K・N氏からの便りジャズの話をしようE     
   ※ このシリーズ「ジャズの話をしよう」は私の親友N氏が寄せてくれたものです。  
   
Bird Lives    チャーリー・パーカー 

       2007年3月12日    

 1955年3月12日、モダン・ジャズの創始者“Charlie Parker”は亡くなった。
没後まもなくニューヨークのいたるところに書かれた文字、“Bird Lives” 
以来半世紀、その言葉は色褪せていない。

 一人の訃報がパーカーを現代に蘇らせた。
「12月7日、アメリカのジャズ・ピアニスト“
Jay McShann”(90歳)がカンザスシティーの病院で死去。・・・1937年、サックス奏者チャーリー・パーカーと出会い、41年までともに断続的に活動。80歳代まで現役を続けた。・・・」 とりもなおさずパーカーの才能を見出し歴史に名を残したカンザス・ジャズの大御所マクシャン。不世出のジャズ・ミュージシャン、チャーリー・パーカーを自己のバンドに迎え入れ、二人は新しい音をカンザスシティーで模索していた。

 パーカー生誕の地カンザスシティーは、アメリカ中西部に位置する商工業都市だ。ミズーリ州とカンザス州にまたがるこの街は1820年代開拓され、以来交通の要衝として発展してきた。20世紀初頭、黒人たちの新しい音楽ジャズは創造の地ニューオリンズから鉄路に沿って運ばれ、はるばるこの街にやってくる。

Paradise 1920年8月まさにそのような時、チャーリー・パーカーは生まれた。

 思えばカンザスシティーおいて、この胎動があったからこそニューヨークでの“BeBop”の誕生があった。マクシャンとともに過ごした1941年までのカンザスシティーそしてニューヨークでの演奏、その中にすでに通俗的となったスィング・ジャズとは異質の、舞い揚がる鳥のような精神の開放その萌芽を聴くことが出来る。そして今も空を飛ぶ一羽一羽の鳥たちにパーカーの心の高揚を見出すことが出来る。

 久しぶりに古い本を手に取った。アメリカのジャズ評論家で美術史家、そして画廊の経営者でもあったロバート・ジョージ・ライズナー著“チャーリー・パーカーの伝説”(片岡義男訳・昌文社)。この本はパーカーを愛してやまない人々による哀悼集である。印象深い話をゆかりの人々が語り、ライズナー自身巻頭で“我が回想のバード”を著している。彼はパーカーとのエピソード、音楽性などに触れた後「パーカーはビート・ジェネレーションにとって主要な神格的な存在になった。」と述べ、続いて唐突に次のように記述している。

 「チャーリー・パーカーが残した影響力は、ビートやヒップスタたちだけではなく、もっと広くにおよんでいた。朝鮮動乱で戦死した共産側の兵士が、備品の中に『極楽鳥』(バード・オヴ・パラダイス)というタイトルの、パーカーのレコードを持っていた、と伝える記事がアメリカ陸軍の新聞『スターズ・アンド・ストライプス』にのっていた。」ライズナーはこのような話から再びパーカーの音楽に触れ、巻頭の文章を閉じている。

朝鮮動乱の前1947年10月ジャズ専門のマイナー・レーベル“Dial”に録音された“Bird Of Paradise”は、他の諸作品とともに“BeBop”の聖典となっている。原曲は“Oscar Hammerstein/Jerome Kern” の名コンビによる“All The Things  You Are”(邦題;君こそわがすべて)。この曲のコード進行を基に作られたのが“Bird Of Paradise”である。パーソネルは綺羅星の如くだ。“Miles Davis tp: “Charlie Parker  alt sax:“ Duke Jordan” p Tommy Potter” bs:“Max Roach ds

 パーカーのオリジナル・バラードであるこの曲は、リラックスした響きを我々に与えている。何よりもハートフルな音色が心地よい。

 それにしてもライズナーが改めて紹介したこの逸話を、私たちは何と形容したらいいのであろう。共産兵士は、いつどこでパーカーと出会いどのような想いでレコードを携えて赴いたのか。はたして戦地でパーカーにふれることが叶ったのか。だとしたら彼はパーカーに何を見たのか。・・・

 Bird Of Paradise”にまつわるこの物語は、単なる逸話としては終えていない何か途方もなく大きな意味を教えているような気がする。

パーカーが少年時代を過ごしたカンザスシティーには、ジャズの音があちこちで響き渡っていた。毎晩、街のジャズ・クラブでは野心に満ちた多くのミュージシャンたちのジャム・セッションが繰り広げられ、スィング・ジャズとは異質なよりブルースに根ざした自由な演奏が溢れていた。振り返ればジャズ発祥の地、ニューオリンズからモダン・ジャズの聖地、ニューヨークをつなぐ架け橋のような街。

当時パーカーにとって最大のヒーローは“Lester Young”である。そのレスターに続いてマクシャンが活躍し、そしてパーカーの最初の師“Tommy Douglas”がいた。年齢を偽っては夜毎ジャズ・クラブに通い、彼らの指使い音の響きを模倣した。

トミーは“チャーリー・パーカーの伝説”の中、「カンザスシティーは、昔からいつも、ブルース・タウンだった。このあたりは、ずっと変わらずにブルースの地域だった。」と振り返っている。

ブルース・タウンでは充分な満足を得られなかったパーカーは、ニューヨークに飛び出す。当時のニューヨークではスィング・ジャズに飽きたらず、新しいものにチャレンジする無名のミュージシャンたちがうごめいていた。その一人パーカーにとってもジャズの本場ニューヨークは、カンザスシティーのようなわけには行かなかった。

演奏の機会すら与えられず、やむなく就いた職がレストランの皿洗いであった。報酬の代わりに与えられた食べ放題のチキン、そこから彼に名づけられた“Bird”とはまさに的を射た愛称だ。

皮肉な事にニューヨークはパーカーに“Bird”という、最大級の賛辞を与えたのである。

ニューヨークでパーカーは鳥となった。

以来彼はさえずり高く舞い揚がっては乱舞した。

気付いた時にはどっぷりと浸かっていた麻薬と、かりそめの別れを告げ、鳥となってカンザスシティーに戻って来たバード。マクシャンは“チャーリー・パーカーの伝説”の中、「私(マクシャン)のバンドで吹きたい、とバードが言ってきた。『麻薬はやめました。あなたがたといっしょに吹きたいからです。』と彼は言っていた。」という殊勝な話を披露している。また、「バードにはソウルがあった。なにか自分が肉体的にも精神的にも深傷を負っているような吹きかただった。バードには泣き叫ぶようなソウルがあったのだ。」とも語っている。

マクシャンのバンドで初録音を行ったバードは1940年20歳の時、マクシャンとともに再びニューヨークに出、活躍の場を求める。その時彼の音楽は、生まれ育ったブルース・シティーから抜け出しモダンな音楽へと変貌しようとしていた。1942年3月、25歳で夭折したジャズ・ギターリスト、チャーリー・クリスチャンに代わり、ジャズ・シーンでの牽引力を担ったのがバードである。太平洋戦争が始まった頃の社会状況の中、時代のムードと彼の音楽は見事に合致していた。時代と同行するかのように彼の音楽があった。それまでの白人中心のスウィング・ジャズに飽き足らないバードほか多くの黒人ミュージシャンは、自分たちに内在する不安な情念を“BeBop”という文法で表現した。躍動するメロディー、より複雑な和音、オフ・ビートを重視するアクセントの強いリズム。まるで熱にでもうなされているかのようなこの音楽は、わずか数年のうちにジャズ・シーンを席巻していく。バードの演奏は全てのモダン・ジャズ・ミュージシャンの規範となり、大きな影響を与えていた。“BeBop”発祥の地とされるハーレム118丁目西210番地のジャズ・クラブ“Minton’s Playhouse” 彼はここで生涯に亘っての相克となるジャズ・トランペッター、“Dizzy Gillespie”に出会った。革命的“BeBop”双生児、二人は時代の最先端に立つ。

 ジャズ・レーベル“Dial”や“Savoy”に記録されているバードとガレスピーの演奏は、一点の迷いもない。共に艶やかな音がどこまでも伸びゆき数分間の構成の中、創造性豊かな音楽が見事に完結し、“BeBop”を心おきなく謳歌している。

が、引き換えにバードは終生アルコールの乱用、そして麻薬とは離れられなかった。

これらが彼の体を徐々に蝕んでゆく。

有名な演奏が1946年7月、ロサンゼルスで録音された“Lover Man”セッションである。バードのソロになっても音が聴こえて来ない。やっと出てくるのはバードの呻き、喘ぎ搾り出すような精神の発露。息苦しささえ感じさせる音の展開の中、時に瞬時のきらめきも見せている。

以降、次第に狂気となった天才音楽家バードは、自分の姿を音に託しジャズを表現していく。

 バードは、悪魔のようなしたたかさと天使の純粋無垢を兼ね備えていた。そのような彼だからこそ言い知れる事のない悲しみ、孤独,不安、圧迫感や疎外感、そしてつかの間の喜び温もりなど、我々が生きている故に抱く様々な感情を提示している。彼は全身全霊をもって歌い上げ、そこから表出される音楽は人生のさまざまな哀愁に満ちている。だが、バード自身我々のこのような想いとはうらはらに、ひたすら快楽を享受しては歌うかのように自己を表現していた。その時彼の精神は開放され、一羽の鳥となっていったのである。

“チャーリー・パーカーの伝説”の中、著者のライズナー含め81人がバードを振り返っている。巻末にこんな話をジャズ・ピアニスト“George Wallington”が語っている。

「・・・死ぬ数週間まえのことだが、50セントのおかねしか持たずにバードはブロードウェイを歩いていた。歩いていくと、アコーディオンを弾いている盲人の物乞いにいきあった。その不幸な男のカップに25セント入れたバードは“All The Things You Are”を演奏してくれと、その盲人に頼んだ。しばらくして、パーカーがまたその盲人のまえをとうりかかると、盲人は、パーカーがリクエストした曲を、まだ弾いていた。心から笑ったチャーリーは、いっしょにいた人に『この人のコード進行はとても正しい』と言い、はき古したズボンのポケットにのこっていた25セントをひっぱり出し、その盲人にあげてしまったのだ。」

思わず“Bird Of Paradise”の原曲、“All The Things  You Are”をリクエストしたバード。その姿は死んでいったあの共産兵士が遭遇した極楽の鳥、そのものだったのであろうか。・・・

数多くの女性がその人生を彩った孤高の天才ミュージシャン“Bird”チャーリー・パーカー。最後はパトロン、“Pannonica de Koenigswater”男爵夫人のもと34歳で亡くなった。医師は彼の年齢を推定53歳としたと伝わっている。

しなやかさをもって時代の空気を支配。

だからこそ、なによりも代えがたい瞬間の高ぶりを与えた。

バードは再び出会ったジェイ・マクシャンとジャズ・クラブ“Kansas Heaven”でレスターやトミーなどを交えながら、派手にカンザス・ブルースをジャムっているに違いない。

2006年3月12日