笑顔と苦虫 9月19日
▼先日紹介した(「みかんの花が咲いていた」2004年5月6日) 私の姪が嫁ぐ朝、実家の近くの小川の岸に咲いた彼岸花の赤は、これまでに撮影したどんな赤よりも清楚だと思う。自分は幸運な男だと思うのはこんな時だ。シャッターを向けた瞬間に雲間から淡い光が差し込んで小さなな水面が静かに反射しその赤に降りそそいだ。
これを引き延ばして姪に贈ろう。君が嫁ぐその朝、故郷の街に流れていた時間と光と空気と水面の接点を永遠に記憶する紅い色素。
▼姪の結婚式には父親である私の弟が高知から帰ってきた。姪は、弟とその前妻の娘だ。
幼い頃の姪は、弟の幼い頃に瓜二つだった。貧しさから這い上がるために懸命に働く父と母、引っ込み思案で暗い少年の私にとって、弟の愛らしく屈託のない笑顔と陽気な仕草は毎日欠かせない薬だった。いつも和やかな笑いにまわりを包む弟の天性の華やかさをうらやましくもあったが誇りに思う気持ちの方が強かった。姪はそんな弟の遺伝子を見事に引き継いでいる。
▼弟は再婚してやがて故郷の街を離れた。姪は故郷に残り、これまでと変わりなく祖父や祖母のもとを頻繁に訪ねその愛らしい笑顔で二人を満たしてくれた。
▼5月に会った時、姪は式は挙げない、と言った。おそらく、式を挙げればその場に、別れた父と母が居あわせることになり、気まずい雰囲気になるだろう、それが娘として耐えられなかったのだろう。でもやっぱり式は挙げた方がいい、招待されなくてもおじさんは出席するよ、と説得した。
▼3ヶ月後、招待状はこなかったけれど、私は式に押しかけた。新郎新婦が式場に選んだのは街に古くからあるカトリックの教会だった。初々しい二人を前に、たどたどしい日本語で牧師の説教がはじまる。「人間は猿や他の動物とは違い理性を持っています・・・。」私はこの根本の考え方にどうしようもない違和感を感じる。われわれは疑いもなく、40億年前のバクテリアの末裔であり、人間の脳細胞が紡ぎだす“崇高な”意識も理性も、実はジャングルを行く1億匹の軍隊アリが生み出す集団の意識となんら変わるものではない、と思っている。
▼そんなひねた耳で聞いていると、話は人間の崇高な理性が作りあげた“家族”という集まりのかけがえのなさに展開していった。その“家族”のくだりが始まったとき、若いカップルは静かに顔を見合わせた。サッカーの中田に似た好青年の新郎の両親も再婚である。二人はそのつきあいの日々、“家族”について語り合ってきたにちがいない。式はあげない、と言っていた姪がこの教会を訪ね牧師の話に耳を傾け、ここで式をあげようと決意した経緯がわかるような気がした。叔父さんの早とちりにすぎないかもしれないが・・・。
とにもかくにも20歳の若い姪は、あらたな”家族”を手に入れた。
▼「不思議なものだな。時間がたてば憎しみもきえるものだね。」弟が言った。久しぶりに並んだ弟と前妻、娘の気苦労を超えて二人は淡々と娘の晴れ舞台にいた。ちょっと違う他人という感覚で接することができたことに弟もほっとしているようだった。
▼こぼれるような笑顔の姪が愛くるしかった。その父、弟を呼んで2ショットで写真をとった。
かつて貧しかった我が家を明るいオーラで包んでくれた弟の笑顔。それをそっくり引きついだ姪の笑顔が白いウエディングドレスに映えて弾けている。その横、娘に腕を組まれたかつての「笑顔の貴公子」はまるで苦虫をつぶしたように顔をこわばらせ硬直した表情でカメラにおさまった。 |