今年の秋は台無しだ   11月14

紅葉は当たり前のように思っていた。カメラを持って何気なく、郷里自慢の紅葉の庭、毛利邸庭園を訪ねる。昨年、秋の紅葉の写真もこの場で存分に撮影させてもらった。(「ラブレター(2003年11月24日)今年は新緑の中も歩いた。(「新緑の紅葉と1000の風」(2004年4月25日)
 
何気なく庭園の前にきて絶句した。桜の木は枯れはてて裸木となっていた。目的の紅葉は縮み上がっている。改めてその塩害の凄さにびっくりした。今年の秋、とっておきの紅葉は塩漬けにされ焼けこげた無惨な姿を申し訳なさそうにさらしている。続けざまに上陸した今年の台風の被害の甚大さを痛感させられた。今年の秋は台無しだ。
▼時間の経過と共に、あっという間に忘却の彼方に消えていってしまった台風の猛威が、この庭園には歴然とした現実となって漂っている。失われた輝きはもう取り戻すことはできない。荒れ狂った風雨の中で身をゆさぶりもだえた樹木のそれぞれが、その現実から逃れられず、惨状を刻印されて次の季節に向かわなければならない。その,時の流れの過酷さを突きつけられる。



▼暇そうな観光客が所在なく、池に向かって小石を投げた。波紋の広がる水面がその時、にわかに光を帯びた。雲間から夕日が顔を出した。爛れた紅葉の樹にも赤い斜光が差し込んだ。これも紅葉、夕日が差し込んだ樹に向かいシャッターを切りはじめた。空しい気分で始めた紅葉撮影会だったが、やがて意地になっていく自分がいた。この焼けただれた今年の現実をなんとか美しく遺したいと思った。それに向かってますます意地になる自分が滑稽だった。あっという間に24枚のフイルムは尽きてしまった。



▼後日、いつもの写真屋に出来上がった写真を取りに行く。いつも写真を褒めてくれる店員が首をかしげて写真を手渡した。期待に反して、出来上がった写真はやっぱり、ただのクシャクシャの縮み上がった枯れ葉に過ぎなかった。 なぜか、これでもう今年は紅葉を撮る気はしない。
今年の秋は台無しだ。
                      2004年11月14日