東大作      オークの樹の下で
     カナダからの便りD 「 壁」 
          2005年3月6日

             ☆☆☆便りを紹介する前に、店主から一言 ☆☆☆
 カナダに移り住んだ東君の便りを心待ちにしているのは私一人ではないようだ。回を重ねるごとに、アクセスする人々が増えている。いろんな人が彼の奮闘に勇気づけられているのだろう。
 今回、東君から送られてきた便りでなにより感じ入ったのは、添付された写真である。初雪の瞬間から東邸が雪景色に包まれるまでの連続写真には、初めて雪の中で過ごす家族の感慨が込められている。この便りの題名のオークの樹もその白い葉脈に縁取られ、くっきりと存在を示している。雪の中、カメラを持って外に出た心のゆとりが何よりうれしい。美しい雪景色とともに便りが紡がれてゆく・・・・・・☆☆☆
      
        <写真> 初雪

▼9月から授業が始まり最初にぶつかった壁が、リサーチプロポーザルであった。いわゆる研究企画書である。私の所属するUBC(ブリテッシュコロンビア大学)では、9月に、来年9月からの奨学金を与える学生を決めるための選考を始める。奨学金を
欲しい学生は、この時期から一年後に向けて申し込みをしなければならない。
▼授業が始まってまだ2週間ぐらいで、とてもそんな余裕はないのだが、「いい練習でもあるので、是非申し込んだ方がよい」という先輩の薦めもあって、申し込むことにした。私の学部は、最短で1年でMAを修了でき、早い人は、一年でPhDに進んで
しまう。私も最初そのつもりだった。そのため、2004年9月の段階で、2005年9月以降の、PhDの学生としての研究企画書を書くはめになった。 <写真>東家の前のオークの樹
    
▼国際政治の理論はまだ全く知らなかったが、とにかくこれまで国際紛争の現場で取材した経験や、国連の平和構築についての関心をきちっとまとめればなんとかなるのではと考え、2ページの企画書を書いた。その年、国連本部で、イラク戦争と復興に関する殆どの主要当事者にインタビューしたこと。今後も、そうした人たちへの取材を続けることができる可能性が高いこと。そのほか、世界的に重要な人物への独占的な取材、調査ができそうなことなどを明記し、国連が国際平和に果たす役割と限界について、事務総長の役割のこの10年間の変化を中心に、調査したいという趣旨だった。添削してくれたカナダ人も「非常にみんなの関心の高いテーマで、是非貫徹して欲しい」と褒めてくれていた。最初の指導教官である教授にも見てもらい、OKをもらったので学部に提出した。す
ると、政治学部の学部長から会いたいというメールがあった。
▼学部長に会うのは初めてなので、どんなコメントをもらえるか楽しみだった。すると会って最初の第一声が
「とても話にならない。まともな企画書になるには、ロングロングウエイだ(長い長い道のりだ)」というものだった。「事務総長の権限の変化に関心があるようだがそれは本人に、インタビューすれば、全て分かってしまう。それ以上の発見はないじゃないか」とも言われた。「理論的な枠組みがない」とも断罪された。
      <写真> もみの木
▼理論を言われても、まだ勉強を始めて2週間でそれを求められても無理だと、内心思ったが、それ以上に、自分の取材計画自体が、意味がないと言われたことは正直ショックだった。メデイアに居たときは、そうした人物に接触できるかどうかが、企画を判断する際の重要な基準だったからだ。
▼とにかく書き直さないと話にならないと言われ、必死に二日間かけて書き直し、とりあえずそのときの指導教官の所に持っていった。指導教官は、今思えば、自分の企画書の問題点は知った上で、それを直すことが、その時期の自分には殆ど不可能なこと
も分かっていたのだと思う。ある程度、体裁を整えることはしながら、それ以上の無理は言わなかったのは、彼の思いやりだった。とにかく、まだ学校で学び始めて、2週間なのだ。                   <写真> 雪景色 晴れた日の早朝
▼書き直した企画書と、これまでの経歴などを書いた申込書、そして自分をよく知ってくれている教授に推薦状を頼んで、とにかく出した。二日後、学部長からメールが来た。「企画書としてとても競争力があると思えないので、中央の選考委員会には送りません。」要は学部で申し込みを却下するということだった。おまけにその最後に、「これは、あなたがPhDで勉強するまでに、相当勉強しないといけないことを示しています。」とまで書かれていた。殆ど馬鹿にされている感じだった。正直言ってこの学部長は、生徒に対して厳しいことで有名な人物だと後で聞いた。ただ、入って2週間の学生に対して、随分、冷たい態度をとるんだなと思った。また、自分の経験がここでは全く評価されない現実も思い知らされた。アカデミックな世界のこれは最初のリアクションだった。
▼次にぶちあたった壁は、小論文だった。三つとっていたコースの1つは、B指導教官の、アジアの安全保障についてのコースだった。最初に書いた小論文は、アジアの一国を選んで、その戦略的文化について述べるものだった。私は、北朝鮮の核問題の番組で取材経験のある韓国を選び、その戦略的文化について論功した。例によって、ネイテイブチェックも受け、自分なりに万全を期したつもりだった。しかし帰ってきた点数は、非常に厳しいものだった。PhDに入るために必要だと言われている基準点があるが、これはそれに届かないものだった。
▼英語の論文の書き方は、独特なものである。しかし自分は何も分からず、とりあえず大学生用に書かれて参考書を参考にして、見よう見まねで書かざるを得なかった。しかし、こちらの学生は、徹底してその書き方について、大学で習ってから大学院に来る。その差を思い知らされた。「これはやばいかも知れない」と本気で思った。「来年には日本に帰らないといけないかも」「そのときは、家族はどうなるのか。日本で仕事が見つかるのか」など、いろんなことが頭をよぎった。
▼しかし、どんな取材でも仕事でも、最初の2ヶ月目で、大きな山場や挫折を迎えるというのが、私が10年間ドキュメンタリーの仕事をした際に感じていたことだった。そこで踏ん張れるかどうかが、企画の是非を決めるというのが、信念だった。今回、同じように踏ん張れるかどうかは分からないが、とにかくやってみるしかないと思った。恥も外聞も投げ捨てて、教官の下に通い、自分を向上させるべく努力するしかないと考えた。逆にそう考えるしかなかった。

▼私にとって幸いだったのは、日本の政治を研究していてUBCの助教授であるY氏の指導を仰げたことである。Y氏は、今、2年間の契約でハーバードで、研究生活をおくっているが、私の実績と、決断に同情してくれて、日頃から色々と親切にしてくれていた。その彼に、点数のつけられた小論文を送り、指導を仰いだ。彼もフランス人で、日本で商社マンとして働いた後に、アメリカのアカデミックな世界に入った人間で、やはり最初の論文で、悪い成績を取って、大きなショックを受けたという経験を持っていた。

▼Y氏はまずメールで、アメリカやカナダの小論文では何が評価の基準になるのか、そのためには、何をどう書かなければならないのかを、丁寧に書いて送ってくれた。これが、自分にとって教科書になった。英語の小論文では、最初のイントロダクションが、決定的に重要なこと。最初の段落では、論功する質問が、なぜ重要なのかを書き、次の段落で、自らの主張、(理論、論考、Argument)をパワフルに、そして質問に直接答える形で書き上げること。そして次の段落で、それから述べる論理展開の順番について明記すること。

▼採点の基準は、1)質問に対する答えがちゃんとなされているのか 2)最初の10行で、独自の答えが明記されているか 3)その後の論考で、最初の10行の考えが、きちっと証明されているか。などであること。小論文を書く際の、英語での提示の仕方も含めて、丁寧に教えてくれた。

▼それを全く模倣して、次の小論文を書いた。3点あがり、なんとか基準点を突破していた。そのころY教授がUBCに1週間の予定で帰ってきてくれた。そこでさらに3時間ほど、丁寧に勉強の仕方について教えてくれた。私の企画書の問題点や、なぜそれが政治学科では認められないかなども、説明してくれた。アカデミックな世界では、理論を扱うことで、ジャーナリストと差別化を図ろうとする傾向があること、理論的な枠組みがないと、この世界では通用しないこと、等々、現実の世界からこの世界に来た彼ならではの実直な話を聞かせてくれた。

▼そして、授業に望むにあたって「全部読むな」と力説された。1つの授業にあたって、何百ページと読むことを強制される。全て読むことなど不可能だと、彼はいう。彼も、大学院時代、「最初のイントロと、理論的な枠組みの部分、そして結論部分を読むんだ。あとは、必要そうなところだけ拾い読むする」「むしろ、読み過ぎるより、限定的でも読んだところを、書いてまとめた方がいい。そして、質問と意見を用意する。その方がずっと教授は評価する」「自分もその方法で、ずっとプリンストンでトップだった」と彼はいった。「大作。お前の経歴はすごい。今までこんな大学院生に会ったことはない。でも、ここに来た以上、ここでいい成績を取るしか認められる方法はないんだ。それが唯一、君に自尊心を与えるんだ。」「でも逆にここでちゃんと理論を学ぶことができたら、君の経験やコンタクトですごい研究ができるはずだよ。僕も是非一緒にやりたい」と励まされた。彼は私と同年齢であり、先生と生徒であると同時に、親友として、私を励ましてくれたのだと思う。

▼その日、自分は予習に追われ、3時間しか寝ていなかった。彼はそれも叱った。「寝ないと駄目だ。寝ないと、とても長続きしない。僕は大学院生に8時間は最低寝るように言っている。週に一度は休んで、8時間寝ないととても耐えられない」と言われた。

▼実際に週に一度休むことは、とても無理だったが、休養を取るべきだという彼の話には助けられた。それ以上に、膨大な量のリーデイングを読まなくてよいと言われたことは大きく救われた。「議論を理解して、発言できるようにしておけばいいんだ。それが後に自分の研究をする時にためになる」と力説された。

▼あの時、彼に会えたことは決定的だったような気がする。人によって傷つけられたり、挫折したりするが、所詮、人が救われるのもまた人によってなのだ。

▼本当に苦しかったあのころ、日本人にも随分救われた。当時、自分は、一年でMAを終わらせるつもりだったので、そうすると一番授業の苦しい11月頃、他の大学のPhDの申し込みもしなければならなかったり、そのための共通一次のような試験を受けないといけない、という現実があった。それを考えると、授業だけでも大変なのに、どうすればいいんだと、精神的に追いつめられた。高校の時の恩師で、野球部の顧問だった先生に電話で相談した。私は、高校時代、軟式野球のキャッチャーで主将を務めており、顧問の指導のもと、関東大会で優勝した。途中、何度も何度も負けそうになりながら、逆転逆転で、最後までいき、野球人生を終えたこと(軟式高校野球
は、春の関東大会で終わりになる。)は、その後、いろんなことに挑戦する上では、良しにつけ悪しきにつけ、大きかったような気がする。その後も、S顧問には、様々な人生の局面で助言をもらっている。
▼そのS顧問に、いろんなことが一度に迫ってきて、しかも、勉強でもなかなかよい成績がとれないと言うと、いきなり叱られてしまった。「駄目だ、そんなに最初から、何でもやろうとしたら。潰れてしまうぞ。」 「まず最初の一年は、英語に慣れる。海外に慣れる、っていうことを優先しなきゃ。
いきなり何でもこなそうとして、体でも壊したら、それこそ目も当てられないぜ。」「大体、海外で生活して成功している人って、本なんか読んでも、『まあ最後はなんとななるさ』という人が、うまくいっているんじゃないか。なんでも自分の思うようにいくと思ったら、失敗する。まず、慣れる事から始めなきゃ。2週間に一度は、家族とも遊んだり、どこかに行ったりしなきゃ。そうしないと君も持たないよ」と言われた。本当にそうだと思った。このウエブサイトの存在を教え、誠文堂の店主の文章も含め読んでもらったところ、S顧問からメールが来た。「君はいろんな理解者に恵まれた幸せものですね。」

▼5年以上に渡って取材をしてきた、犯罪被害者の会の幹事の岡村先生とも、毎週のように電話で話をした。私のことを心配してか、岡村氏からも毎週のように電話があった。そのたびに、岡村氏は私にこう話した。「何事も天命ですから。人は天命で生きているんです。要は、その天命の中で、どう最善を尽くせるかなんです。」「私がこのような境遇になったのも何かの天命なのでしょう。その中で最善を尽くすしかないと、これまで自分に言い聞かせてきました。」「なるようになります。できるだけのことをしたら、あとは天命ですから。それ以上のことをやろうとしたら体が、ハードが壊れてしまいます。うまくいかなくって日本に帰ってきて、英語の先生になったとしても、それもまた天命じゃないですか。」そして、岡村氏は、私のMAでの生活を一年延ばすアイデアを強く支持してくれた。「一年なんて、長い人生を考えれば、短いよ。その一年で、いろんなことができるし、家族だって旅行に連れて行ってあげれるかも知れない。家族と旅行に行くことも大事よ。自分だって、もっと妻を旅行に連れて行ってあげたかったって、今になってよく思うよ。これまでさんざん走ってきたんだから。そういうことは本当に大事だよ」と話してくれた。彼の励ましの声がなかったら自分はどうなっていただろうかと思う。

▼他にも、元NHKの解説委員長のY氏や、日本を代表する推理小説家のN氏なども、「とにかく体をこわさないで。元気にやっていれば、なんとでもなるから」と励まして頂いた。電話代が、日本とカナダ間で、一分、7セント(6円!!)と安いことも本当に助かった気がする。こうした人たちのおかげで、自分もなんとか諦めず、机に向かうことができた。小論文の3回目は、さらに3ポイントあがった。指導教官も「一番上のランクに近づいたね」と言ってくれた。
▼そして12月、遂に、学期最後の長いペーパーを書く時期がやってきた。3週間で、1つ30枚のペーパーを3セット、英語で書かなければならない。自分にとっても、これは全く初めての経験で、何時間でどれくらい書けるかも分からず、不安の中で突入した。
▼3枚の論文のテーマは、1)日本はアメリカが反対するにもかかわらず、なぜ京都議定書を批准したのか。それは、今後の、日本の環境政策、(環境税を含め)、何を示唆しているのか。2)北朝鮮の核問題に対するアメリカの政策はどうあるべきか3)アフリカのダルフォにおける人道的危機と、人間の安全保障、についてだった。
▼細かい記述は避けるが、1)は、本来アメリカの政策を追随することが多い日本が、あえて、京都議定書の批准と履行に踏み出したのは、1)日本人の気候変動に対する強い危機感 2)日本政治の構造的な変化 3)京都で、議定書が結ばれ、日本のリーダーシップと密接に関わりを持ったこと。が主な要因だとし、それが、今後の環境政策も規定していくという論考だった。
▼この論文を提出した、環境政治の教授は、私に、これまでの実績を生かし、独自の取材をすることを勧めた。それが、英語のハンデイを抱える自分ができる、最良の選択だと思ってくれたのだろう。厳しい授業を抱えながら、独自の取材、調査をすることは体力的にもつらかったが、私は踏み切ることにした。以前ゴミ問題で一緒に仕事をした京都大学のU教授にメールを送り協力を依頼した。U教授は、自分が今カナダにいることに驚きながら、インタビューだけでなく、日本の主な研究者や、環境省で長く地球温暖化の交渉にトップとして携わってきた方などを、次々と紹介してくれた。また、ある世界企業のトップの広報室長も、あえて、再びそのトップとの電話でのインタビューを設定してくれた。自民党や民主党の環境対策を担当する国会議員4人にも、電話でのインタビューをお願いし、忙しいなか、皆時間を調整してくれ、協力してくれた。国際電話で、心からお礼を言いながらの取材、調査だった。

▼残りの二つの論文についても、国連の政務官をはじめこれまでお世話になった人たちに電話で話を伺い、それも基軸にしながら、調査を進めた。ダルフォについては、カナダが打ち出した「人間の安全保障」という規範を、アナン事務総長が、国際社会に受け入れるよう、主張し続け、それが、ダルフォに対する対応について、国連安保理での決議や、人道支援の大規模な展開などの面で、一定の成果をあげていること。しかし、実際に兵隊を送り、難民を完全に保護するまでには至っていないこと。緒方貞子さんも入った、国連の高等諮問委員会では、この事務総長の
動きを支持する形で、「国家が人民を保護できない際には、国際社会に保護する『責任』があることを、正式に打ち出したこと」などを、1つの歴史的な流れの中で捉え、その将来性を占おうとした。
▼図書館のインターネットで調査し、それを読み込み、論理展開をメモし、実際に書き始める。英語を書き始めて、3時間もすると、頭がボーとして、手が動かなくなる。ベットに寝ころぶ。そのまま、眠ってしまえば、楽だなーと思う。その誘惑を振り切って、もう一度立ち上がる時、「何が自分をそうさせるのかな」と思う。結局、生存本能かも知れない。自分の夢など、本当に「幻想」じゃないかと思う。でも、ここで諦めてしまうと、それで終わってしまう。夢を見続けるために、また立ち上がって机に向かう。

▼途中危機が来た。家族が遂に倒れた。皆、インフルエンザの予防注射を打っていたが、それでも、まず息子が倒れ、次に妻が倒れた。普通ならここで、ノックアウトだった。しかし、なんと、そのときに限って、東京から私の母親が遊びに来ていた。母親は、どこにも出かけず、ひたすら妻と子の看病をしてくれた。私はそのおかげで、書くことを続行できた。しかしインフルエンザは容赦なく自分も襲う。深夜ベットで横になるたびに、「明日は自分が高熱で倒れるかも知れない。そうしたら終わりかな」と思いながら横になる。なぜか私だけかからなかった。妻と子が、一週間寝込んだ末に治った頃、母親は日本に帰っていた。「頑張っていれば、いつかいいことがあるわよ」と私を励ましながら。   <写真> 雪景色に包まれた東家


▼12月6日の、最初の論文の締め切りに向けて、最初のドラフトを、ネイテイブチェッカーのもとに送った矢先、東京のNHKからメールが届いた。自分が最後に作った「NHKスペシャル。イラク興、国連の苦闘」が、国連記者総会で、銀賞に選ばれたというのだ。ズーマ氏の予言が的中した。アカデミーの審査員も参加する、世界でも最も高い賞を受賞したのだ。さすがに嬉しかった。事務総長の広報官を含め、お世話になった全ての人にあわててメールを送る。みな自分のことのように喜んでくれた。神様が、自分をみてかわいそうになって、1つご褒美をくれたのかと思った。それからまた、残り2枚の論文の作成に追い込まれた。
▼12月22日、3枚目の論文を出した。最後の三日間は、全部で7時間しか眠れず、学部から帰宅する時、信号がかすんで見えなかった。そのときの朝焼けの風景が心にしみた。昼から、出発するバスに妻子と共に乗り込み、クリスマスキャンプに向かった。4泊五日のキャンプに参加することにしていた。
▼年が明け、全ての論文が帰ってきた。三枚の論文のうち、二つは、クラスでも最高ランクの成績だった。しかし、前半線の苦戦が影響して、最終的な成績は、二つがクラスで真ん中より少し上程度で、1つは最高ランクだった。
▼できれば、三つのうち二つは、最高ランクでと願っていたし、実際、あと0.3点で、そうなるところだった。残念だったが、しかし最初の学期でもある。そして、やっぱり成績は成績でしかない。人が人を評価するなんて、主観的なものである。ここへ来て最初に買った参考書にこう書いてあった。「最もしてはいけないことは、自分と他人を比べることである。唯一すべきことは、過去の自分と今の自分を比べることである。過去の自分より、今の自分が向上していればそれでいいのである。」

▼国連の政務官のK氏に、電話する。論文を書くに当たって協力して頂いたことについてお礼を言った上で、「国際社会で働きたいなどと言いながら、大学院の論文でふうふういっていて、恥ずかしい限りです」と打ち明けた。K氏は「私も、大学院で勉強していたときに、『一体自分は何をしていたのか、全く覚えていない』ぐらい、追い込まれて勉強していたこともあります。あなただけじゃないから、安心して下さい。」と優しい言葉をかけられた。普段、感傷的なことを言わない方なので、なんだか、じーんときてしまった。

▼MAを2年間することにし、十分時間をかけ、複数の大学にPhDを申し込むこと決めた。二学期目は1つ授業も減らし、二つの授業に専念することにした。ここで、ま
た素晴らしい教授に会うことができた。それはまた次回以降書きたい。また、この時間を使って、国連でインターンをしたいと考え、ニューヨークの国連本部に申し込んだところ、2週間前に返事が来た。国連本部の政務局で、インターンができるということだった。政務局は、自分の目指している部署でもある。無給の見習いだが、目指している以上、コピー取りでもなんでもしなければいけない。そこでの実地体験も、きっと貴重な経験になると信じている。
▼先は長く、今学期の成績も分からず、将来の道筋も全くわかないが、まだ自分は健康で、学び続けている。不安になったり、学生であるむなしさにおそわれるたびに、岡村さんの声を思い出す。「なるようにしかなりませんから。天命の中で、最善を尽くせばいいんです。」
         
    ☆☆☆☆ 店主から一言 ☆☆☆☆


 東は次の「爆発的進化」のために格闘している。その無我夢中の描写に触れると、こちらも猫背にピーンと筋が通る。「最もしてはいけないことは、自分と他人を比べることである。唯一すべきことは、過去の自分と今の自分を比べることである。過去の自分より、今の自分が向上していればそれでいいのである。」 このことば、大切にしたい。
 ところで、その緊迫の文章を優しく解きほぐす写真の数々だが、今、届いたメールでわかった。その暖かい写真は、皆、奥さんが撮影したものだそうだ。再び、感激した。
勝手きままに走る夫の横にこの眼差しがあることの大切さ。東、本当に君は果報者だ。奥さんが冷たい外気に飛び出し、凍える手でシャッターを押していた時、君はすやすや暖かいベッドで寝息を立てていたのではないかな。いずれにしてもほほえましい。今後も、妻と夫のジョイント、楽しみにして待っています。

 ※東大作 取材・構成の「イラク復興 国連の苦闘」をごらんになりたい方、ビデオをお貸しします。「夢の誠文堂店主」までメールください。個人的に収録したものです。(seibundo@shinyama.com )

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 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡

    ◇「2004年7月19日(夢の誠文堂店主から一言) 曇天に咲く孤高のひまわり」

    ◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」

    ◇「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
    
    ◇「2005年1月1日 東大作 カナダからの便り B<私と息子>」

    ◇「2005年2月6日 東大作 カナダからの便り C<出会い>」
 
                      2005年3月6日