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    先人達が目撃した電車の中の風景              2009年5月3日

                               紫蘭(しらん)
Bletilla striata Reichb.fil.

ラン科シラン属

 本州中部地方以西の山地で日当たりのいい湿地などに自生し、朝鮮半島、台湾、中国の雲南、四川にも分布する。地中浅くに、平たい球形の茎(偽球茎)を連ねている。これを晩夏から晩秋にかけて堀り上げ、蒸してから外皮をはいで陽乾させたものが生薬の白及(はくきゅう)。肺結核の喀血や胃潰瘍の吐血などの止血に効果がある。またこの偽球茎は粘性があるので、名古屋地方では七宝細工の接着剤にも使われる。花言葉は、「互いに忘れないように」・「美しい姿」 、そして「無名戦士」
     

▼「無名戦士」という花言葉を持つ紫欄。地下鉄駅前の横断歩道沿いに咲く紫欄の花が満開だ。今年は早い染井吉野の開花に引きづられて、その後に続く花の開花も急ぎ足のように感じる。

5月3日。憲法記念日。きょうは、以前この「便り」で紹介した、二人の先人が「電車の中で見た風景」を転記したい。

 <電車の中の風景 その一 〜1945年8月15日 幣原喜重郎〜>
終戦の年、幣原は73歳で政界に戻り、戦後初の総理大臣として憲法草案の作成にあたった。
 8月15日、幣原は都内にあった日本クラブで玉音放送を聞いた。その後、家に帰ろうと電車に乗った時のことである。
「・・・・その電車の中で、私は再び非常な感激の場面に出会ったのであった。それは乗客の中に、30代ぐらいの元気のいい男がいて、大きな声で、向側の乗客を呼びこう叫んだのである。
 『一体君は、こうまで、日本が追いつめられたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっとも判らない。戦争は勝った勝ったで、敵をひどく叩きつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らん間に戦争に引き入れられて、知らん間に降参する。自分は目隠しをされて屠殺場に追い込まれる牛のような目に遭わせられたのである。怪しからんのはわれわれを騙し討ちにした当局の連中だ』 と、盛んに怒鳴っていたが、しまいにはオイオイ泣き出した。車内の群集もこれに呼応して、そうだそうだといってワイワイ騒ぐ。
 私はこの光景を見て、深く心を打たれた。彼らのいうことはもっとも至極だと思った。彼らの憤慨するのも無理はない。戦争はしても、それは国民全体の同意も納得も得ていない。国民は何も
知らずに踊らされ、自分が戦争しているのではなくて、軍人だけが戦争をしている。それをまるで芝居でも見るように、昨日も勝った、今日も勝ったと、面白半分に眺めていた。そういう精神分裂の揚げ句、今日惨憺たる破滅の淵に突き落とされるのである。もちろんわれわれはこの苦難を克服して、日本の国家を再興しなければならんが、それにつけてもわれわれの子孫をして、再びこのような、自らの意思でもない戦争の悲惨事を味あわしめぬよう、政治の組み立てから改めなければならぬということ、私はその時深く感じたのであった。」
「 私は図らずも内閣組織を命じられ、総理の職についたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心した。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、外の人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうが、見えざる力が私の頭を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやってきて、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうじゃない、決して誰からも強いられたんじゃないのである。」<自伝(「外交50年」(日本図書センター)より>
     














 <電車の中の風景 その二 〜1990年 司馬遼太郎〜>

 「たとえば電車の中で、若い人が長い足を大きく広げて座っている。それを見て、『今の若者は』と嘆き、この国の先行きを憂える人がいる。でもね、あれでいいのです。平和とはこういう若者の姿なんだ、これを得るために、私たちは戦後苦労してきたのだ、と思うのですよ。
 21世紀に向けて大切なのは、地球規模で文明の新しいスタンダードを、みんなで作り上げていくことです。
 地域紛争は永遠になくならないでしょうが、世界は一つの方向に動き始めている。国家間の障壁は低くなり、国家単位の私利私欲に代わって、国境を超えた人権と地球環境を守ること、この二つが新しい世界の公理となっていくはずです。
 そんな二十一世紀の世界の取り持ち役として、日本は多くの資質をもっていると私は思います。経済進出や例外的な政治家の発言などで、今は誤解される面が多いが、私たちは本来、決して不作法な国民ではないし、第二次大戦後は外国に対して腕力を秘めて行動するなどということはおよそしてこなかった。日本が平和憲法の下で身につけた村役場の書記のような頼りなさそれは、世界に対する謙虚さとして、きちんと評価されていいことです。
 二十一世紀は、国家としてのうわべの勇ましさなどは評価されない、人間の時代なのですから。」(司馬遼太郎  新聞の切り抜きより)
     ※ 参考 「2003年2月11日 "村役場の書記”のような頼りなさ」


▼そして、今年の5月3日、加えておきたい言葉を一つ。
戦場を取材しつづけ、2004年5月イラク戦争の取材中に銃撃され、命を落としたジャーナリスト橋田信介氏、彼について語る奥さんのの言葉
 「戦場には政治家なんか一人もいない。いつも現場にいるのは普通の人たちだ。普通の人たちが殺されたり傷ついたり、そこに一番の彼の怒りがあった。」(NHK特番「DEAR 〜あなたを忘れない〜」より)

                     2009年5月3日                  
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