K・N氏からの便り ジャズの話をしよう C     ※ このシリーズ「ジャズの話をしよう」は私の職場の親友N氏が寄せてくれたものです。              長い道   穐吉敏子

              2006年10月31日    

◇穐吉敏子さんの人生は生まれ出でた地、満州から続く一本の“道”のようだ。
それは確信を見出し続けようと、迷いながらも懸命に模索し続けてきた足跡でもある。アルバムタイトルにもなっている“ロング・イェロー・ロード”こそ穐吉さんの“道”そのものである。

◇この秋、ビッグニュースが飛び込んだ。アメリカジャズ界の最高峰の賞である米国立芸術基金(
National Endowment for the Arts)ジャズマスターズ賞受賞の知らせである。この賞はアメリカのジャズ発展に貢献した音楽家に贈られる。日本人初の快挙。彼女は新たな栄誉を手にした。穐吉さんには多くの称号がある。バークレー音楽院名誉教授、ジャズ殿堂入りなど数々の栄光に彩られている。歩みは決して平坦ではなかった。が、・・・彼女の“長い道”に、今また一つ、金字塔が打ち立てられた。
若輩の私だが、敬意と親しみを込めて以下“トシコ”と呼ばせていただきたい。

トシコは1929年(昭和4年)、4人姉妹の末っ子として旧満州(現在の中国東北地方)に生まれた。小学生の時触れたピアノと70年にも亘り対峙している。終戦後、両親の故郷大分県に移り別府でプロのジャズピアニストとして第一歩を踏み出す。ジャズの基本のコードも知らずにダンスホールのハウスピアニストとなり、彼女曰く“チャンポン,チャンポン”と演奏していたという。本格的なジャズ・ミュージシャン、スイングを代表するピアニスト“Teddy Wilson”の“Sweet Lorraine”に出会ったのはそんな頃である。華麗なタッチとまるで手の平で宝石を転がすかのような一瞬一瞬の音の輝き、少女の心を虜にするには十分過ぎる音楽だ。78回転のレコードを擦り切れるまで聴き込み、採譜してはひたすらコピー。そしてその上に自己の工夫と想いを重ねていく。そんな毎日だった。

“物足りない。” 1948年、トシコは上京する。振り返れば“長い道”への助走なのか。そして彼女は“ビーバップと出会う。それまでのスイングとは異質な演奏、ミュージシャン個々人の自由なインプロビゼーションを最優先しグループ内の対等な関係を重要視する形態。敗戦国日本でも本場アメリカ・ニューヨークの新しい音楽が人々を魅了していた。

東京でのトシコはナイトクラブに出演するかたわらジャズ喫茶に通い、耳をそばだてては採譜する。そして再びクラブで演奏するという日々。これが彼女の全てであった。

そんな中“狂気の天才”一人のジャズピアニストと出会う。
私はやはり、ジャズピアノの巨匠、“Bud Powell”について語らずにはいられない。パウエルなければ今のジャズシーンはないであろう。そして今日のトシコはいなかったに違いない。それほどの影響をパウエルは与えた。パウエルはビーバップの先輩、ピアニストのセロニアス・モンクが示したモダンなアイディアを舞い上がるような響きに置き換え、恐るべきドライヴ感を保ちながら見事なまでに表現していた。

それまでには存在していなかったピアニストが、ビーバップのうねりの中で誕生していた。ジャズレーベル“Roost”や“Verve”に残る諸作。そして頂点の1951年、モダンジャズの歴史に燦然と名を残す“Blue Note”の作品、“Amazing Bud Powell” その中の一曲、“Un Poco Loco”(スペイン語:一人のちょっとしたおバカさん。)
 ドラマー、マックス・ローチが叩きつけるカウベル。55年の時空を超えて今も私の心に響く。カウベルの音と音との間をぬうように演奏するパウエルは、ピアノも打楽器ということをあらためて教えている。なにものも割り込む余地の無い緊張感あふれる演奏。
 その張り詰めた糸と絡まるように交差するリリシズム。聴く者の心を切なく縛り付ける。トシコはパウエルとの出会いに何を聴いたのか。
 私もパウエルに巡り会い、魅せられていった。

◇53年前のコンサートのプログラムを見つける。1953年11月、東京の山葉ホールで行われたトシコのトリオのコンサート、「ジャズの実験室」のプログラムである。数曲のスタンダードの中に奇妙なタイトルを見出す事が出来る。“Not Un Poco Loco” Notと名付けられた演奏はどのようなものであったのか。当時の前衛に反応し、ともあれなんとかして自己のオリジナリティーを発揮したい。トシコの決意を読み解く事が出来る。
 “物足りない。”すでにして、日本ではトップのピアニストと言われたトシコであり1953年来日したピアニスト、オスカー・ピーターソンの推薦からレコードデビューを果たすなど活躍は目覚しいものがあった。だが、本場アメリカで演奏したい、そんな思いは日に日に募っていった。女性が単身アメリカで挑戦するという事が当時どれだけの事だったのか、想像に難くない。1956年1月渡米の日、羽田に駆けつけた10数人のミュージシャンたち。一枚の写真には真ん中で微笑むトシコと、屈託なく笑う渡辺貞夫氏ほか当時共に日本のジャズシーンを創造していた顔々、顔・・・一人一人の“長い道”がある。

◇1957年渡米後わずか1年、トシコは一枚のアルバムを世に問うた。

タイトル名は「アメイジング・トシコ・アキヨシ」。象徴的な形容詞“Amazing”はパウエルだけへの賛美ではなかった。同年7月のニューポート・ジャズ・フェスティバルのライヴが残されている。不安げな彼女のMCながらも、直後の演奏は自信に満ちている。どこかしこに展開されるパウエルフレーズ、それよりもなによりも目標としていたパウエルの精神が宿っている。“I Remember April”、“Lover”など、パウエルと同質の叙情性を私の前に示している。自己の世界を模索しているトシコ、20歳代のひたむきな姿勢がある。

再び、パウエルを語りたい。トシコ渡米の年、1956年の彼はかつての神の降臨を思わせる、鬼気迫る演奏を明示してはいなかった。渡米早々アイドルに初めて対面した夢のような夜、パウエルは彼女に演奏を求めトシコは“Night In Tunisia”を演奏する。終演するやいなやトシコの耳に届いたのはパウエルの笑い声だったという。東洋のそれも子供のような女性が演奏するビーバップに、思わずもれた笑いに違いない。

バッド・パウエル。ビーバップの巨匠ながら恵まれた人生ではなかった。1946年、21歳の出来事である。モンクが警察官といさかいを起こした際、巻き添えとなったパウエルは警棒で頭を殴られた。以来、精神の徘徊をみる。しかし、翌年の1月、“Roost”に記録されている演奏は限りなく新鮮だ。
後年1959年、彼はパリに移り住む。ヨーロッパ、とりわけパリには黒人のジャズ・ミュージシャンを快く受け入れる土壌があった。しかし、かの地で更なる創造を成したジャズ・ミュージシャンを私は知らない。悲しいかなパウエルも然りである。思うにジャズという音楽はぎりぎりの状況の中、互いに刺激しあい瞬間、刹那的に生み出されるものなのかもしれない。

◇1963年、トシコはツアーでパリを訪れパウエルに再会した。トシコと共に写るパウエルは穏やかな眼差しを投げかけている。その時パウエルがトシコに言った一言“君は女性ナンバーワンのジャズピアニストだ。”この言葉が1972年自己のビッグ・バンドを創設するまでの苦闘の9年を支えてくれたとトシコは語っている。

パウエルは母国・ニューヨークに戻る。そしてトシコは再びパウエルの演奏に接する。無駄の無いビーバップのフレーズの中に消えゆく間際のパウエルの灯火を見る。
1966年7月、パウエルは41年の生涯を終えた。彼の“長い道”は終わりを告げた。精神に苦しんだパウエル、にもかかわらず、いや、だからこそ大きな遺産を残している。精神的苦難の道にあった彼は、私たちに人智の極みまで示し続けた創造を与えている。

トシコにとってパウエルがピアニストの師ならば、トータルな音楽家の師は“Duke Ellington”だ。“彼の前に彼はなし、彼の後にも彼はなし。”と言われるデユーク。今更多くを語る必要はないだろう。“I Love You Madly”が口癖のデユーク。
没後、トランペッター、マイルス・デイビスは“全ての音楽家は彼の前に跪く(ひざまず)べきだ。”と言い偲んでは鎮魂歌“He Loved Him Madly”を捧げている。
 ジャズ黎明期、もう一人の音楽家にして天然児“Louis Armstrong”が黒人の悲しみや嘆きを“ブルース”として発露し即興という形でジャズを産み出したのなら、デユークは雑多に響く音を調和しジャズを20世紀の音楽とした。ビーバップ一辺倒であったトシコは当初デユークの音楽には馴染めなかったという。がある日彼の音に接し、ジャズを自分の言葉で表現しなければならないと気づく。パウエルの術縛から解き放たれようとしていた。
 1974年5月、デユークはこの世を去る。その時、皆、デユーク自身黒人である事になんと誇りを持っていたことか、そして彼の音楽がいかに黒人の伝統に根ざしていたものなのか、ということに行き着く。トシコも自己に内在する“日本”をどのようにしてジャズに結び付けていくべきか、模索をしていた。それが自分の使命、辿らなければならない“道”だと。

◇私生活でも苦労を重ねたトシコ。音楽のためとはいえ娘と別れながらも創造活動を続けた。
時は移りトシコはパートナー、テナー・サックス奏者、ルー・タバキンに出会う。そしてウエスト・コースに活躍の場を求める。渡米以来、評価を得ながらも閉塞状況にあったと思われる彼女にとって、ウェスト・コーストへの移住は決意を持ったものかもしれない。創設したバンドが“トシコ・アキヨシ・ルー・タバキン・ビッグ・バンド”である。
1973年、発表したアルバム“孤軍”こそ日本人がジャズを創造するという行為の一つの到達点だ。構想の中、旧日本軍少尉小野田さんのニュースが彼女の心を揺さぶった。小野田さんに心を痛め、結晶となったアルバムが“孤軍”だ。トシコは自分を小野田さんに重ね“孤軍”と思ったという。孤独と闘ってきたトシコ、そして小野田さんへ思いをはせる時、人生を“道”になぞらえる。
トシコは“日本”へと傾斜していく。世阿弥の「花伝書」、宮本武蔵の「五輪書」などから影響を受ける。世阿弥は言う。“工夫を極めた人は技が落ちても芸術は残る。これは、どのような若い舞手でもかなわない。”と。


◇近年の対照的なアルバム。
6年前の2000年4月、“Solo Live at THE KENNDY CENTER”には再びピアノに向かい、懸命にして音を拾うトシコの姿がある。再び収められている“Un Poco Loco”はパウエルを超えようと挑戦しているトシコを、象徴的に現している。

バンドは2001年8月6日、“ヒロシマーそして終焉から”でその活動に終わりを告げた。

トシコから教わる事は大きい。“決して後ろを振り向かない。前を向き歩いてゆく。トシコのこれからも“長い道”だ。誕生の時から続いている“ロング・イェロー・ロード”だ。そして私の歩み、皆の歩みは“長い道”そのものである。穐吉敏子さん、76歳。歩む姿は/私に勇気を与えている。

NHK人間講座」“私のジャズ物語 穐吉敏子”を授けてくれた友。あなたに心から感謝する。

            

2006年10月31日