オークの樹の下で
東大作   カナダからの便りB 「私と息子」 
          2005年1月1日

今、カナダ時間、2005年の1月1日である。激動の2004年も幕を閉じた。世界にとっても自分にとっても、2004年は事の多い年だった。

▼9月にカナダに来てから、無数のことがあった。授業、研究課題の挫折、新たな出会い、励ましてくれる教授との出会い。これまでの4ヶ月間は、今思うと、夢のようだ。全てが暗中模索な中で、自分の限界に挑戦していたという気持ちは残っている。
▼誠文堂の店主のような、感性も筆力もない私が、この手紙を続けてもよいのかという気も何度もした。しかし、店主とつながりを維持できるのが、この手紙しかないのも事実である。私にできることは、夢だけを頼りに、日本を飛び出した人間が経験した、挫折や出会いを、正直に伝え、何か新しいことを始めようと考えている人にとって何らかの参考にしてもらうことしかないと信じ、今後も書き続けたい。

▼9月7日に学校は始まった。取ったコースは三つ。アジアの安全保障と、環境問題に関する国際政治、そして、人間の安全保障についてのコースだった。三つのうち二つのコースで、英語を第二外国語として話すのは自分しかいなかった。教授の英語は整理されているが、学生の早口の英語を理解するのは、困難だった。更に、我々留学生が仰天するのが、与えられるリーデイングアサイメント(授業に参加するにあたって、あらかじめ読んでおくことが求められる論文等の資料)の多さである。一コース、大体100ページから、200ページくらい出る。三コースで、300ページ近く。物理的にほとんど無理難題である。土日もなく、ひたすら机に向かい読み続ける日々が始まった。そして課されるショートペーパー。リーデイングアサイメントを読んだ上で、大体5枚ぐらいの短いリポートを書く。授業での発言や、リポートも全てきちっと評価されていて、最後の成績に反映されることになっている。それに加えて、学期末に、30ページものリポートを全ての授業で提出しなければならないのだ。

▼授業では、とにかく、発言を続けるしかないので、常に手をあげて、発言を繰り返す。たまに、教授の質問を勘違いして、的はずれの発言をしたこともないわけではないが、それでもとにか参加するように心がけた。発言することによって、何かを学んでいる実感も身に付く。所詮は、将来、国際紛争の現場で仕事をするための訓練だと自分に言い聞かせ、たとえたどたどしい時があっても、自分の意見を理解してもらうよう、努力するしかないと腹を括った。

▼それは、おそらく自分の息子、大誠にとっても同じだったろう。9月10日に、正式に学校が決まり、13日から通学が始まった。学校までは、同じ学校に子供を通わせる、中国人のNさんが、車に同乗させてくれることになった。これは本当に助かった。最初の日、学校の入り口まで、自分が見送った。学校が始まることをつげるベルが鳴った瞬間、不安と覚悟の混じった目で僕をじっと見た、大誠の目を私は忘れることはないだろう。全く英語が分からない息子が、日本語の分かる人が一人もいないクラスに飛び込む不安は、想像を絶している。でも、子供は、クラスに向かっていった。中国人のNさんは私に向かってこう言った。「大丈夫。大誠には、勇気がある。彼の目を見れば分かる。信じていい。」自分も彼の勇気を信じるしかなかった。

▼学校が始まって数日、「学校、楽しい?」と聞くと、下を向いてうつむきながら、「楽しい」とだけ答える。決して楽しそうではなかった。日本で5年間通った、保育園での出来事を聞いた時は、いつも元気に、何をしたのかを語ってくれた。しかし、カナダの学校で何をしたのか、語ることは難しかったのだと思う。とにかく、一日中、分からない言語の前でたたずまなければならないのだ。

▼それでも息子は、一度たりとも「学校に行きたくない」とは言わなかった。朝、必ず鞄をしょいっと背負い、学校に行く意志を示した。たまに、日本の保育園での仲間について話をしたが、だからといって、日本に帰りたいとは言わなかった。彼が盛んに言うのは、「僕、英語、分からないよ」という、いわば当然のことだった。

▼自分にできるのは、精神的に励まし続けることでしかなかった。そして、自分も同じ苦しさを味わっていると語り続けた。「パパも、本当に英語で、苦労していて、大変なんだよ。でも一生懸命努力しているんだ。心配しなくても、大丈夫。たいちゃんは、すぐ上手になるから。英語も分かるようになるし、話せるようにもなる。絶対大丈夫だから安心して。」と言い続けた。

▼次第に学校でも友人が増え、つきあいも始まったが、逆に、意志の疎通がうまく行かない中で、他の子供とけんかしてしまい、学校から私たちが呼び出されたこともあった。Nさんの息子の話では、先方がさきにちょっかいをだし始めて、息子がやり返したということだが、真相は分からない。でも、カナダでは、「暴力は絶対に許さない」という方針の下、たとえ子供のけんかであっても、厳しく注意し、親にも指導を求める。

▼日本の保育園では、比較的、激しいけんかについても、認める雰囲気があったし、自分も、「小さいうちに、体と体でぶつかっていたほうが、大きくなった時に、返って制御心が身に付く」と思い、あまり深刻には考えなかった。実際、息子たちもかなり激しくぶつかりながら、翌日はきょろっとして、仲間づきあいをしていたものだった。しかし、カナダの先生が、「暴力絶対禁止」の方針で指導している以上、従わざるおえないと思った。息子が、けんかの直前、からかわれていた事実や、ある子供が、息子と遊ぶのをいつも避けていることに、息子が腹を立てているという事実を担
任の先生に伝えると、担任は、「遊んで欲しい時には、Can I play with you と言うことを、息子にも覚えさせて下さい。ここでは暴力は絶対禁止です」と言い、けんかの原因については、あまり関心を示さなかった。
▼多少、理不尽も感じたが、しかし、英語圏で生きていく以上、息子もその作法を遅かれ早かれ学ばなければならないだろう。息子に、暴力はいけない、遊びたいときには、言葉で伝え、要求しなければいけない、と丹念に話すと、そのことは分かってくれたようだった。しかし、意志を伝えることは、そんなにたやすいことではない。私も、せっかく明るく育った子供の心が、落ち込むことを恐れていた。

▼しかし、子供の順応能力は、やはり信じられないくらい高かった。一ヶ月もすると、朝、学校に一緒に行くと、授業が始まるまで、外で、他の子供たちと大声をあげながら、遊ぶようになった。遊ぶ際に使う英語は、全部、覚えている。多少、文法がおかしくても、他の子供たちも独特の直感で理解してくれているようだった。

▼息子は、カナダに来る前から、書く力が弱く、その点は、こちらでも苦闘している。担任からも、毎日、名前をアルファベットで5回書くことから始め、とにかく書けるようにならないとまずいと、再三言われた。妻もつきそい、家では書く勉強に専念することになった。一方で、聞く方や、話す方は、担任も驚くほど、早く上達した。やはり、毎日、6時間、英語を聞き続けているだけのことはあるのだ。

▼はじめはちょっかいを出され、けんかの対象になった、L君とも、一番の仲良しになり、いつも一緒に遊んでいると話してくれるようになった。また、同じクラスの子供だけでなく、1つか2つ上の、学年のクラスの子供からもかわいがられて、昼休みには遊んでいると、Nさんの子供からも教えてもらった。10月には、クラスメートの誕生日会に呼ばれ、息子はプレゼントを携え、大喜びで参加していった。返ってきた息子は、「楽しかった」と、本物の笑顔で話してくれた。

▼イースターのお祭り。クリスマス会。学校での催しものにいくと、子供が、背伸びをして、私たち夫婦がいることを確かめてくれる。12月のクリスマス会の後は、息子が、すれ違う子供、先生、みんなの名前を覚えていて、「グッパイ、○○先生、○○君、」と大声で挨拶しているのには、びっくりした。子供たちも、みんな「たいせい、たいせい」と言って、話しかけてきてくれる。とにかく、息子の、明るく、みんなに話しかける性格は、ここでも得している。
▼12月、最寄りの小学校から連絡があり、1月から、そちらの小学校に通えることになった。折角のクラスメートと別れるのも寂しいが、致し方ない。来年の9月には、いずれ変わらざるを得ない以上、1月に転校した方がいいと私も妻も判断した。きっと大誠なら、新しい学校でもやっていけると信じている。
▼そんな先月の終わり、日本の保育園のクラスメート全員から、クリスマスカードがカナダに送られてきた。みんなで、相談して、一人一人カードを作って、まとめてカナダに送ってくれたのだ。保育園の最終学年である彼ら、彼女らは、随分、字もうまくなった。5年以上、一緒に過ごした彼らは、自分にとっても、顔なじみの子供たちである。息子のクラスは、親同士で、しょっちゅう一緒に旅行にいくぐらい仲がよかった。出発前には、大きな送別会も開いてくれた。子供は、カードに書かれた一人一人の名前を読みながら、歓喜していた。私も感激してしまった。妻が、全てのカードをリビングの壁に飾ってくれる。そして妻が、カナダの友人と息子が遊んでいる写真と、息子がサンタと写っている写真を組み合わせてカードを作り、そこに息子が、最近書けるようになった、「Taisei 」という文字を書いて、返事を出すことになった。

▼それを見ながら私は、「生活をする場所が変われば、当然、別れがあって、出会いがあるけど、別れた後も、そこでの友人とつきあいを続けていけるのであれば、友人はどんどん増えるんだな。場所が変わるたびに、友人と断絶してしまえば、寂しい人生になるだろう。逆に、場所が変わるたびに、友人が増えるような人生を送ることができれば、その人は幸せだろう。自分もそうありたいし、息子にもそんな人生を送って欲しい」と思った。私が、このサイトに向けて、手紙を書き続けている理由も、きっと同じことだろう。

         ☆☆☆☆ 「夢の誠文堂」店主より東君へ ☆☆☆

▼待ちに待った東君からの「カナダからの便り」が届いた。これを今年最初に店の棚に並べよう。
2005年は幸先のいいスタートがきれた。
 ▼昨年の末、ニューヨークからうれしい知らせが届いた。毎年、国連をテーマにした世界各地のあらゆる報道の中で優れたものに世界国連記者総会が送る賞に、昨年4月に放送したNHKスペシャル「イラク復興 国連の苦闘」が選ばれた。国連本部を取材した日本のテレビとしては、初の快挙である。
 ▼この番組を取材・構成したのが東大作である。国連バグダッド支部爆破という惨劇を乗り越えて、残された者達が再びバグダッドに立ち活動を始めるまでの国際社会の紆余曲折を詳細に描いた壮大なドキュメンタリーである。国連本部に単独乗り込んだ東は毎日、記者会見に通い挙手をし質問をし注目を浴びた。そしてそれをバネに、アナン事務総長やブラヒミ特使を始め、ブレンダガスト政治局長、ペレリ選挙支援部長、更には、米独仏など各国の国連大使を密着取材した。
 ▼東は不思議なディレクターである。あれだけ、しっかりとした視座の上に立ち取材し映像化する能力を持ちながら、「僕は映像センスがないんです。」と決まって口にし、本当に劣等感らしきものを持っているようで絵作りの話になるとシュンとしてしまう。彼は剛速球を投げながら突き進む取材者である。彼には小賢しい絵づくりなど些細なことでいいのに、と可笑しくもあり苛立ちもした。今回の「カナダからの便り」の中でも、彼は私の小手先の文章について引け目を感じる様子を見せながら、「私にできることは、夢だけを頼りに、日本を飛び出した人間が経験した、挫折や出会いを、正直に伝え、何か新しいことを始めようと考えている人にとって何らかの参考にしてもらうことしかないと信じ、今後も書き続けたい。」と体得者、取材者としての自分の存在意義を確認している。その直球の生き様が「いまここに」息づいていることに私はいつも勇気づけられる。
 ▼「イラク復興 国連の苦闘」について、企画が動き出すまで彼を支援したが、実際の制作作業は後輩のプロデユーサーにまかせるつもりでいた。老兵はつねにいかに若手を育てるかと問われる。そんな空気を察知し、現場から距離を置き始めると、あっという間に行政職のカオスに巻き込まれてしまう。毎日おこなわれる最終試写、現場にとって老兵は最終的な判子を押す関所の門番でしかない。そんなひねた思いでいる時、東君がこう申し出た。「ここまで企画をいっしょに育ててきたので、最後まで一緒にやってください。僕は絵づくりが下手なので、先輩が必要です。編集室でもつきあってください。」 なにを甘いことを云っているのか、という組織の声もあるだろうが、正直、この時はうれしかった。ディレクターから「君をプロデユーサーとして必要とする。」と指名されたのだ。しかも東のことだから社交辞令など云わない。本当に私を彼は必要としたのだ。久しぶりに自分が認められた気持ちになった。年功序列ではない世界で生きている気持ちにさせてもらった。
 ▼彼の言葉を受け、後輩プロデユーサーの寛大な態度に甘えて、最後まで事細かく、東君とともにテーマに取り組んだ。
 「絵づくりのセンスがない。」と東君は言うが、編集作業の中で、彼は私をはっとさせる編集を見せてくれた。彼の番組はいつもそうだが、最後はバタバタと差し替え作業に追われる。追いかけているテーマが激しく動いているものばかりで、作り終えても、放送日直前に大きなニュースが舞い込みそれを取り込まなければおられなくなるのだ。この番組もそうだった。数日前、国連のブラヒミ特使が再びバグダッドに入り、イラク復興についての重大発言をした。「これだ。」急遽、その記者会見の場面を挿入することになった。その時の彼が見せた編集は忘れられない。
 ▼記者団に対して、ブラヒミは英語でイラク復興の道筋を披露した。このシーンで情報は充分であった。次に直近のバグダッドの遠景を繋ぎ込み、そこからエンディングのナレーションに入っていく。これが常道だろう。ところは東は違った。カットが変わる。同じサイズでブラヒミの顔がつながる。一点違うのは彼の目線だ。前のカットでやや右を向かっていた目線が、今度は左に向かっている。ブラヒミがしゃべりだした。それを聞いて東の思いが弾丸となって伝わった。グラヒミはアラビア語でしゃべりはじめた。欧米の記者団からアラビア語圏の記者団に直接語りはじめたのだ。これこそ、米軍による統治に決定的に欠けているものだった。東はそのブラヒミ特使のメッセージを見逃さなかった。
▼センスや才能や運命はたいした問題じゃない。ただ今をがむしゃらに駆け抜ければいいじゃないか。そうしていると、たまには「センスあるね。」
「才能豊かだね。」「運がいいね。」といわれる瞬間があるかもしれないけど、そんな気まぐれな声はすぐに消える。たいした問題じゃない。ただ今をがむしゃらに駆け抜ければいいじゃないか。君の切り開く人生の一コマ一コマがいつもそう云って僕を励ましてくれる。君とこれからも併走できるよう、こちらもがむしゃらを失いません。
▼大晦日に21年ぶりの雪が降りましたが、東京の正月は穏やかです。道端ではジンチョウゲの蕾が膨らんでいます。まもなく心地よい香りを風にのせてくれるでしょう。ジンチョウゲの花言葉は「永遠」。様々な思いを込めて、2005年の原野に立つ君に贈ります。

 ※東大作 取材・構成の「イラク復興 国連の苦闘」をごらんになりたい方、ビデオをお貸しします。「夢の誠文堂店主」までメールください。(seibundo@shinyama.com )

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 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡

    ◇「(夢の誠文堂店主から一言)2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり」

    ◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」

    ◇「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
 
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                      2005年1月1日