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 “空疎な中心”からの反撃  5月12日

ツツジ(躑躅)/ツツジ科の常緑または落葉低木。日本各地に分布し、自生種は20種類以上、園芸種は数百種類にもなる。ツツジの名前は、連なって咲く「つづき咲き」、あるいは花の形から「筒咲き」がその由来とされている。ツツジの漢字は難しい。辞書を引くと躑躅(てきちょく)と読み、「ためらうこと、足踏みすること、ちゅうちょ」とある。一説によると、羊が、この花の赤いつぼみをみて母の乳と思い、躑躅して膝を折って此を飲んだ。とある。このエピソードから来たのか?
 敬宮愛子さまのお印はゴヨウツツジ。(別名「シロヤシオ」とも呼ばれ、栃木県那須の御用邸内で白い花を咲かせる。)
 花は通常一重咲きの合弁花で、上の花びらにブロッチと呼ばれる斑点の模様がある。二重咲き、八重咲きの花もあり、花びらが基まで切れこんだものは采咲き(さいざき)と呼ばれている。
 陰暦五月に一般のツツジより少し遅れて咲く皐月ツツジをサツキRhododendron indicumという。遺伝子が異なる細胞(キメラ)があるので同じ枝から異なる色の花が咲く。
つつじ全般の花言葉は、愛の喜び・情熱・節制・伝奇。つつじ(赤)の花言葉は、恋の喜び
つつじ(白)の花言葉は、初恋。えぞむらさきつつじの花言葉は、片思いの恋。くるめつつじの花言葉は、成長。りゅうきゅうつつじの花言葉は、節制・初恋・愛の喜び。


▼ツツジという花はどうも好きになれない。ゴールデンウイーク、至る所で、いっせいに赤く染め上がる群花をみると圧倒されてしまう。同じ顔の花をあんなにたくさん咲かせる必要があるのだろうか。花一輪は集団の中の一分子に過ぎない。緑の葉も見えなくなるほど咲き誇ったと思ったら、これも一斉に茶こけて無様に枯れ果ててしまう。同じレールを走り消え去る企業戦士のようで窮屈だ。

▼昨日の皇太子会見をまだ引きずっている。思えば、最近の皇室の様々な人々の会見には、強烈なメッセージが込められているような気がする。そのことを痛感したのは昨年暮れの平成天皇の会見で、この「草木花便り」の「12月23日平成天皇の覚悟(1)「12月24日平成天皇の覚悟(2)」で書いた。この時の作業で、戦後の天皇や皇太子などの会見の文字おこしを丹念に読んだ。その過程で、皇室は“健康で文化な生活を目指す国民”の“象徴”として、どう自分たちは機能すればいいのか、自問自答している、という印象を強く持った。
▼アジアに対する戦争責任をできる限り受け止めて謝罪の旅にでることを真剣に考える平成天皇、それは父・昭和天皇への寡黙な返し歌のようでもあった。民間人から皇室に入った皇后は乳母制度からはじまり様々な皇室の旧習を改めようと試みた。しかし、その行動は、突出した反抗として受け取られ、その軋轢と激務の中で、肉体はやせ細り声まででなくなるという過剰なストレスにさらされた。その母や父の姿を見て育った息子・皇太子にとって、目の前に現れた小和田雅子という聡明な女性は、皇室を未来へ切り開く強い牽引力を持った同志だった。
▼昨日の会見は、皇太子と皇太子妃が、戦後変わらないこと、手をつけないことを常識化し何も変革をしない宮内庁への強い反発を表したものだ。伝統に胡座を欠いて何かを変革しようなどとは露にも思わない官僚社会の象徴、宮内庁。皇太子の会見は権威の上に胡座をかいた官僚達への“謙虚な反抗”なのだ。
▼皇室の“変革への意識”を感じた出来事が、昨年の夏に起きている。この出来事を敏感に感じ取り、朝日新聞に寄稿した原武史の文章は忘れがたい。「皇居前広場に天皇夫妻」と題された朝日新聞2003年9月3日夕刊の全文を紹介したい。
▼ 8月13日午後5時すぎ、天皇と皇后は平服姿で、皇居の桔梗門を歩いて出た。そして皇居前広場を桔梗壕に沿って東に向かい、内堀通りの横断歩道を渡って、広場の北側にあたる和田倉噴水公園で足を止めた。その場所で、たまたま居あわせた一般市民と約40分に渡って対話した。
▼しかしこの模様は、TBSやフジテレビのニュースやワイドショーでほんの数分放映されたほか、一部の新聞で取り上げられたにとどまった。NHKや朝日新聞、読売新聞で報道されることはなかった。全くのお忍びだったせいか、いまだに事実自体があまり知られていないように思われるが、このお忍びのもつ政治的意味はきわめて大きい。
▼もちろん天皇や皇太子が、御用邸の近くや訪問した地方都市の郊外などをお忍びで散歩することは、これまでにもあった。古くは大正天皇が皇太子時代にしばしばお忍びで出かけていたし、天皇の神格化が強まる昭和初期ですら、1929年に訪問した水戸のように、天皇が白馬に乗って突然現れることがあった。最近では皇太子夫妻が、東宮御所近くの神宮外苑に、内親王を連れて現れる姿を目にすることも少なくない。
▼だが、今回のお忍びはこれまでのものとは決定的に異なる。天皇と皇后が、御用邸の近くや地方ではなく、東京の中心にある皇居前広場に、初めて徒歩で現れたからである。
▼戦前の皇居前広場は昭和天皇の権威を演出するための舞台だった。観閲式や記念式典、観兵式、戦勝祝賀式といった儀礼を通じて、「人間」から「神」に至るまでのさまざまな天皇像が作り出された。ところが占領期になると、天皇はこの広場に年に一度しか現れなくなり、代わってここは占領軍のパレードや、メーデーをはじめとする左翼勢力の集会に利用されるようになる。左翼の集会は、言葉を媒介としない儀式ではなく、演説を主体としながらも、一般市民どうしの対話の形式をkの広場に持ち込んだ点で画期的であった。
▼だが、こうした時期は長くは続かなかった。独立回復直後の52年5月1日に起こった「血のメーデー事件」は、皇居前広場での集会を禁止された左翼による最後の抵抗だった。また昭和天皇も、同年5月3日の「平和条約発効並びに憲法5周年式典」に皇后とともに現れたのを最後に、広場から姿を消す。86年の昭和天皇在位60年、90年の現天皇の即位式、99年の天皇在位10年、2001年の内親王誕生に際しては、天皇は広場ではなく、二重橋に現れた。しかも、いずれも夜間だったため、天皇の姿を直接確認することはできなかった。
▼つまり52年5月以来、皇居前広場は儀礼や集会が全くといっていいほどない「空白期」が続いていた。その間にこの広場には、藤森照信氏が指摘するように、「何々をしてはいけないという打ち消しのマイナス ガス」が立ちこめてきた。「空白期」が続くことで、天皇制が本来有していた禁忌のエネルギーが充満していったのである。今回の天皇と皇后の試みは、こうした「空白期」を終わらせ、広場における対話を復活させようとするための第一歩と見ることもできる。
▼その背景には、現在の天皇制に対する、天皇や皇后の危機感があると考える。御用邸の近くや地方では、一般市民との対話はごく自然にできるのに、肝心の東京ではそれができない。それどころか、即位式や在位10年などの儀礼では、天皇や皇后は夜間に二重橋の高みから人々を見下ろす形となり、人々は戦前さながらの「君が代」や「天皇陛下万歳」で二人を迎えた。平成になってもなお、東京でこのような儀礼が繰り返されることへのアナクロニズムを最も痛感しているのは、実は天皇や皇后自身ではないのか。
▼内親王誕生以来、皇太子夫妻が神宮外苑にしばしば突然現れるようになったのは、東京と地方のギャップを埋めようとする試みと解することができる。これが「地ならし」となり、今回のお忍びに至ったと考えるべきだろう。それは皇室の姿が見えないことで、禁忌を増幅させる天皇制から、天皇をはじめとする皇室メンバーが全員姿を現し、一般市民と対話することで、禁忌を極小化しようとする天皇制への転換が、「空疎な中心」と呼ばれる皇居皇居をもつ東京でもいよいよ始まったことを意味している。

けれども、それは喜ぶべきことなのだろうか。先に私は、今回のお忍びによって、皇居前広場における対話が復活したと書いた。しかしそれは、あくまで天皇や皇居と市民との対話であることを忘れてはならない。この点は、占領期と明確に異なるのだ。皇居前広場は、市民どうしのコミュニケーションを媒介とする「公共的空間」として復活したわけではないのである。
▼禁忌のエネルギーが増幅することの危機感を敏感に察知していたのは、皇室自身だったのではないか。鈍感なのはむしろ、一般市民の方である。皇居前広場を「公共的空間」にできなかったことにすら気づかないまま、私たちは今回の重要な第一歩を見過ごそうとしている。

▼この原武史の文章を読んで以来、皇室のことがどこかで気になっていた。今回の皇太子の会見は、戦後、皇室が感じている苛立ちやジレンマとつながっていることは間違いないだろう。変革という概念を拒否し安易な日常に安住する諸人が、皇室を過去の禁忌の中に再び押し込めてしまった。無作為と無関心の中で新たな役割を見いだせず「孤立」した皇室の中の人々が、我々との確かな繋がりを求めて訴えている。それは「空疎な中心」からの、謙虚ではあるが切実な反撃である。






















▼ 町に一面の花を咲かせるツツジの季節。こんなにたくさんの花を咲かせているのに道行く人々の反応は一ヶ月前の桜に比べるとなんだか素っ気ない。ツツジに集団の画一性と無作為を感じるのは私だけか。皇居前のツツジの群生にも触手が向かない。そう思って歩いていると、公園の片隅にわずかな光が差し込んだ。同時に小さな花園が浮かび上がった。そのツツジは不揃いに咲き、緑と紅のバランスがちょうどいいと思った。「これならいい」とシャッターを切った。
                      2004年5月12日