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 ユリノキ      モクレン科の落葉高木  

 
 5月〜6月に高い梢の葉陰にチューリップ、あるいはユリのような黄緑色の花が咲くところからユリノキという名がついた。葉が着物の半天のようにみえるところからハンテンボクとも呼ばれる。






光が丘公園の1本のユリノキには「黄色い葉の精霊」が宿っている。秋の公園でその鮮やかな黄色に出会ってから、何度この樹の下を訪問したことか。その都度、「黄色い葉の精霊」は柔らかく迎えてくれる。葉のない裸樹の下で、今日も自分なりに世界のことを考える。

▼ 9・11以来、世界はすっかり変わった。また、振り出しにもどったといった方がいいのかもしれない。同時多発テロ発生以来、大統領から飛び出す、「十字軍」「見えざる敵」「新たな戦争」「正義の戦い」・・・その奇異で神がかった言葉に呆然とした。はじめは、テロという見えない犯罪組織との戦いであるはずであった。しかし、すぐにそれは「戦争」にかわり、「見えない戦争」はすぐに「「タリバン」という敵をみつけ「見える戦争」に代わり、いつのまにか次の標的がイラクになった。
「なぜイラク攻撃するのか」、こちらがその理由もわからぬうちに戦争への準備だけが整った。そしてイラク攻撃の根拠として、「大量破壊兵器」という言葉が用意され、盲従する同盟国はこの言葉をよりどころに米国の行為を正当化していった。

▼なぜ、アメリカはイラク攻撃にこだわるのか?その答えを自分なりに探す中で、ブッシュの政策ブレーン「PNAC」の存在を知った。20世紀を一人勝ちで終えたアメリカが、21世紀もさらに躍進するためには新たな戦略をつくりださなければならない、それが「自由の帝国」だった。民主主義を伝播し人々を解放する帝国としてアメリカは君臨する。その第一の目標に「サダム・フセイン打倒」が掲げられた。
▼あの湾岸戦争で父親ブッシュは戦争には勝ったが選挙に敗れ退散した。フセインはクエート侵略の野望は果たせず敗れたが、イスラエルにスカッドミサイルを撃ち込んだ男として熱狂的に受け入れられ、経済封鎖の中でもしたたかにフランス・ロシア・中国を操り、君臨しつづけた。
▼その様子を苦々しく見ていたのが、父親ブッシュと湾岸戦争を戦ったスタッフ達である。彼らには「フセイン打倒」はやり残した大仕事であった。PNACは、父親ブッシュの側近たち、3000万人ものキリスト教原理主義者、そして巨大な資金源をもつユダヤ・ロビーと結びつき、さらにはイスラエルの右派とも繋がった。こうした目論見の果てに、民主化をキーワードにした中東の支配がある。
アメリカの不幸の始まりは、このPNACの誕生と9・11という惨劇が重なったことにある。

▼テロという「見えない敵」によりニューヨークを攻撃された米国民は、歴史上はじめて本土を攻撃された。米国ははじめて「二人称の痛み」に胸をえぐられた。そのトラウマの中で米国は今も、もがき苦しんでいる。その精神状況の中では「見えない敵」をそのままにしてはおけなかった。敵の存在を露にして、明確な目標を導き出さなければ、精神は破壊される。その処方箋に、
PNACの掲げる「自由の帝国」は最適だった。なにより、薬がほしかったのは大統領だったのかもしれない。皆が「見えない戦争」の「敵」を露にして安心したかった。アメリカのPTSDは、「敵」を探し出すことで、とりあえずの安定を得たのだ。

▼被害妄想、不安神経症、自家中毒・・・・「見えない戦争」の正体は、アメリカ自らの精神のあえぎから噴出した、破滅の自慰行為である。アメリカは今、自分の姿を見失っている。

▼ 12日の東京新聞、鶴見俊輔の言葉 「テロをとめる道は、ひとつ。わかった。自分たちは、原爆その他の武器を捨てよう。あなたがたも捨てなさい。そうして世界平和の道をひらこう。世界の貧困と取り組む道をさがそう。 だが今の世界最強国の指導者には、自分の姿が見えていない。」
                     2003年3月16日     

         奇縁                


▼ユリノキとは不思議なつながりがある、と痛感している。
どうしても気分転換したくなることが近頃さらに増えてきた。そんな時、植物写真を撮ることが最高の特効薬になっている。酒で気分を紛らわしたこともカラオケに酔ったこともあったが、それも面倒くさくなってきた。一人でカメラを持ってぶらぶらするのが一番いい。なんともショボイ中年になってしまったものだが、本人はそれでも結構満足している。
▼カメラを持ち出し、植物だけを意識してシャッターを押したのは4年前の秋だった。団地の前の光が丘公園での気軽な撮影ツアーも結構楽しいという感覚を持ったその日のネガにユリノキが映っていた。黄色く大きな葉も鮮やかであったが、近づいて何より気に入ったのが、そのすくっとしたいでたちだった。当時、仕事がはかどらず、気落ちした感情を転換しようと重い腰を上げ公園に向かったのだが、このユリノキとの出会いは何か得をしたような気持ちになった。
▼そのユリノキがますます好きになったのは、冬の裸木の姿を観た時だった。突き刺すように紺色の空にまっすぐに伸びた幹、地面に這いつくばって見上げたショットを探っていると、日常の些事があほらしくなる。気が晴れていった。
▼その後、いろんなところでユリノキを見た。なにか物思いにふけって歩いていると、不思議にユリノキが現れた。あほらしい思いだと一笑されるかもしれないが、自分にとってのユリノキは、「2001年宇宙の旅」のモノリスのような存在だと思えてきた。
▼最近、再び憂鬱に襲われている。医者は、仕事の疲労による不安神経症だというが、自分ではイラク攻撃や北朝鮮の核開発といったチキン・レースを追尾しているうちにどうしようもない時代の憂鬱に襲われたのだと思っている。
▼新宿御苑を歩いた。30年も東京で暮しながら、入場券を払って入ったのは初めてである。
ハクモクレンやシデコブシの新芽など目の前に現れるものをカメラにおさめて歩き、日本庭園から
広場に入った時、それは見事な巨木に出会った。



新宿御苑は、江戸時代に高遠藩の下屋敷だったところを明治政府が近代農業試験場として使用していた。そのためモクレン、梅、桜・・古く立派な樹が多いとは聞いていたが、広大な芝生の広場の中心に聳える巨木はそれは見事だった。しかも、その樹はユリノキだった。高さ40メートルはあるだろう。太い幹のユリノキが3本、寄り添うように聳え立つ。さっそくシャッターを押しながら、久々に高揚する自分を感じることができた。
▼次の日、図書館の棚にある一冊の本を手にとった。毛藤勤治氏ノ「ユリノキという木」(アポック社)という本だ。さりげなく開くと、まさに昨日見た新宿御苑のユリノキの写真が零れ落ちてきた。
さらにキャプションを見て驚いた。そのユリノキこそ日本に渡来した初代だというのだ。その1本のユリノキから日本各地の並木道は始まった。ユリノキ二世達の四谷迎賓館前の並木道、丸の内の並木道・・・いすれも撮影したことがある木々だがそれらはみなこの初代の樹に連なっていたのだ。説明によると新宿御苑のユリノキは明治7年に植栽、樹齢は120年だという。
▼おおげさに言って、また失笑を買いそうだが、2003年のこの日、日本のユリノキの原点ともいえる巨樹と出会えたことにどんな意味があるのか、考えていきたい、と思う。自分にとって、ユリノキはやっぱり「2001年宇宙の旅」の「モノリス」なのだ・・・その奇縁を自分勝手に意味付けてみると、このごろの憂鬱も吹き飛んでいくような気がする。
                          2003年1月18日

 晩秋 ユリノキの下で       

 
▼聳えるタワービルより高く、天に伸びる我がのユリノキを観に行った。新宿御苑のユリノキのことは今年の1月に知った。(1月18日「奇縁」を参照・・・)ひさしぶりのユリノキ、その真下に潜り込み天空を見つめれば、きょうも不思議に気が晴れる。
▼高さ50メートル近くあるこの巨樹は明治7年に渡来し、日本で最初に植樹されたユリノキ第一号である。樹齢は120年になるこのユリノキの下に初めて立った一月は、かなり精神的に参っていた。職場で尊敬していた上司にイラク戦争を反対する気持ちを表明した。その週末、世界中で大きな反戦運動が起こる機運が高まっていた。さりげなくこの戦争の大儀について疑問を呈したつもりであったが、返ってきた罵声にはひっくりかえりそうになった。「お前は反米左翼か!」 その直後から動悸がするようになった。ある朝起きると、呼吸ができなくなるほどの苦しさとやり場のない苛立たしさに襲われた。不安神経症だといわれた。
▼あれから10ヶ月が過ぎたがイラク戦争の大儀はますます分からなくなっている。「フセインはあれだけの化学兵器を使ってクルド人を虐殺したんだ。10年前、クエートに侵攻したのもフセインだ。フセインはテロリストだ。もっと勉強しろ!」と怒った先輩もその時は当然イラクから大量破壊兵器が発見されると予測していたのだろう。しかし、今なお大量破壊兵器はでていない。5月ブッシュ大統領は戦闘終結を宣言したが、それ以後、各所で起こる自爆テロ、米兵の死傷者は5月以降も増える一方だ。日本政府はブッシュの戦闘終結宣言を受け、戦後復興を前提に自衛隊派遣の検討に入った。「思ったより早く終わったなあ。さあ次は北朝鮮だ。」などと冗談っぽく笑い酒席を沸かす同僚もいた。しかし、本当に戦闘は終わったのだろうか?その疑問をかき消すようにマスコミの紙面には「復興」の文字が躍った。
▼8月19日、バグダッドの国連が爆破された。「この時、国連は初めてまだ戦争は終わっていない。我々は戦争の真っ只中にいる。と悟った。」という話を、国連関係者から聞いた。イラク戦争は泥沼の10年戦争になる。
▼なぜ、イラク戦争が起こったのだろうか。アメリカは「大量破壊兵器」という大儀など最初から重要視してなかったのではないか。本当に「イラクの民主化」を真面目に考えていたのか。今のイラクの混乱を見ると次々と疑問が生じる。さらに最近になって、イラクを同盟国にすることでイスラエルを承認させバグダッド、アンマン、テルアビルの枢軸をつくりアラブを分断しようとする野望をネオコンの幹部が堂々と公言している。アフガンの戦後復興は国連主導のもと,曲がりなりにも動き始めているのにイラクではなぜこうも全てが空回りしているのか。国連関係者は次のように答えた。「アフガンはアメリカにとってさほど重要ではないのです。それに比べてイラクは不幸にしてアメリカの戦略的利害に直結しているのです。」 
▼アメリカはイラク占領統治の道筋に関して国連に主導権をゆだねようとはしない。これに対して国連は、アメリカの子と言われた親米派のアナン事務総長が、10月2日の昼食会で「国連は(米英による)占領状態がつづく限り、イラクでは政治的役割は果たせない。」と発言し、明確にアメリカと対峙した。
▼国連はアフガン戦争、イラク戦争を経て全く新しいステージに入ろうとしている。もう中立の立場に甘んじてはいない。公正という理念のもとに人道介入も辞さない決意を表明している。その国連に、これもなぜだか日本はあまりにも発言をひかえ語りかけない。思えば昨年の秋、国連では安保理の非常任理事国の選挙があった。日本が立候補すればなんなく通る素地はあった。なのになぜか日本は立候補しなかった。かわりにアジアではフイリピンが選ばれたが、もし日本が非常任理事国になっていれば今年の1月から3月の間に非公式会議の場で17回、イラク危機に関して日本の立場を表明する機会があった。そのチャンスを捨てた。イラク戦争突入直前、日本国民には政府の考え方、さらに国連の動向という最も基本にすべき情報が欠如した。日本はいまだ国連を「平和の象徴」としてシンボル化して何ら具体的な働きかけをする場として位置づけようとしない。なぜなのだろうか。
▼私を威嚇した先輩はいまなお「日米同盟」の重要性をしきりに唱える。自衛隊派遣や巨額の復興支援も対米協調の延長で語られる。この「日米同盟」の前でいまだ多くの指導者が思考停止に陥っているように私には見える。何がイラク国民にとって最善なのか?アメリカの呪縛をとき解いてさらに俯瞰した眼差しで真摯に考え、先輩へ返し歌を送り続けたい。

                          2003年11月23日
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