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                汚れた米  

       2008年 9月14日

▼ 各地の田圃で稲穂が垂れる季節がやってきた。

古来、日本人は米には深い思いを寄せてきた。
 山から何年にもわたって清水を引き、細かく水路を張り巡らし土をつくる。 春、水路の堰を開き田んぼに山水を送り込み田植えをする。田植えが終わるとそれぞれの家でご先祖様を田の神様として、豊穣を祈りお供えをする。6月には集落総出で水路の掃除をする。7月、山に参拝し夏、コメの花が咲く頃、今年も無事、水が来ますようにとお祈りをする。そして、コメの花が咲く時、田んぼに水が回るように堰を開ける。コメの花が咲くのはわずか10分程だが、この開花のためにエネルギーを使い稲の温度があがる。それを水で冷やしてやる。米の花が咲く時、田んぼに水がないと米の味が落ち、収穫量にも影響を与える。次々と一瞬の米の花が開く一週間余り、いかに田んぼに水を送るかが勝負になる。そして秋の収穫、人々は収穫を祝い獲れた米を田の神様にお供えして次の年の豊穣を祈願する。米は単なる商品ではなく、日本の風土、文化そのものであありつづけた。


▼その米をとりまく様相が全く変わってしまったと、強く実感させられたのは、5年前、イラク戦争の渦中、日本各地を騒がせた米泥棒事件だ。(「2003年10月10日  イラク戦争と米泥棒」を参照) サクランボ・ドロボーにはじまった農作物泥棒は、備蓄米ドロボー、ついには田圃で実稲を勝手に刈る、という暴挙までをもまねいた。盗んだ農作物は、複雑な流通経路に紛れ込ませればその出所はあっという間にわからなくなる、という関係者の声が印象的だった。
▼あれから5年、新聞の一面は、農薬などに汚染された事故米を不当に食用に転用するというとんでもない事件に騒然としている。複雑にからまったからまった流通回路に紛れ込んだ汚染米は、保育園の給食や病院食、祭りにふるまう餅に姿を変え、よりによって社会が最も守らなければならない人々の体内に侵入した。あってはならない暴挙だ。

▼もうこれ以上、ほってはおけないのではないか。グローバリズムの膨張の中で、受け身の立場に甘んじている食の環境を大きく変えるために、全国各地の休耕田を蘇生し、高コストは覚悟の上で安全な米作りを再開する。収穫された米は、安全な食を渇望する中国をはじめアジアの消費者に輸出する。無用に複雑になった流通回路をリセットして、生産者と消費者が直接つながるシンプルな仕組みを取り戻す。そのことで日本列島各地に稲穂垂れる田園風景を再建し、温暖化を防ぐ手だての一つとする・・・・・・そんな方針を農林水産省に出してもらいたいが、今回の事件で、各地の農政事務所がなんの手だてもできない機能不全に陥っていることも露わにしてしまった。

▼グローバリズムの中での、食糧戦略の転換を、「米作り」をモデルとしておこなってはどうか。、そんな提案を農林省の関係者に投げかけると、
「ものごとは君が考えるように簡単ではないんだよ。」軽くあしらわれるだろう。
 いま、この国に欠けているのは、青臭いアイデアをまともに受け入れ、実践してみようとする覚悟だ。

                          2008年9月14日
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