はフリーと共にあった。彼もフリーの嵐の中に身をおいていった。“至上の愛”を最後にストレート・アヘッドなジャズからフリー・スタイルへと移行。Train”は更なる前進をし続ける。

ここで偉大な音楽家、ルビンシュタインの言を借りよう

一回一回が新しい創造であり、前進こそ絶対。停滞は芸術家として滅亡を意味する“

◇不動とも思われたカルテットをあえて解散し、彼は自分を慕う若手ミュージシャンそしてピアニストで妻のアリスと共に新メンバーでフリー・ジャズにつき進む。1965年発表された”Ascension”(邦題:「神の園」)は賛否両論を呼ぶ。より完璧な破壊が、始まった。11人のフリー・ブローイング・アンサンブルの中、彼のジャズはニューオリンズ・ジャズへの回帰も感じさせる。


没後4年の1971年、素晴らしいアルバムが世に出された。

Transition”(邦題:「変遷」)と題されたこのアルバムは、1965年6月録音の“Asention”のわずか一ヶ月前に録音されたものである。そして私にとってこのアルバムこそ、コルトレーンの原体験となっている。”至上の愛“以降“Transition”に至るまでの半年間、彼はそれまでにも増して驚異的とも思えるほど精力的にレコーディングを行っている。彼にとって音楽と向き合う日々は苦闘の作業であり、一作一作が新しい面を示している。それらの作品を結ぶと一つの線となり、その通過点に”至上の愛“があり、更には“Transition”へと続き、そして”Ascension”へと至る。まるでまっすぐと続くレールのように。全てがコルトレーンの中で、必然であり真実である。

Transition”の中コルトレーンはそれまでの完成されたモードジャズを踏み出そうとしている。4人で支え合い、危うさを感じさせながらも甘美なまでの世界に突き進んでいる。たったさきほどまでのモードの約束事さえかなぐり捨て破壊へと向かうカタルシス。果物が熟れ落ちなんとする寸前の甘美とも言おうか。私は崩れいくかもしれない何物かに美しさを感じた。

アルバム名ともなったTransition”からバラード”Dear Load”へと作品は移っていく。その間の数秒間に過ぎ去った音をいとおしみ、新たに訪れる音への期待を抱く。そして二つの風景が浮かぶ。“夏”砂嵐が吹き荒れる砂漠の中、陽炎のように現れては響くコルトレーンの音。“冬”の夜、雪に照らし出されるミッドナイトブルーの景色。

“静謐”を聴く。

1966年7月、コルトレーンは初の来日をする。後年その時の演奏が3枚組みのレコードとして発表されている。アリスはもとよりコルトレーン・ジャズの後継者、ファラオ・サンダースらを従え日本のファンの前に立った。しかし聴衆のなかには彼の音楽を理解することができず、終演を迎えないまま会場を後にした人々も多くいたという。当時ラジオ番組のため録音された演奏が貴重なものとして、“Transition”の数年後世に出された。精神性の深さを感じさせ喧騒とも思える音の中に澄み切った世界が記録されている。精神性の高い“音”に対し、受け手も精神性が高くなくてはならない。当たり前のことに気がつく。

来日からちょうど一年後の1967年7月27日、コルトレーンは亡くなった。黒人の公民権運動盛りの年、彼は40歳の若さで世を去った。以来ジャズの世界で永遠に語り継がれる日となる。大きな喪失の日となった1967年7月27日。

ユニークなジャズ評論で知られた故植草仁一氏は、コルトレーンの訃報に接し惜別の評論を残している。タイトルはコルトレーンの死をハプニングといったら叱られるだろうか“

最後の数行を紹介しよう。その数行の中にコルトレーンが語った言葉がある。「この世の中には苦しみや悲しみを生む悪の力がある。ぼくは善の力になりたいのだ。」 そして植草氏は続ける。

「ぼくは彼の死を知ったとき、黒い線のうえにポツリとついた最後の丸い玉のあとの空白が、はるか下のほうへと落ちこんでいくような気がしたが、その下の方ではファラオ・サンダースの悲痛な姿が、呆然として立ちつくしているのも、また見えたのだった。」(昌文社「マイルスとコルトレーンの日々」)

コルトレーンの死と共に、ジャズは混沌の時を迎えた。外からはエレクトリックの嵐が押し寄せてきた。ジャズはどこへ行くのか。不安な状況の中、一つの糸口を提示したのがかつての仲間マイルス・デイビスである。彼の作品“Bitches Brew”がコルトレーンの喪失に答えようとしていた。コルトレーンの術縛からかろうじて解放されるかのようにジャズシーンはあらたな時代に再び前進しようとしていた。

未だにコルトレーンの残した何かから抜け出せていない気もする。

私は全てのテナーの響きにコルトレーンを見い出す。彼の影響は色濃く残っている。

天声人語にも残された寺山修司氏の言葉をあらためて引用し、終わりとしよう。

「ぼくらにとっても、白人にとっても黒人にとっても、結局全部だれにとっても、ジャズは外国人の音楽―故郷喪失の音楽だって気がした」(「ユリイカ」)

喪失の音楽だからこそ演奏者にとっても聴衆にとっても永遠につかまえきれない音楽なのかもしれない。

◇静謐”という言葉が重なるジョン・コルトレーン。
その彼に、身もだえする彼に静かな想いが寄せられていく。                    

2006年10月9日