ソメイヨシノ(染井吉野) バラ科サクラ類
▼桜といえばソメイヨシノ、今年も見事に開花した。日本各地のみならず、ワシントンポトマック河畔にまで咲き誇る。桜前線は、このソメイヨシノの開花を追った指標である。しかし、ソメイヨシノは日本の桜の中では新参者で、桜愛好家達の中には、「日本の桜は古来からある里桜や山桜・・・・ソメイヨシノは亜流だ。」などという人もいる。
▼ソメイヨシノは、江戸時代の最末
期(明治時代の初期という説もある)現在の東京都豊島区駒込と巣鴨の境界線にある染井墓地(今も染井霊園として存在する)近くの植木師・河島権兵衛が「吉野山から採ってきた吉野桜」と言って売り出した。花が美しいうえに生育が大変早いので、たちまち世間に広まった。(豊島区駒込6丁目の西福寺には「染井吉野の里」という碑が建っている)
▼しばらくして、この桜は吉野桜などのヒガンザクラ系のものとは違う新種だ、と気づく人々がでてきて、20世紀最初の年19001年に、東京帝国大学の松村任三教授によって「ソメイヨシノ」と命名された。
▼新種「ソメイヨシノ」の素性は謎であった。俄かに興味を持った植物学者たちはサクラの履歴を調べようとしたが、売り出しもとの植木師は亡くなってていた。当時のうわさでは伊豆の大島が原産地で、染井の植木師が持ちえり、吉野桜として売りさばいた、ということになっていたが、植物学者たちが大島で調査してみても野生のものはついに見つからなかった。
▼1916年、アメリカ人植物学者、E・H・Wilsonが「ソメイヨシノはその形態的特徴からエドヒガンとオオシマザクラとの雑種であるように思われる」という意見を発表した。
▼形態学から示されてこの推測をもとに、自ら交配実験を繰り返し、エドヒガンとオオシマザクラからソメイヨシノをつくりだすことに成功したのが30歳になったばかりの植物学者・竹中要(国立遺伝研究所)であった。1962年のことである。エドヒガンとオオシマザクラは予想外に簡単に交配する。この実験結果に基づき、エドヒガン分布とオオシマザクラの分布が重なる地域で、ソメイヨシノが野生してもおかしくないとして、その場所を探した。そして、伊豆半島南部がソメイヨシノのルーツではないか、という結論を導き出した。
▼ここから拙い妄想である。竹中要氏によると、ソメイヨシノは結実性が非常に低い。天然の植物でこのように結実性の低いものは、地下茎などで繁殖するものでない限りは、自然に淘汰されて絶滅してしまう。エドヒガンとオオシマザクラが同居する森の中、ある時、忽然とソメイヨシノの木が一本、天に伸びることもあったに違いない。しかし、実をつついた鳥が種子を運んでくれることも少ないこの木は決して森に広がることはなかった。
▼江戸時代の終わりのある日、この森に分け入ったのが、江戸の染井の植木師だった。そのハラハラ散る花々に魅せられた植木師は、枝を持ち帰り、接木し、売り出した。ソメイヨシノを一気に日本各地に広めたのは、人々の手による植樹作業である。人々を植樹にかりたてたのは、古来から熟成されてきた桜の美に対する想像力である。こうした人々の手がなければ、野生の繁殖力のないソメイヨシノは何十年か、いや百年に一度、忽然と、森に姿を見せては消え去ることしかできなかったのではないか。そう考えると、ソメイヨシノは人々の美への執着から育まれた。いや、これは、桜に寄せる情を巧みに利用したソメイヨシノの戦略ではないか・・・。
※参考:日本人とサクラ(講談社) 桜(中央公論社)
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