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            朝青龍、夢の形

        2007年 8月30日


カンナ
 学名:Cannna ihybrids
 カンナ科カンナ属

猛暑が続いた今年の夏にはカンナの花がよく似合う。エネルギッシュに色鮮やかに咲く独特の花。もともとは南アメリカ原産、日本には江戸時代初期に渡来した。夏から秋にかけて開花し、赤・黄色・ピンク・白、黄色に赤の絞りや赤の水玉模様のある花を開く。花びらのように見える部分は、6本あるおしべのうちの5本で、残りの一本だけがおしべとして機能する。花言葉は、尊敬、情熱、妄想、疑惑
 
▼ 横綱・朝青龍がモンゴルに帰国した。9月いっぱい滞在し温泉保養地で治療を受けるという。過熱する一方のバッシングから漸く抜けだし、この種のワイドショー報道にうんざりしていた我々もほっとしている。まずは、心を癒して再起を目指してほしいが、勝負の世界はそうそう甘いものではない。
▼冷酷な言い方だが、これで「大横綱・朝青龍の時代」は幕を下ろした。そして、今回のドタバタ劇の渦中、相撲の神様は、新横綱・白鳳に乗り移った。この騒動の陰で、白鳳は密かに闘志を燃やし、日々、横綱としての風格を会得していっていくに違いない。
▼ここ数年、大相撲の潮目を目撃し、この草木花便りにメモしてきた。
 2003年1月20日、貴乃花の突然の引退、号外が街にまかれたこの日、次のように記録した。

 「ヒーローはその時代を映し出す鏡である。戦後、千代の富士までの横綱は豊かさを求めて地方から東京へと一極集中していった高度成長・日本の象徴である。貴乃花はそれとは違う。東京の豊かな家庭に生まれ育ち父の切り開いた道を追う"リッチ・チャイルド”である。リッチ・チャイルド達は物質的な豊かさの中にいながら、満たされない孤独を感じ、その内へ向かうエネルギーと格闘しながら生きていく。高度成長、バブル期、思う存分甘えて育ち、成人になりいきなり不況の中に投げ出されたリッチ・チャイルドの憂鬱を貴乃花は具現していた。その貴乃花が去り、次に躍り出ようとしているヒーロー・朝青龍も見事に次の時代を映し出している。
 草原の国、モンゴルでは、子供たちは幼い頃から家で飼っている子馬を捕まえるという仕事をこなしている。素早く馬の耳を捕まえて足を掛けて倒すという技はここで磨かれる。その延長線上にモンゴル相撲がある。このモンゴル相撲の技を自在に土俵で披露しながら朝青龍は出世街道を駆け上っている。その姿は草原の風のように清清しい。かつて、東京に豊かさを求めて駆け上った地方の子達、そして成功者である父の背中を追いかけて駆け上ったリッチチャイルド、さらに今、モンゴルの子達はアジアの成功モデル日本の豊かさを追ってまい進する。それは日本をビジネス・モデルにし繁栄を手にしたアジアの国々がいまや日本を追い越そうとする勢いであるのと符合する。そして、内なる自家中毒に苦しむ日本は、こうした外からのまっすぐなエネルギーに再び刺激を受けなければならない、時期にある。アジアのライバル達の躍進が、日本に再び活力を与えるという予感を朝青龍の存在は強く感じさせてくれる。」
2003年1月2日「貴乃花と朝青龍」より)

▼あれから
4年。朝青龍はあっという間に横綱に昇りつめ、21回もの優勝を重ね、歴史に残る大横綱になった。その一方で、モンゴルの国民的英雄となった朝青龍は母国にASAグループという企業体をつくり、父親や兄弟をトップにすえて、旅行代理店や投資銀行、人材派遣会社などを幅広く営むオーナー経営者になった。
 検索していると、モンゴルに住む日本人のブログにこんな記事があった。
<国営サーカスを朝青龍が買いました (2007年1月5日 モンゴル通信より)>
 モンゴルに事業を行っているASAグループがサーカスに17億トウグルグの投資して2年間の期間でサーカス場をほかの目的で使わないと厳しい管理下に所属することになりました。サーカスを私有化する入札に3つの会社が入ったけど、朝青龍の持っているASAグループが90.8点数で勝って、所属することになりました。この入札に大サーカス会社は10億、モンゴルサーカス会社は12億ASAグループは17億トウグルグの見積もりを出して勝ちました。この私有化の主目的は国営サーカスの事業をそのままに続ける事でした。一番必要なものはサーカス場に投資してサーカス芸術を公表する、スタッフの生活状態をよくする、文化と外交関係を広げることです。このことをASAグループが成績にできると審査委員会が見ています。でも、この2年間に文部省の厳しい管理下にサーカスを改善するべきそう。
   国営サーカスは1972年に引き渡されてから一回も改善していないからお金がかかる事です。給排水官と設備と全部が古くなった物です。」

検索していくと、「横綱」と「オーナー経営者」の間を忙しく行き来する最近の朝青龍の姿が見えてくる。

▼1980年モンゴルに生まれた朝青龍は、97年、17歳で高知県土佐市の明徳義塾高校に相撲留学した。それ以降、出世街道をまっしぐらに快進撃する姿は、戦後日本の高度成長を思わせた。アジアの国々が日本を追って急成長する姿と重なった。そして2001年、政界では旋風とともに小泉総理大臣が誕生したこの年に、朝青龍は新入幕を果たし、わずか一年で一気に横綱にまでのぼりつめた。
▼小泉時代、日本政府はバブル崩壊の痛手を振り払うように、再び市場経済至上主義を推奨し貫いた。横綱という大きな山を極めた朝青龍が、実業界にもう一つの夢を託すことになったのも、この時期の日本の気分を見事に反映していると思う。日本を猛追する素直な留学生は、高度成長を達成した後、(バブル崩壊の悪夢も見ることなく、)次の膨張に向かって走り始めた。「強いものが勝つ!」弱肉強食の経済至上主義を推奨する気運に、「遊牧民族」の血が共鳴した。

▼経済至上主義の目線からみれば、場所の合間の地方巡業は無駄なものに見えたのかもしれない。「シーズンオフは休むべきだよ。本場所で成果をだせばそれでいい。本場所以外でも組織のために時間をさく必要はないよ。プライベートな時間がないじゃないか。そんなのナンセンスだよ。これからはチーム朝青龍で幅広くやろうよ」 そうアドバイスする若手実業家もいても不思議ではない。
 同胞の白鵬が横綱となり、長い一人横綱という圧迫から開放されたことも大きいのかもしれない。肩の荷を半分下ろした朝青龍が、にわかにオーナー経営者としての諸事にとらわれはじめたとしても不思議でない。「地方巡業、こんな無駄なことをしている時間はない」という考えが想起したとしても不思議ではない。
 皆で一緒になって地方巡業し相撲の普及をはかるーーーという「村の掟」を「農耕社会」日本がいかに大切にしてきたか、・・・・・「遊牧民族」の暴れん坊は「村」社会の勘に障ってしまった。

▼そして、これも余計な憶測だが、朝青龍は、今年相撲界を引退してモンゴルに帰り実業家として動き出した旭鷲山の去就を、相当気にしていたのではないか。

 旭鷲山は1973年、モンゴル、ウランバートルで生まれた。
1991年、大島親方がモンゴルで行った新弟子公募に応募し、初のモンゴル出身力士として来日した。少年の朝青龍が来日する一年前、 旭鷲山は新入幕を果たした。朝青龍はこの活躍を見て「ジャパニーズ・ドリーム」に心をたぎらせた。
▼旭鷲山は一度小結に昇進したが、その他は平幕止まりだった。しかし、昨年の11月に引退するまで58場所連続平幕在位の史上1位の記録を打ち立てた。その間、モンゴル出身力士の先駆者として、多くの若者をモンゴルから呼び寄せ各部屋に入門させた。その一方、2000年、モンゴルで「旭鷲山発展基金」を設立し、貧しい人への援助、こどもの育英などを積極的におこなった。2004年には早稲田大学人間科学部通信課程に学ぶなど果敢に幅を拡げていった。ウランバートル市の名誉市民にもなり、モンゴルでは朝青龍以上に英雄視されている、とも言われる。

▼朝青龍は、他のモンゴルの若者と同じように、前をゆく旭鷲山を目標に異国の日本で修行に励んだ。やがて、朝青龍にとって旭鷲山は「目標」から「ライバル」へと変わっていく。朝青龍という個性ゆえのものか、それとも「遊牧民、草原の民」の若者の全身を流れる血潮ゆえなのか、朝青龍はこの先輩に異様な闘志を燃やした。一見爽快な横綱の心に屈折したものを見つける端緒があるとしたら、旭鷲山への剥き出しの闘争心だろう。

▼2003年7月場所、横綱となっていた朝青龍は旭鷲山との一番で、マゲを掴み反則という前代未聞の負け方をした。取組後の風呂場で両者は激しい口論となり、怒りが収まらない朝青龍は、旭鷲山の車のサイドミラーを壊して弁償する騒動にまで発展した。両者は2003年5月場所の対戦でも、土俵際で逆転負けした朝青龍が物言いを要求する態度を見せて物議を醸した。この時期、二人の確執は常軌を逸していたが、一連の騒動は、朝青龍にとって旭鷲山は何か特別な存在なのだと、我々に教えてくれた。

▼その旭鷲山が、2006年11月場所後、突然の引退を表明する。日本には帰化せずに、モンゴルに帰国して実業家としての活動範囲を拡げさらには政治家を目指すという。この時、すでに旭鷲山は30数社の会社を経営し実業家としての地位を着実に固めていた。大相撲を通して、「夢」を開拓した先駆者は、次の夢を果敢に追いかけはじめた。それは、モンゴルという国家を担うという大きな夢だ。

▼ここからは荒唐無稽な夢想にすぎないが、朝青龍は、旭鷲山が切り開く「次の夢」に異様なあせりを感じているのではないか。再び、異常な闘争心を旭鷲山に燃やしているのではないか。前述した「国営サーカスを買収する」という行動に、並々ならぬ執念を燃やした朝青龍にその端緒をみることができないか。「急がないと置いていかれる・・・・」

▼ウランバートルでサッカーをするというイベントに参加する姿にも、国家的英雄としてモンゴル大衆の支持をより大きくしたいという、野望が見えないか。それは、チンギス・ハンの再来といわれ、朝青龍を凌ぐ人気をえている旭鷲山への異様な闘争心によるものではなかったのか。肘も痛かろう、腰にも鈍痛が走っていたであろう、しかし、それらを圧してでも笑顔を振りまく、必要性を、この「オーナー経営者」は感じていたのではないか。地方巡業をキャンセルしたことなどすっかり忘れていた。

▼結局、このサッカーゲームが、横綱・朝青龍の偉業を大きく揺らがすことになった。今日、再びモンゴルに戻った朝青龍の心を占有しているものは何なのか。「横綱」としての責任感?相撲を極めようとする求道心?それともオーナー経営者としてライバルを追う闘争心なのか・・・・いま若者の夢はどんな形になっているのだろうか。

▼最後に2006年3月26日に書いたメモを添付したい。この日、朝青龍は白鳳と熾烈な優勝決定戦を繰り広げ、辛うじて優勝した。この日の戦いは、まさにチンギス・ハンの子孫達の闘争心剥き出しの姿を見せつけた。我々、農耕民とは位相が違う遊牧民の真剣勝負に我々は酔いしれた。
半年後、再び土俵に戻ってくる横綱がどのような闘争心を見せてくれるのか、それによって、我々は、いま彼の心を占めている夢の正体を知ることができる。

<草木花便り 2006年3月26日「思いのまま2006」より>

▼夕方、帰宅して写真を整理していると、テレビから大相撲の熱狂が響いてきた。千秋楽、1敗の白鵬が魁皇に敗れた。さらに結びの一番で、横綱・朝青龍が栃東の気迫に寄り切られてしまったために二人は再び並んだ。その瞬間から、決定戦にのぞむ二人のモンゴル力士の様子を追った生中継の映像にオーラが走る。支度部屋で弟子を相手に、留まることなく体を動かすのは白鵬。一方の朝青龍は、栃東に負けた後、しばらく外を眺めたあと、座ってじっと瞑想に入った。この動と静の対比が鮮やかに中継カメラに映し出された。

▼そして、土俵に上がった二人。仕切をした後、じっと横綱を睨み動かない白鵬、これに対し朝青龍も睨み返し、横綱の風格を見せつけるように白鵬の鋭い目線を跳ね返す。仕切一回ごとに両者の気合いが高まっていくのがわかる。その緊迫の駆け引きに、大相撲の醍醐味を感じる。

▼相撲のルーツは、12世紀の初め、チンギス・ハーンの時代にはじまったモンゴル相撲にさかのぼると言われている。モンゴル草原で群雄割拠の時代を駆け抜けたチンギス・ハーンは「力」を信奉した。彼は、家来を集めて相撲をとらせて、勝ち抜いたものに重要なポストを与えていたという。その伝統を受け継いでいるのだろう、モンゴル力士たちの勝負へのこだわりには並々ならぬものを感じる。いざという時に、肩に力が入ってしまいチャンスを逃してきた栃東の戦いは、自分の精神力との闘いだった。その姿はいかにもストイックな「農耕民族」らしい。その一方で、闘志をむき出しにするモンゴル力士達の所作はいかにも「遊牧民族」らしい、と思う。
▼組織の中で、意見が対立したとき、自分にはすぐに折衷案を求めて、調整に入ろうとする優柔不断なところがある。真っ向勝負で意見を対立させて、最後まで自分の立場を貫き通そうとする男気のある先輩の行動様式を見ていると、自分は卑弱だと痛感させられる。正面切って、人と対立したくない、できれ皆とうまくやっていきたい。そうした自分の本性に気を許していると、すぐに安きに走り八方美人に流れてしまいそうなので、その局面、局面で、気を引き締めるようにしないと危なっかしい。つくづく自分の本性は典型的な「農耕民族」だと思う。生きるか死ぬかの明確な勝負に身を委ねて草原を走ったチンギス・ハーンの子孫達の生き方はその対局にあるようである。

▼優勝決定戦。両者、見事な立ち合い。朝青龍は自分得意の左四つに持っていったが、上手に手が届かないと見ると右に巻き替えた。両者がっぷり四つの大一番。右四つは白鵬得意の形、「しめた!」とばかりに白鵬は一気に攻めようと前に出た。その瞬間をとらえて、朝青龍は豪快な右下手投げを打ち、白鵬をぶん投げた。死力を尽くした名一番だった。興奮の大阪府立体育館、横綱・朝青龍は豪快に勝ってみせたが、場内には次の時代の風が吹き始めていた。

                          2007年8月30日
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