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         オ ー ク の 樹 の 下 で ー

          東大作   
カナダ からの 便り 1

                                           2004年 8月27日

▼2004年8月23日。妻と5歳の息子と共に、私はカナダのバンクーバー国際空港に降り立った。曇り空のバンクーバー。事前に2度訪れたときはいずれも、見渡す 限りの青空だった。生活を始めるその日は、バンクーバーの冬を象徴する曇り空。空は「これが現実だ」と語っているように思えた。
▼空港の税関を抜ける時に、係員に「どのくらいの期間、カナダにいるのか?」と聞かれ れた。とりあえず、マスター(修士課程)でビザが降りている「2年」と答えたが、本音を言えば「分からない」だった。希望では、博士課程まで修了して、PHDを取 得したいと願っているのでそれだけで4年。しかもその後、どの国に就職するかも全 くの未定。つまり「滞在予定期間なき海外訪問」であるという現実に、一瞬呆然と なってしまった。
▼今年7月までいた会社のおかげで、15回近く海外取材をしてきた。旧ユーゴスラビアの戦争犯罪法廷を取材した、オランダのハーグ。ベトナム戦争の取材をしたベトナム・ハノイと、アメリカ・ワシントン。2年後、ブッシュ政権誕生の取材のため、ワシントンに、2ヶ月滞在したこともあった。中東和平交渉の破綻とテロと報復の連鎖の取材のために、イスラエルとパレスチナに3ヶ月。犯罪被害者の支援を知るため に、ドイツに10日間。北朝鮮への食糧支援の取材で、中国の北京に10日間。北朝鮮核問題の解決を目指す韓国を取材するために3ヶ月。そしてイラク問題に苦闘する国連を取材するためニューヨークに3ヶ月。考えてみれば、世界の紛争地域の周辺で、その解決を考えたいと走った会社での10年間だった。しかし「いずれは平和な日本に帰る」という安心感が自分にはあったのだ。今度は、どうなるか分からない。博士に行ける保証もない。行ったからどこかで就職できる保 証もない。自分の目指す仕事に就ける可能性は更に低い。それでも、今はまだ夢を追えることだけが、カナダの税関を通る意味だという気がした。そして、一生放浪を続 けるかも知れない自分に家族がついてきてくれたことに、一種の奇蹟を感じざるを得なかった。
▼空港から直接家に向かう。家は7月中旬に来たときにすでに、ベットだけ買って入れていた。大学のキャンパスには、全部で7つほど学生寮があるのだが、ここは、「子供を持っている学生」のための専門のコミュニテイである。一つの家に3世帯ぐらいが分譲できる家が100ほどあり、およそ400世帯が一緒に暮らしている。一種の村のようだ。コミュニテイに入ると、車が中に入れないので、子供たちが安心して元気いっぱいに遊んでいる。日本では子供が外で遊ぶ風景が消えた。その点、昔、学校が終わるとランドセルを放り出して遊びほうけていた子供時代を、自分の子供も過ごせたらいいなと思う。
▼私の家は、半径1キロほどのコミュニテイのほぼ、端っこにあり、バス停や、キャンパス内のショッピング街には近い。学生の住む家だが、日本でかりていたアパートよ りはかなり広いのは嬉しかった。家賃はおよそ9万円。貯金を取り崩しての生活の自分には、決して安くないが、町中で住むよりははるかに安いし、かつ友人もたくさんできる。日本人の留学生も何世帯か住んでいて、これも、妻にとっては心強いことだった。
▼生活を始めるに必要なことは、まず家具や生活用品の買いたしである。自分のように、車のない人間は、まず買い物に往生する。大体の生活用品は大学内のマーケットで買うことができるが、電気製品や家具になるともう、町中にでるしかない。大学自体が、端から端まで歩いて一時間以上ある大きさなので、町中にでるとなると、バスでいくしかないが、これも大きな買い物はできない。ありがたいことに、こちらに来る前にカナダ大使館の紹介で日本カナダ交流協会の会長さん、(中国系カナダ人だが日本語がペラペラ)とその奥さんと友人づきあきをしてもらっている。その奥さん(日本人)が、車を出してくれて、一日買い物につき あってくれた。そのおかげで、なんとかダイニングテーブルや、勉強机など、最低限の家具と電気製品をそろえることができた。
▼今日は、同じコムニュテイに住んでいて、PhD(博士課程)の学生で、教授の紹介で友人になったカナダ人のフィリップさんが、一日がかりでつきあってくれ、インターネットの接続に苦闘してくれた。結局、家の中では、大学が発信している無線のネットワークをワイヤレスカードを使って受信することはできず、電話線でインターネットに接続するしかないことが判明した。でも、10分程度歩いて、コミュニテイ内の勉強部屋に持って行けば、大学のインターネットに無料でいつでもアクセスできることも分かった。 いずれにせよ、みな、何の見返りも期待できないのに、自分の時間を費やして親切に してくれている。「私もここに来たときに、いろんな人に親切にしてもらって生活を始めることができました。だから、今あなたに親切にするのは当然です。今度誰かが新たに来たときに、あなたも親切にすればいいんですから」とカナダ人も、ここにいる日本人もみな口を揃えていう。ニューヨークでは、損得勘定だけで、人間づきあいする人も多く、本当に疲れた記
憶がある。その点、ここはまだ人間的な「親切」と「友情」が生き残っている。これだけは、自分も是非身につけたいと、今、真剣に思っている。
▼とにかく情報社会になって、その点の苦労が多い。日本のプロバイダーにアクセスして、今まで通り、メールが読めるかどうか、妻も一番気にしていて、それが進まない ことにはどうも機嫌がよくない。家ではできなくても、ある場所までノートパソコン を持って行けば、無料でアクセスできるところまではなんとか持って行ってあげた。自分は更に深刻だ。日本を出発する直前に、まだ来ている会社からのメールで、どう も、パソコンに深刻なダメージが生まれたらしい。インターネットやEメールの受信を始めると、すぐに、パソコンがシャットダウンしてしまい、再起動がかかってし
まうのである。あとで、メールで、会社でもそれがはやっているということを知った。今のままでは、とても大学の授業などに耐えられない。とにかく直すか、直らなけれ ば、こちらでとりあえず、英語のパソコンを買い直さないといけない。しかしそうなると、日本人とのメールのやりとりや、日本語のインターネットには全くアクセスできなくなってしまう。海外で生活を始めたばかりの私にとっては、これはもう悪夢である。バンクーバーには、日本のパソコンを専門になおす日本の業者もいくつかあるようなので、とりあえずそこに、明日持って行って、相談するしかないが、どうなることか。いずれにせよ、またかなりの費用がかかることは確実である。貯金の消え方が早い。最初は仕方ないといえ、これは厳しい現実である。会社にいれば、パソコンがウイルスでやられれば、すぐ助けてもらえた。無料で直してもらえるのが、あたりまえだった。これからは全て自分でしなければならない機械音痴の自分が、どこまでやっていけるのか、これもまた大きな不安である。
▼会社に入る前に、アメリカの大学で一年間留学したことがある。大学4年生や大学院の国際経済学の授業を取っていた。しかし、勉強はテキストや論文を読み、ワープロでペーパーを書くという、ある意味で単純なものだった。情報化社会は確かに世界を近くした。しかし、人はみな、パソコンに翻弄され、その利用のために、時間を使 い、体を痛めることになった。聞けば、留学している多くの日本人も、パソコンの問 題で大きなストレスを感じ、苦労が絶えないそうだ。このあたり、現代の人間にかかっている負荷の大きさを感じざるを得ない。パソコンの使いすぎで、実は会社を辞めた後、首痛と肩痛で、10日間寝込んだ。辞めた直後だったので、「このまま直らなかったら自分はどうなるのか」と随分不安に苛まされた。今も、毎日、「明日は家具を買えるのか」「明日は、パソコンを直せるのか」という深刻な問題を前に、不安と闘う毎日である。
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▼今の家の庭に、一本の木が立っている。庭の中に立っているのである。樹齢40年とも50年とも思える、巨大なオークの木、いわゆる樫の木だ。窓際に寝ころぶとその木が、空高くそびえているのが眼前に広がる。たまにリスやあらいぐまが、木をいったりきたりする。道を隔てて向こうは、森林公園で、うっそうとした木がたくさん生えている。日々の不安と闘い、明日はどうなるかと思いつつ、時間のあいまには、この木を眺めるようになった。全力を尽くすことはいい。しかし、人間の力でなしえることはまた小さい。「天命の中で人事を尽くすしかない」という犯罪被害者の会の岡村代表の言葉を思いながら、木を眺めている。国際紛争の現場で、その解決のために働きたいという、人から見れば荒唐無稽かも知れない夢のために、自分は会社をやめてカナダに来た。しかし、保証されているのは、マスターの勉強のために許された2年で、その後のことは、博士に上れるかどう か、どんな就職ができるかも含めて、全てこれからの、実績と経験次第である。この年から始める挑戦は、決して楽ではない、その厳しさを実感している。
▼しかし、この木のように、泰然自若とする心をもって、一日一日を精一杯生きるしか ない、とゆったり考えることができるようになりたいと思う。インターネットがどうだ、パソコンがどうだと、心配ごとは山ほどある。でも所詮人は、何を学び、誰と出会い、何をするかでしかない。そうした強さを身につけたいと、この木をみながら思っている。
▼いずれ、妻からデジタルカメラの使い方をならってこの木の写真を投稿したいと思う。子供は、もう隣に住むカナダ人の子供と、遊びまくっている。二人とも違う言語を話しながら、仲良く遊んでいる二人を見ると、少し人類の将来に対して明るい気分になる。
▼次はもっと、具体的は話を書きたい。それまでに、パソコンがなおることを、やっぱり今の自分は願っている。人間は所詮、現実からも逃げられない。

                        東 大作


 ☆☆☆ 夢の誠文堂 店主から一言  ☆☆☆

 「7月19日曇天に咲く孤高のひまわり」にはずいぶん反響があった。35歳でこれまで築いたテレビディレクターとしてのポジションをあっさり捨てカナダへ留学することになった私の友人は東大作という。会社をやめた翌日、東君は突然の腰痛に襲われ動けなくなり、心配したが、なんとか回復し、無事、8月23日にカナダに向かった。店主は旅立つ前に、東君にお願いした。「私の店に君の棚を置いてほしい。」 彼は快諾してくれた。
 今後、彼からの便りが届くたびに「草木花便り」に掲載するとともに、彼のための「東大作 カナダからの便り 〜オークの樹の下で〜」という独立した棚も用意し、これからの彼の人生航路を追尾していきたい。 
 (東大作のテレビ・ジャーナリストとしての航跡はここをクリックすればでます。まだ、未完成ですが番組批評も徐々に加え充実させていくことにします。)    

                      2004年8月27日