花に遊ぶ 4月22日
てふてふうらからおもてへひらひら
山頭火
▼その池の岸にいつものように花園が店を開き、その花園をめがけていつものように同じ文様の蝶が群れてやってくる。その花と蝶は、それぞれ別の世界にいるのではなく、それぞれが関係しながらひとつの世界を築きあげている。偶然の出会いはやがて必然の仕組みを生み出していく。あたかも、それが最初から予定されていたかのように・・・・
▼去年の一月、オトメツバキの井手達に触発されて忘れられない女(2003年1月8日) という一文を書いた。あの大韓航空機爆破事件を実行した金賢姫(キム・ヒョンヒ)が特赦を受けた後、二冊の自叙伝を書き、その後、どうしてももう1冊書きたいと申し出たのが「忘れられない女(ひと)〜李恩恵先生との二十ヶ月〜」<文春文庫>である。北朝鮮の山奥の招待所で偶然出会った、金賢姫と李恩恵の暮らしが追憶の調べとともに書き連ねてある。特に、二人が春の花園を花を摘みながら駆けるシーンは、まるで美しい笑い声が響き渡るようで清々しい。
▼いま再び、この「忘れられた女(ひと)」を気にするのは、金賢姫がこの手記をどうしても書き残したいと思い立った動機を思い出したからだ。金賢姫は前書きにこう書いている。
「つい最近のこと、軍事境界線を偵察中だった米軍のヘリコプターが北朝鮮領域に不時着した事件がありました。このニュースを観ながら、事件を処理するアメリカの態度には、新鮮な衝撃を受けました。
たった一人の将校を召還するためにアメリカの自尊心をかけ、国民すべてが力をそそぐのを見て、私はこのことを李恩恵問題と結びつけて考えられずにはいられませんでした。
本名・田口八重子としてその存在を明らかにされた彼女は、日本側のあらゆる努力にもかかわらず、いまでも家族の元には戻っていません。私に対する日本人化教育が終わったのち、私を日本に派遣する問題が本格的に論議されはじめた1985年の夏、彼女は突然姿をくらましてしまったのです。
辛光洙という北朝鮮の工作員が韓国に侵入し、当局に捕まった、ということを
指導員の方から聞きました。辛光洙は、日本で中華料理店のコックとして働いていた原勅晃という日本人をあらかじめ北朝鮮に拉致しておいて、この人物に変身して日本で活動していたのです。辛光洙が韓国に侵入したところを逮捕されて、その一件が韓国で発覚したということでした。この原勅晃もまた、過ぎゆく時間の中で日本国民の脳裏から消え去ってから、かなりの歳月が流れています。
もし、田口八重子や原勅晃が一般大衆から愛される人気者や著名人だったら、日本人のみなさまはどうなさったでしょうか。
一日一日を一生懸命生きていく平凡な人間を、一人一人大事に扱ってくれる社会こそ、真の自由な民主主義社会だと私は考えます。 」
▼ 「一人一人大事に扱ってくれる社会こそ、真の自由な民主主義社会だと私は考えます。」
金賢姫のこの言葉が今、重く蘇ってくる。イラク人質から解放された日本人に対するバッシングがこれほどまでおこるとは想像できなかった。なぜ、こんなことになったのか。その根底には犯人が人質解放の条件として「自衛隊の撤退」をあげたことだろう。この要求を聞いて、人質の家族が「子供たちを取り戻すために自衛隊の撤退を!」と訴えた初動には納得できる。それは肉親が生命の危険にさらされた混乱の中での切実な訴えだったにちがいない。しかし、次の瞬間、個人が発した「自衛隊の撤退」という言葉に、組織という概念、国益という概念、国家という概念が群がる。はじめ、群がったのは、自衛隊派遣に反対する組織だった。彼らは家族を彼らの論理に取り組み、この家族への同情をそのまま「自衛隊の撤退」という論に昇華させようと目論んだ。そしてそれとほぼ同時に、「この人質事件は自作自演だ。」といううわさが永田町に流れた。公安も動いている、あとでまったくのでっち上げだとわかる自作自演計画を吐露するメールまでが出回る。つまり、「自衛隊派遣」を巡る二分する国論が隠微な形で両極端な空気を作りあげたのだ。この二元論の狭間でないがしろにされたのが、人質になった個人であり、その家族だった。
▼この国は本当に個人を守ってくれるのだろうか。国は個人を守るために機能するシステムだという民主主義の根本が崩れ去ろうとしている。国益のために個人が犠牲になることもありうる、という論が力強く表明される。かつての帝国の論理が再び注入されようとしているかのようだ、と思う。個人と国家、まったく位相の違う言葉がまるで対峙するもののように二元論のブラックホールに吸い込まれていくようだ。
▼いつものように花が咲き、その花の場所にいつものように同じ文様の蝶が現れる。ふと隣の花園には全く違う文様の蝶が群がっている。この多様性に充ちた世界。それぞれがそれぞれのリズムで即興音楽を奏で、それが大きな音源を創り上げる。この指揮者のいないジャスセッションこそ、生命の究極の秩序だと思う。国家という概念に個人という実態を縛りつけようとし、論と論をぶつけようとする二元論はあまりにも稚拙に見える。
「一人一人大事に扱ってくれる社会こそ、真の自由な民主主義社会だと私は考えます。」
(金賢姫)
国家は個人へのバッシングをやってはいけない。そして個人の存在を忘れてはいけない。
花に遊ぶ蝶たちがそう謳っている。
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