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  桜の樹             



     




















 日本は春爛漫、つい先日まで疲れた幹や枝をむき出しにし広場に佇んでいた孤老の樹も、
黄色い喚声を見下しながら、まるで良寛のように微笑んでいる。
 
子供らが 今を春べと 手毬つく  汝がつけば 吾はうたひ
吾がつけば 汝はうたひ       つきて唄ひて 霞立つ
永き春日を 暮らしつるかも
霞たつながき春日をこどもらと手まりつきつつこの日暮らしつ
こどもらと手まりつきつつこの里に遊ぶ春日はくれずともよし
                                             良寛

 賑やかな広場は笑顔で溢れている。樹も笑うことがあるのかもしれない

「あら、こっちの樹のほうが見ごろよ。」 なんともおませな声で小さな女の子たちが品定めしながら通り過ぎていく・・・・・日本は春爛漫

                     2003年4月11日                  

つきてみよひふみよいむなやここのとを
とをとおさめてまたはじまるを
11月25日
















▼そろそろ人影もまばらになってきた晩秋の公園、桜の樹を観に行く。春、大勢の花見客を集めた樹林はひっそりと沈んでいるが、桜の樹の葉の紅葉は、公園の秋の彩りの基調にもなっている。その葉が一枚づつ大地に舞い降りる最期の瞬間、花が春風に踊る風情とは異なる趣がある。この桜の「枯れ葉見」に密かな充実感を感じる。
▼企業に就職して四半世紀が過ぎた。25年前の春、最初の研修の日、用意された宿に入った。いずれも学業優秀に見える同期の中で、「本当に自分はやっていけるだろうか?」という漠たる不安の中にあった。用意された部屋に蹲っていると、古いリュックサックを担いだ男が入ってきた。相部屋となったのは河内弁の爽やかな人懐っこい男だった。
  「暇やな。パチンコ 行こかあー」緊張感が一気に吹き飛んだ。その出会い以降、Aとは同じ道を歩んできた。Aはただただ純粋に自分の仕事に没頭した。組織の思惑や都合などには無関心だった。自分と仕事という単線の関係の中で情熱を傾けた。その姿を一つの範としてきた。同期は同じ川を下る小石だ。何度も岩にぶつかりながらも渓流を共に転がり落ちてきた。
▼ 今年、Aと再び同じ部署で仕事をすることになった。おそろしくエネルギッシュな部長の下で、二人は「やじきた」よろしく呑気にやっている。
「もう少し、思い切ってやったらどうですか。」煮え切らない仕事ぶりの二人を見て後輩が批判する。しかし動じない。これが我々の風情だと思う。仕事に情熱を失ってしまったわけではない。呑気にみえても、二人は自分流の仕事を続けている。まわりはどんどんスピードをあげて過ぎてゆくけど、「大丈夫、いつかまた、巡って戻ってくるから。」と思っている。
▼ 私が毎週どこかの公園をぶらついている頃、Aは同じテニスコートに通い先輩や同僚たちと汗を流す。そのテニス・コートの横には大きな桜の樹がある。Aは休日の朝、その桜の樹の下に一番乗りして、ネットを張り、皆が来たらすぐにプレーが出来るように準備をしておく。晩秋、桜の樹から無数の枯れ葉がテニスコートに舞い落ちる。早朝から一人でコート内の落ち葉を箒で掃きだすAの姿を思う。
▼ 最近, Aは西行や良寛の言葉をよく口ずさむ。
    「つきてみよひふみよいむなやここのとをとをとおさめてまたはじまるを」
                                                                             (良寛)

 良寛のもとへ、美しい才女の貞心尼から「あなたを師として仏道を修めたい、和歌の心を学びたい・・」という手紙があった。良寛は快く彼女の入門を許す旨の返信と、彼女への返歌をしたためた。「つきてみよ」は、手毬をついてみよ、仏道を就いてみよとかかる。「ひふみ」以下は一二三四五六七八九十で、「とをとおさめてまたはじまるを」十までついたら、はじめの一に戻るので、これがゴール、これで完成ということは仏道にも歌道にもない。いつまでもくり返しついて飽きないのが仏道。それがわかったら、私と共に修行し学びましょう・・と良寛は貞心尼に語りかけた。

▼ 飾りをすべて捨て去り、木肌をむき出し佇む静かな桜の樹の間、歩きながら思うこと。僕らはまだ枯れてはいない。次に花開くのを静かに準備している。

                          2003年11月25日
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