オ ー ク の 樹 の 下 で ー
東大作 カナダ からの 便り 2 「 誤算 」
2004年 10月1日
▼9月7日に学校が始まった。学校というのは二つの意味がある。一つは、私の学校。
ブリテイッシュ・コロンビア大学の政治学科の、大学院一年生の授業のことである。
もう一つは、私の6歳になる息子の小学校のことである。息子は小学校一年生として授業を受けるはずであった。
▼私の学校は、9月7日から授業が始まった。その前の週に一週間、オリエンテーションがあり、保険のことやら、授業料のことやら、奨学金のことやら色々と説明が続いた。一日何時間も英語の説明を聞いていると、それだけで、夜はぐったりである。こんなことで授業が持つのだろうか。心配を抱えたまま、7日の授業開始の日を迎えた。
▼膨大な宿題が出て、週に300ページも読むことを義務づけられる授業を三つも受けなければならないことは、何となく想像はしていた。しかし、実際に授業に出てショックを受けたのは、その読まなければならない教科書を、自分で集めなければならないことだった。まず一学期間のコースに必要なリーデイングリストが渡される。しかし、10年前、アメリカで留学していた時の大学院の授業と違い、こちらでは、全て自分で、インターネットを駆使して、読むべき論文を探し出し、プリントアウトしなければならない。これが大変な手間である。親切な教授は、ある程度、読むべき論文をコピーしておいてくれるが、これも、一人一人に用意してくれるわけではなく、教授のコピーを、みんなで分け合って自分の分をコピーする。これが、大変な手間で、最初の一週間はほとんどこれで終わってしまった。これが最初の誤算であった。これでは、勉強する時間がとれないではないか。その上で、一コース、300ページ近くの文章を読むことになっている。しかし、実際に昨日、読み始めたら、およそ30ページの論文を読むのに、5時間近くかかってしまった。一体どうすれば、こんな量を読むことができるのだろうか。大学院の先輩のフィリップに寄れば、教授はこれを、読むことを期待しているのではなく、「理解する」ことを望んでいるという。しかし、全然読まないで理解することも、また不可能なのである。これには、とにかく呆然としている。やれるだけやるしかないが、無事コースを終えることができるのだろうか。
▼また、ある授業では、国際法の弁護士でもある教授が、新聞をめくりながら、ありとあらゆる世界中の問題について、解説を加えていた。すごい。あらゆることを一手に知っている。しかし、このクラスは、生徒同士のデイスカッションに、どれだけ貢献したか、だけで成績がつけられる。そのため、みんなが怒濤のように話す。何を言っているのか、分からないことも多い。この授業は、もう一つ取ることに決めていたアジアの安全保障のクラスと、曜日が同じこともあり、取るべきかどうか、最初から悩んでいた。授業を見た上で、決めるつもりだった。授業の名前は「国際法と国際政治」イラク戦争から、アフリカのダルファの紛争まで、一応、自分が、NHKで取材をしてきた分野である。なんとか、一回目だけでも、参加しようとして発言をする。「ダルファの紛争はなぜ、重要なのか」という教授の問いに対して、いろんな発言が飛び交うなかで、私も手を挙げた。「地域機構が、アフリカの紛争を解決する上で、本格的な役割を果たす最初のケースになるかも知れないという点です」。これは、7月下旬、NHKを辞めて留学するという手紙を書いたところ、自分と会ってくれた緒方貞子さんが話してくれた見解だった。これからは、国連だけではなく、地域機構が重要になってくる。地域の問題は地域で解決し、それでも手におえなかったら、国連を使うのだ。緒方さんの話をベースにした発言だったから、多少の自信はあった。そうすると、自分のすぐ横に座っていた学生が介入してきた。ふっと人を馬鹿にしたような笑みを浮かべながら彼は話し始める。「別に最初のケースじゃない。アフリカに、PKOが入って、平和構築したケースはいくつもあるじゃないか」これに続いて教授が、語り始める。「アフリカは今国連のPKOが最も大々的に活動している場所だ。コンゴのPKOの規模は世界最大である。」と学生を援護し始める。
▼「それは、国連のPKOだろう。俺が言っていたのは、地域機構のことだ」と後で思えば、そう自分は叫んでいるのだが、声になって出ない。教授はさすがに真意は分かってくれたようで、「確かにアフリカユニオンは、介入したいと考えている。しかし現在、展開しているのはわずか300人の部隊だ。150人は、ナイジェリアから、150人はルワンダからだ。スーダン政府はそれ以上の部隊の派遣を拒んでいる。これでちゃんとした活動ができるかどうかは、はなはだ疑問である。」
その後、教授と横にいた学生の議論が続く。最後に学生が、誇らしげに言った。「僕はUndergraduateの時に介入の問題を勉強してきたんだ」
Undergraduate!!なんという響きだろう。学生時代に勉強してきたという学生を言
い負かすこともできない。私がこれまでしてきた、緒方貞子さんに取材した経験も、アナン事務総長やブラヒミ、各国の国連大使を総なめしてインタビューした経験も、マクナマラやボーグエンザップなど、ベトナム戦争の当事者に全てインタビューした経験も、この小さなゼミの闘いの場では何の意味も持たない。そのことが、自分に改めて突きつけられた。これは大変だ。誤算である。結局、この授業は指導教官の薦めもあって、とらないことになった。まず基本から学ぶべき自分にとっては、話だけでなく、ペーパーなど文章の形で自分の考えを述べ、評価してもらう方がいいと思ったからだった。なんと情けない。しかしこれも現実である。この学期で変な点数をつけられると、先の展開が失われる。どんなに過去の経験があっても、授業の成績が、AかBかで、将来の博士課程の学校も、奨学金の額も大きく変わってくるのである。学校の成績なんてくだらないとずっと思ってきた。しかし35歳をすぎて、生き残るためにそれを意識せざるを得ない。3ヶ月後、その無様かも知れない結果が、明らかになるであろう。
▼もちろん辛いことだけではない。私の行く大学には、国連の安全保障活動などを専門に研究する人も、国連の研究家も、そしてカナダで随一の北朝鮮の専門家なども数多くいる。北朝鮮の専門家である女性のパク教授なども、もう7回にわたって北朝鮮にわたっていて、カナダと北朝鮮の国交樹立に一役買った人だ。私が去年作った北朝鮮の核問題の番組の英語版もちゃんと見てくれて、議論をしてくれる。今後、アメリカの対北政策に重要な役割を果たしているアメリカの専門家が大学に来たら私に連絡してくれるという。このあたり、学生だからということで、馬鹿にすることはなく、ちゃんと相手してくれる。世界の一流の学者に電話一本で自転車で5.6分であえることは嬉しいことである。
▼しかし究極の誤算が、金曜日にやってきた。子供の小学校は9月7日に始まっているのに、いつまでたってもどこの小学校になるのか連絡がこない。なんとカナダでは、小学校が一杯になると、遠くの小学校に無理矢理いかせるのである。私の近くの小学校は、ユーヒルという有名な小学校で、留学生の子供なども多く、多国籍な子供が集まるいい学校という噂だった。しかも、通学のために、バスが出てい
る。子供が集まるバス停は、なんと私の家の目の前で、玄関を出れば、バスに乗れる距離だった。しかし、ここは、いつも定員一杯で、入れなくて別の学校に行きながら、空席が出るのを待つ小学生も多いと聞いていた。私は、この小学校になんとか入れたいと思い、7月にも一度、家族全員を連れて日本からカナダまで来て、市の教育委員会に子供を登録させた。子供を連れていかないと登録できないと言われたからだ。旅行シーズンでもあり、旅費は50万円近くになった。それでも、近くの小学校に入れれば、妻の負担も減るし、その価値はあると思っていた。しかし、9月10日までには連絡すると言われていたのに、9月10日の朝になっても連絡がこない。こちらから電話したら、留守電だったので、留守電を入れた。すると30分後に電話があった。「あなたの息子さんのスペースはありません。あなたの行くべき所は、クイーンエリザベス・アネックスです」という話だった。一体どこだ。地図で見ると、なんとバス一本ではいけず、一度乗り換えてやっと行ける場所だった。しかも近くにバス停はなく、歩きとバスだと、一時間近くかかりそうなところだ。これにはさすがに落ち込み、座り込んだ。なんとかならないかと、ユーヒルに電話して、「せめて、バス一本で通える別の小学校にしてもらえないか」と電話したが、「今からじゃ無理です」と言われた。仕方なく、その長い名前の遠い小学校に電話すると、担当者が「はい、あなたの電話を待っていたわ」と、馬鹿に明るい声で話してくる。「行く方法が思いつかないのですが、近くのバス停はどこですか」と聞くと、「やっぱり大学から通う同じ学年の子供がいるから、その親と相談すると良いわ。私から電話して、連絡ついたら、そちらに電話します」と全然気にしない風である。しばらくすると、一人の女性から電話があった。中国系のなまりである。やはり、クイーンエリザベス・アネックスに息子を送らなければならなくなった母親であった。名前をナイリーという。ナイリーさんは、UBC(ブリテッシュコロンビア大学。今後省略)の、ジャーナリズム学科の大学院一年生ということだった。幸い車は持っているようだった。しかし一方的に頼むのもどうだろうか。とにかく翌日、子供と一緒に会うことにした。
▼翌日、空は鮮やかに晴れ上がった。我々が住む、アケデイアパーク(子供がいる大学院生専用の集落)の住民が集まり、パレードを行うお祭りのある日だった。そこに、ナイリーさんと二人の子供がいた。こちらも妻と子供を紹介する。ナイリーさんの子供は、リーフン君。息子と同じ6歳だった。更に下の子供はまだ2歳。なんとナイリーさんは、二人の子供を育てながら、この9月、UBCの学生として通い始めたのである。夫は、まだ中国で、働いているという。よく聞いてみると、ナイリーさんは移民の資格をとり、2年前からトロントなどで住んでいたということ。そこで、家事手伝いなどをしながら、子供を育てていた。しかし「私も何かをしなければならない」と一念発起して、大学院のジャーナリズム学科に入ったのだ。これからここで2年間勉強して、修士を取り、その後、アメリカの大学で、博士を取りたいと思っているということだった。「教授を目指しておられるのですか」と聞くと「いえ、将来は中国に帰ってジャーナリストになりたいのです」という答えだった。7年間勉強して目指すジャーナリストへの道!!NHKのこともよく知っていて、私も妻もそこで働いていたと話すと、「なんで辞めたの、もったいない。大丈夫ですか」と逆に妻を心配してくれた。妻は妻で、ナイリーさんの生き方に、感動したようだった。私も胸の奥が密かに震えてしまった。決して若くない彼女は、おそらく自分と同じくらいか、少し年上だろう。それでも、これから二人の子供の面倒をみながら、少しづつ勉強して、将来の夢を目指している。子供は3時までは小学校に通わせるが、その後は、別の場所で預かってもらいながら、勉強をするという。下の子は、保育園に預けるという。二人の子育てを一人でやるだけでもたいへんなのに、その上、この膨大な大学院の授業をこなそうというのだ。やっぱり世界にはいろんな人がいる。
▼リーフン君と、うちの息子はすぐに仲良くなり、手をつないで駆け回って遊び始めた。二人とも月曜日からは、同じ小学校で、同じクラスだ。きっと色々大変だろうけど、なんとか二人で乗り越えて欲しい。リーフン君も、真面目なナイリーに似て、とても素直そうな子供に見えた。遠い小学校になったのは辛いけど、こんな家庭の子供と、友達になることも、また息子にとってかけがえのない経験になるだろう。これも、また天のなせる技かも知れない。私は、そう思った。
▼昼過ぎまで一緒にパレードを楽しみ、私たちは、親子3人でバスで小学校に行ってみた。やはり片道50分はかかった。丘の中腹にぽつんと立つ小学校は、まるでアルプスのハイジを思わせるような学校だった。いわゆる分校で、学生はみんなで130人くらいしかいないということだ。やはり車を買おう。車を買うまで、また手続きで2.3週間はかかる。中古車を買うのに、およそ100万円。車の保険などの年間費用がおよそ20万円。貯金は飛ぶように消え、不安は高まるばかりだがこれも仕方ない。車を買うまでは、ナイリーに、同乗させてもらい、車を買った後はお互いに、助け合おう。最初はカナダでの運転に拒否的だった妻も、腹を括ってくれたようだった。「私も運転する」。状況に合わせようとしてくれている妻もまた、私にとっては感動的であった。
▼夜。実際に見た小学校について話し、月曜からとりあえず同乗させて欲しいと頼もうと、ナイリーに電話した。電話に出たのは、息子のリーフン君だった。「ママいる?」と聞くと、「ママはいない。」と小さく答えた。6歳の息子を家において、彼女は今、どこにいるのだろう。図書館で必死に勉強しているかも知れない。私は、リーフン君に「うちの息子と遊んでくれてありがとう。息子も喜んでいたよ。これからもよろしくね」と話した。リーフン君は小さく「OK」とつぶやいた。カナダの恐ろしくまで静かな夜が、しーんと静まりかえっていた。
▼来週からまた新しい週が始まる。私はそう、一人つぶやいた。
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◇「(夢の誠文堂店主から一言)2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり」
◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」
◇「2005年1月1日 東大作 カナダからの便り B <私と息子>」
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