オークの樹の下で
東大作  カナダからの便り(4) 「出会い」 
          2005年2月6日

▼去年9月に学校が始まって、私にとって最初の行事が、自分の企画:制作した国連の番組の発表会であった。(以後、重複を避けるため「自分の番組」と省略します)。きっかけは、日本の政治を研究しているY助教授が、ヨーロッパスタデイの学部長である女性のS氏に自分を紹介してくれたことから始まった。
▼Y助教授は、30代半ばで私と同じ年である。フランス人で、元々商社マンとして日本でも長く勤務していたが、「自分にはもっと大事なことがあるはず」と考え、20代最後で、アメリカのスタンフォードで妻と一緒に留学を始めた。本籍は、UBCの助教授だが、今は、2年間の契約でハーバードで研究生活を送っている。アカデミックな世界に移った年齢は異なるものの、同じような道を辿ってきた分、私の会社を辞め、新たなチャレンジを始めるという決断に共感してくれた。その後、一貫して、私のここでの勉強を、支えてくれている。その詳細は、また、次回以降、書きたい。

ヨーロッパスタデイのS学部長も、随分、私の経歴を面白がってくれ、7月の段階で「9月にアンドリュー・ズーマという、国連を長年追いかけている有名なドイツのジャーナリストを、一ヶ月間の特別講師として呼ぶことになっているので、そのときに、あなたの番組も上映する機会を作ろう」と言ってくれた。その後、とんとん拍子に、話はすすみ、私が9月に授業を受け始めた時には、ウエブサイトや、Eメール、大学の一連の行事の回覧版などで、自分の国連の番組を上映してくれるという情報が随分出回っていた。
一介のMAの学生として留学を始めたものの、このように自分の番組を遇してくれることは正直言って、それほど悪い気持ちではなかった。なんとなく勇気を与えてくれた気もする。私は、UBCの政治学科に在籍し、ヨーロッパスタデイとは直接の関係がないにもかかわらず、機会を作ってくれたS学部長にとかく感謝した。
9月中旬に、ドイツから、アンドリュー・ズーマ氏が、やってきた。国連記者協会の栄えある金賞にも輝いたことのある、生粋の国連専門記者である。20年以上に渡って、国際紛争の第一線で国連や当事者の動きを追ってきた。第一次湾岸戦争から、ボスニア、コソボ紛争、旧ユーゴスラビアでの戦争犯罪法廷、そしてイラク戦争直前のアメリカと国連の情報戦争まで、徹底してカバーしてきた。現場の最前線で捕らえた情報と、長年の経験に裏打ちされた分析で、BBCラジオでのリポートを始め、ドイツの主要紙で、切れ味鋭い論説を展開している。UBCには、一ヶ月の予定で滞在し、各種のテーマについて、順次講演を行うことになっていた。
彼に事前に私の国連の番組を見てもらい、夜ご飯を、彼の泊まっている大学の寮の食堂で一緒にすることになった。国連を長年追いかけている人だけに、内容について、けなされるのではないかと、内心びくびくしていた。しかし、彼に会って最初の第一声は「おめでとう。素晴らしい番組だ」というものだった。「私は、イラク戦争後のアメリカと国連が真っ向から向き合ったこの決定的な時期を、これほど詳細に描いた番組やリポートを、新聞や雑誌も含めた見たことがない」と言ってくれた。
実際、自分もこの番組については多少の自負があった。内幕をここまで取材できたものもこれまであまりなかっただろうし、殆ど全ての主要当事者へのインタビューに成功していた。タイミングも、アメリカがイラク復興を国連主導に転換すると記者会見した翌日の放送で、誠文堂の店主とは「これは殆ど奇蹟に近い。僕らが作ったというより、時代が送り出してくれた番組ですね」と話しあい妙に納得したものだった。視聴率も12%近く、私の企画した番組の中でも高い視聴率だった。しかし、日本でのテレビ業界紙などでは、ほとんど無視されていた。NHKは、番組を日本ジャーナリスト協会の選考会にも出してくれたが、全く目にとまらなかったようだった。しかし、長く国連を取材したズーマ氏が、その情報量の多さと構成の質の高さを認めてくれたことは嬉しかった。
なぜジャーナリストの仕事をやめたのかと、不思議そうに聞かれたが、私の将来の希望や、現場にいつまでもいたかったという私の気持ちを伝えると、すぐ納得してくれた。彼もまた、生涯一記者として、現場に居続けるつもりなのだ。
▼その彼に逆に、「国連の将来についてどう思うか」と聞いた。将来、国連で働くことを希望して出てきた私としては、一番の関心事だ。彼の答えは非常に具体的だった。「私は、それほど楽観していない。ブッシュ政権がはっきり示しているように、アメリカが、国連を重視することは、非常に難しいだろう。ただそれ以上に、決定的なのは、国連が「アメリカの先制攻撃論」を是認するかどうかだ。もし、アメリカがイラク戦争を開始する際にふりかざした「先制攻撃(preemptive attack)」を国連が是認したら、国連の正当性(legitimacy)は、根底から崩れる可能性がある」と彼は警告した。
基本的に、国連憲章は、自衛のための戦争は認めているものの、「危険がある」という理由だけで、他国を侵略することを認めていない。国連は、アメリカのアフガニスタンへの攻撃を容認したと一般に言われているが、それは、9.11の対米テロ(同時多発テロ)に対する、アメリカの「自衛としてのアフガン攻撃」を、安全保障理事会が認めたという解釈に基づいている。その点、イラク戦争は、国際法の観点からも全く別の意味を持っている。アメリカはまさに、国連の根幹ともいえる武力の行使の基準を変えようとしているのだ。

国連が、先制攻撃を認めることになったら、なぜ国連が正当性を失うことにつながるのか。それは、先制攻撃を認めれば、基本的にあらゆる武力の行使を認めざるを得なくなるからだろう。インドがパキスタンに攻撃することも、日本が北朝鮮を先制攻撃することも、(逆に北朝鮮が日本を攻撃することも)、全て、言いようによっては合法化されることになる。アナン事務総長が、イラク戦争直後の2003年の国連総会で、「先制攻撃論は、まがりなりにも第二次世界大戦以降の平和の礎になってきた国連憲章の精神に対する根本的な挑戦である」と強く警告したのも、まさにこのためだと私は考えていたし、ズーマ氏の考えも、また同じであった。
▼番組を上映した上で、この点について強調することと、アメリカが戦争には勝ち得ても、平和を勝ち取ることはできなかった点を議論することを確認しあい、ズーマ氏と別れた。大学に来て数週間で、お互いに価値観を共有する人と出会うことができたことに、幸運を感じた。彼に、番組を国連記者協会のコンクールに出しているという話をすると、「あれはすごいんだ。僕は97年に金賞を受賞したけど、オスカーとかからも審査員がきて決定する、世界でも大きな賞なんだよ。僕の場合、受賞の直前に突然連絡が来て慌てて準備したものだった。君の番組も取る可能性が高いよ。準備しとかなきゃ」と言ってほほえんだ。私は、彼の言葉に感謝しつつ、そんなことはあり得ないと内心思っていた。

ちょうどその後、NHKから、仲間のデイレクターの番組に関する朗報が届いた。上映会の二日前。まだ私のNHKのメールアドレスは生きていて、通常の業務に関する連絡が、カナダまで届いていた。部長からのメールには、「マリナ」というNHKスペシャルが、イタリア賞の特別賞をとったというメールが入っていた。なんと数十年ぶりに、世界的で最も権威のある賞に輝いたのである。制作したのは、自分も長くお世話になったFプロデユーサーと、Nデイレクターだった。

▼Nデイレクターは、自分より1つ年下だが、入局以来そのドキュメンタリーを作るセンスのずば抜けた高さと、取材対象者に密着し、取材対象者から愛される天性の資質で、早くから「天才」という呼び声が高かった。ADSLと向き合う夫婦の壮絶な闘いを描いた番組から、オリンピックの金メダルに輝いたスポーツ選手の完全密着ドキュメント、そして、精神病院の裏側を見事に描ききった内部ルポにいたるまで、そのジャンルは幅広いが、決して名声におごることなく、1つ1つの番組で、彼なりに見いだした対象者が生み出す価値をきちっと映像化し、テレビを通じて届けてくれる希有な存在だった。前出のマリナは、アフガニスタンの映画監督が、アメリカのアフガニスタン侵攻を経て、戦後復興を始めた故国で、マリアという少女を主人公に映画を撮る過程を、克明に描いたドキュメンタリーである。番組が終わった瞬間、私もしばらく涙があふれてとまらなかった記憶がある。壮絶でかつ、少女に対する優しい目線に満ちた番組だった。

いつしか、ひたすら事実を追いかける自分と、テレビの持つ力を最大限引き出す彼を、車の両輪として、称してくれる人がいたりしたが、私はいつも、彼が企画:制作する番組が持つ、人のハートを打つ力に圧倒されていた。そんな自分に対して、Nデイレクターは、私たちの年代の憧れの女性デイレクターであるM氏と一緒に、暖かい歓送会を開いてくれた。私が、一区切りついた思いで、カナダに出発できたのも、歓送会で多くの人に会えた事が大きく、感謝の気持ちで一杯だった。
その彼が、世界に冠たる賞を受賞した。心から嬉しく思うと同時に、大学で上映してくれるといだけで、気分が高まっていた自分との距離の大きさを実感してしまった。何千人という人の前で行われるであろうNデイレクターのイタリアでの授賞式における挨拶を思うと、自分が感じていた高揚感がなんだか情けなくなってしまった。ちっぽけな存在になったことを今更ながら実感せざるを得なかった。

9月22日、大学が持つ多くの寮の1つ、グリーンカレッジという寮の一角にある、小さな公会堂で、夜7時半に、上映会は始まった。大学に移るにあたって大変世話になり、常に具体的で建設的な意見をいってくれるP教授も来てくれた。また、授業を一緒に受けている、同じ大学院生の仲間も多く参加してくれた。私は妻と子供を連れて、参加した。会場のまわりには、私の名前とズーマ氏の名前が大きく張り出され、会のことが宣伝してあった。そうした大学側の宣伝のおかげもあり、会場には120くらいの席があったが、立ち見が出るほど人が集まってくれた。学生が半分くらいだが、半分くらいは大学の教授の人たちだった。

会は、ズーマ氏による番組の紹介から始まった。上映が始まって一番びっくりしたのは、番組の中で、3回ブッシュ大統領が出てくるが、その度に、会場から大きな笑い声が起こることだった。カナダ市民の間では、ブッシュ大統領は完全にピエロなのだ。しかし、車で一時間もいったところに国境線があるアメリカでは、多数派の支持を受けている。ここに、今の世界の切実さが凝縮されている。

番組が終わり、割れるような拍手の中、挨拶台に向かった。なぜ番組を企画したのか、何を日本人に伝えたかったのか、そしてなぜ今、ここに大学院生としているのか、未だつたない英語で話をしたが、終わった時の暖かい拍手はやはり胸にしみた。

▼その後、討論会になったが、2ヶ月後に迫ったアメリカの大統領選挙と国連の機能についての話題で盛り上がった。カナダ人の一人は、「ブッシュを笑っている場合じゃない。また再選されるかも知れないんだ。どうしたらいいか、我々カナダ人も本気で考えなきゃいけない」と力説した。他の聴衆は、番組が描いたアメリカの失敗と国連の再生とは裏腹に、国連はこれからどんどん衰退するのではという悲観的な声も出された。私は「その可能性は決して否定できません。一方で、私たちは長い歴史的な視点で、事態を見る必要もあります。ベトナム戦争の時、アメリカは一度たりとも、自らの武力行使の問題を国連に問うたことはありませんでした。今回、国連がアメリカの武力行使を是認しなかったこと、そしてアメリカが、戦後復興で苦しみ続け、結局最後には、国連の力を利用せざるを得なかったことは、長い意味で、アメリカの単独主義の限界を示し、国連の必要性を再考させる可能性も、また否定できないと思います。」と話した。

会は全部で2時間ほど続き、充実した議論と共に終えることができた。討論会をリードしてくれたズーマ氏にも、心から感謝した。なんとなく妻が、私の話を一生懸命聞いてくれているのが嬉しかった。来てくれた同級生たちへの挨拶を終え、家路につくとき、もう子供はぐっすり眠っていた。彼を抱え、3人で帰宅した。「栄誉や経歴とは関係なくても、やはりこうした機会を与えてくれた人たちに心から感謝しなきゃいけない。その恩に報いるよう、ちゃんと生活しなきゃいけない」と強く思った。これからの人生は、更に、地道で、人から振り向かれることも少ない人生になる可能性が高い。でも、自らの目標に向かい続けていくより他に、生きていく道もないと、改めて実感した。

▼しかし、こうした感傷にひたれたのもこの日までだった。この後、私はアカデミックな世界の現実に、真っ向からぶつかることになる。そして、この日を前後に、NHKにおけるメールアドレスも消え、もう業務連絡はこなくなった。なんとなく凧の糸が切れた凧になった気分だった。やはり、日本人にとって組織を離れることは怖いことだ。


         ☆☆☆☆ 「夢の誠文堂」店主より☆☆☆

▼東が去った職場は今、激しい批判の嵐に晒されている。団地の近くのテニスコートに行くと「ねえねえ、契約をやめるのにはどうしたらいいの。」「あなたは会長派、どっち?」などからかい半分の言葉を投げかけられる。つらいなあ、と思う。組織に残りながらも、東と同じように「糸が切れた凧になった気分」になっているのは私だけではないだろう。
▼「東はどこに行っても東だな。」 送られてきた便りを読みながら改めてそう思う。がむしゃらに何かを追い求めていなければ収まりがつかないやっかいな情念の中で気ぜわしく走っているのが、私の知っているテレビ制作集団の仲間達の性だ。この習性が消えない限り、私たちは東と見えない凧の糸でつながっている。そう思いたい。
▼東君、きょう、まもなく定年を迎えるH先輩と静かに話す時間がありました。組織がこんなことになっている中、「組織のために、今、僕にできることは何なのか。一生懸命考えている。」H先輩の言葉はシンプルでしたがその気持ちがまっすぐに伝わってきました。君からの便りを糧に、こちらも、今、自分にできることは何なのか、一生懸命考えていきたいと思います。

 ※東大作 取材・構成の「イラク復興 国連の苦闘」をごらんになりたい方、個人的に録画したビデオをお貸しします。「夢の誠文堂店主」までメールください。(seibundo@shinyama.com )

 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡

    ◇「2004年7月19日(夢の誠文堂店主から一言) 曇天に咲く孤高のひまわり」

    ◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」

    ◇「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
 

                      2005年2月6日