東大作      オークの樹の下で
     カナダからの便りE 「年齢」 
          2005年5月13日

      <写真> オークの花

今、春満開で、バンクーバーは新緑につつまれ、美しい季節である。鳥の声が優しく、人の表情も和んで見える。

 今回も写真は妻が取ってくれた。(ところで、このサイトに載せている写真ですが、若干のタイムラグが実はありました。前回、3月の投稿で、雪の写真を載せましたが、実はあれは1月中旬の大雪。今年は記録的な暖冬でその後一度も、雪は降りませ
んでした。「カナダ」というと「雪」という雰囲気があり、その点よかったと思っていますが、実際の暖冬の事実を誤解して伝えてしまっていたら申し訳なく思っています。
今回、載せる桜の写真は、3月中旬のもの。緑の芽吹きは4月。そして、新緑の写真が5月のものです。)
  
                      <写真> アリソンロードの桜
 1月4日に2学期が始まり、授業を再び選ぶことになる。今回最も悩んだのは、Ph
D(博士課程)の学生にとって必須の「国際関係論の理論」のコースを取るかどうか
であった。まだMA(修士課程)の学生である自分はそのコースを取ることは必ずし
も必要ではなかった。逆に、このコースをとって、もし悪い成績に終わると、PhDへの進学が不可能になる危険があった。現在ハーバードにいる親友のイブ助教授も、その危険を指摘し、くれぐれも慎重にと助言してくれていた。

ただこのコースを主催する、リチャード・プライス助教授は、世界でも著名な研究者で、かつ、極めて親切な先生であった。最初の学期、30枚の論文を3枚書かなければならなかった時も、「この論文を読めばいい」と決定的な助言をくれた。自分のM
A論文の指導も、このプライス助教授にお願いしたいと考えていた自分にとって、それを実現するには彼のコースを取ることが一番の早道のように見えた。
                           <写真> パシヒィックスピリット 朝の桜

後押ししてくれたのは、入学以来世話になっているP教授だった。「成績だけじゃない。先生は、学生の姿勢、やる気、熱心さも学部に報告する。君の英語もだいぶ上達したし、おそらく大丈夫だと思う。それに、もう理論を学ぶ時だ。」

私も同感だった。個別テーマの調査、取材に関しては、まがりなりにも10年以上の
キャリアがある。自分に足りないのは、国際政治に関する骨太な理論だった。いろいろ考えた結果、負けを恐れず飛び込むことにした。リスクを取ることは、時に必要なのだ。

一方で、がむしゃらに寝ずに勉強できる年でもなく、工夫が必要に思えた。なにしろ、通常のクラスが一週間に100ページの宿題とすれば、彼のコースは、300ページが普通という、とてつもないリーデイングアサイメントが課され、この大学の政治学科でも最も難しいとされるコースである。高校時代の恩師が去年くれたメールの最後にこう書かれていた。「情勢判断を誤らないで」。一介の個人になってしまうと、情勢判断の占める割合が大きい。間違えてしまった時に組織のバックアップがないからである。

            <写真> 家の前の桜
私の出した結論は、通常3コース取るのを、2コースに減らすということだった。一
年でMAを終わらせようとした場合、3コースとらないと終わらないが、すでに奨学
金の都合や、PhDへの申し込み等の関係で、2年かけることは決めていた。2年か
ける以上、最後の一コースは、来年ゆっくり取る事も可能かと思われた。

最初の指導教官に相談し、彼から学部長に「一学期に2コースしか取らなくても、P
hDの申し込みにおいて不利にならないかどうか」聞いてもらった。その結果、2コースしか取らないことによる不利益はないという確認を得ることができ、私は二つのクラスだけを取る事に決めた。もう一つのコースは、国際組織論で、国連を中心とする国際組織が国際政治に果たす役割を勉強するコースだった。これもまた私の中心的な関心の1つである。この二つのコースに、全精力を費やすことに決めた。
<写真> メモリアルホールの桜

プライス助教授は、コンストラクテイビスト(訳すと「構成主義」とでもなるのだろうか。)として、カナダだけでなくアメリカやイギリス含め、世界的にも著名な研究者である。国際政治学には主に三つの潮流がある。1つは、リアリスト(「現実学派?」)であり、もう1つは、リベラル・インステイチューショナリスト(「リベラルな国際主義派」だろうか)、そして3番目がこの20年ぐらいの間に急速に台頭を表してきた、コンストラクテイビストである。

リアリストは、北米の国際政治学における主流の考え方である。大きく分けて、古典的リアリストと新リアリスト(ネオ・リアリスト)に別れるが、あまり学説的なことを細かく書いても仕方ないので、ここでは、リアリストで統一する。

写真> アーケディアロードの桜
「理論」のクラスでは、こうした様々な学派を順番に学びながら、3ヶ月間の学期の間に、10ページほどの小論文を4枚書くこと。そして毎回の授業でどのような参加、発言をするかで、成績は決まることになっていた。    
                        
このコースでも最も衝撃を受けたのは、プライス助教授が打ち出している「化学兵器や核兵器が使用されてこなかった理由は、古典的なリアリストの議論、つまり『抑止力』だけでは説明できない。このような兵器が、非人道的な兵器だと、『ステイグマ(汚名を着せられること)』され、不使用が『規範(ノーム)』になったからである」というコンストラクテイビストならではの、主張であった。

国際政治学の主流である、リアリスト(現実学派)の主張は、「核兵器が、広島・長崎以来、使われていないのは、敵国が核抑止力を持ったから」である。そのため、生粋のネオリアリストは、核の不拡散よりも、むしろ健全な核拡散を主張する。核の管理さえしっかりすれば、核兵器を全ての国が持つ方が、抑止力によってかえって世界は平和になるという考えである。

                          <写真> オークの新芽
これは化学兵器についてもそうで、化学兵器を使わないのは、あくまで使ったら、十分な報復を受けると国家が考えた場合であり、そうでなければ、たとえ条約で使用が禁止されていても、国家はそうした兵器を使ってしまう。それが、リアリストの主張する「リアリテイ(現実)」である。

コンストラクテイビストは反論する。それでは、なぜアメリカは、朝鮮戦争で、核兵器を使わなかったのか。中国も北朝鮮も当時核兵器を持っていなかった。ベトナム戦争で核兵器を使っても、北ベトナムから核で報復される可能性はゼロだった。アフガニスタン戦争では、逆にソ連が核兵器を使うことは、抑止力がないという意味では十分可能だった。それでも戦後60年、核兵器が使われなかったことは、核が次第に「悪魔の兵器」として、使用することが人道的に難しくなり、そうした兵器の使用が、国家の評価、評判、道徳的な価値、文明国家としての認知など、長い意味で国家のイメージを著しく損なうため、国家が使うことをためらう、もしくは使うことを諦めざるをえない状況になっているからだ。というのが、彼らの主張である。

言い換えれば、国家もまた、国家間の規範、もしくはルールを完全に無視することはできない、という主張だった。

<写真> 新緑のオーク
確かに、広島、長崎直後は、アメリカの指導者は核兵器を使用可能な兵器と考え、その意義を強く主張していた。10年、20年たつうちに、核使用そのものが、不道徳な意味合いを強く持ち始める。ベトナム戦争においても、核使用を軍部が言い出すことを、当時のマクナマラ国防長官が常に恐れ、「それはアメリカの人道主義の一線を越える」と主張していた。実際に以前、私がマクナマラに会って取材したときも、その点を彼は強調していた。

化学兵器についても、数件の違反はあるにせよ、基本的に不使用は貫かれてきた。イラクのフセイン元大統領は、化学兵器の使用によって、その「残虐な指導者」としてのイメージが確定した。しかしフセイン元大統領が化学兵器を使用した時も、実際には少しづつ段階的に使用し、アメリカが黙認していることをみて、化学兵器の使用量を増やしていったという、あまり知られていない事実もある。

<写真>家の窓から−−−茂るオークの新緑
      
いずれにせよ、核兵器や化学兵器の「不使用」は、「規範」が国家に与える影響を無視しては、説明できない、というのがコンストラクテイビスト、そしてプライス助教授の基本的な主張である。彼はその理論を発展させ、NGOが地雷を「非人道的な兵器」であると国際社会に植え付けることに成功し、その結果、地雷廃止条約が、これまでの常識を打ち破る早さで締結されたメカニズムを描くことにも成功している。

これは、広島や長崎で地道に反核運動を行ってきた人達、(私の祖父もまたその一人だが)にとって、大きく勇気づけられる理論だと私は思った。そして、核の悲劇を、これでもか、これでもかと、伝え続けてきた、NHKをはじめとするメデイアの仕事が、如何に重要かを教えてくれる理論でもあった。

リアリストの立場からみれば、被爆者の運動や、それを伝える報道は、核の不使用とは関係ない。所詮、核兵器が使われなかったのは、「核抑止力」によるからである。

日本やカナダは核兵器を持っていないじゃないか、という反論もあり得るが、リアリストに寄れば「日本やカナダは、アメリカの核の傘で守られている」ということになる。

<写真> オーク並木
しかし、もし「規範」が国家の核使用を止めているとすれば、被爆者がその悲惨を世界に伝えたことは決定的な意味を持つ。そしてメデイアが、核の悲劇を伝えることで「核使用を非道徳なもの」というイメージを打ち立てたことは、核使用を防ぐ大きな要因になっていることになる。

                          普段は物静かで、極めて親切なプライス助教授だが、その理論の持つ、大胆さに私は感嘆してしまった。これは、抑止力を前提として成り立つ、安全保障の考え方を根本的に変えるものだという気がしたからだ。

そして、それは日本の核問題に携わってきた、全ての人達、私のNHKの仲間や、私の祖父や、私自身のしてきたことにたいして、別の意味を与えてくれた気がした。

プライス助教授は、リアリストによる「核の傘」の議論も、根本的な矛盾を抱えていると教えてくれた。リアリストの最大の前提は、「国家はお互いに他の国家を信用することができず、自分の国益を最大化するように、行動せざるを得ない」というものである。では、なぜ、核の傘を掲げている覇権国家、この場合アメリカが、日本が核攻撃を受けた際に、自分の国が滅びることを覚悟で、あえてソ連に対して核反撃に出ると主張できるのか。「リアリストは、核の傘という根本命題において、矛盾を抱えている」と彼は教えてくれた。

                        <写真> バンデューセン植物園の花々
     
私も、日本にいる頃、「日本は核の傘によって守られている」という議論を聞く度に、違和感を覚えていた。たとえば、沖縄は、戦後一貫して、核戦争が起きた場合、最初に核攻撃を受けることは自明とされてきた。アメリカの核兵器が沖縄に配備されているからである。もし、核の傘が、日本を守っているのであれば、一番核が集中している沖縄は一番安全なはずである。しかし、実際には、沖縄は一番の軍事力を持っているからこそ、冷戦時代、最大の危険にさらされていた。

このような議論を、自分の体験とも照らしあわせながら、理解し、自分なりの言葉で論文にしていくことは、非常に難しいことではあったが、また充実している時間でもあった。

毎回授業に臨むにあたっては、質問を用意し、なるだけ自らデイスカッションを引っ張るよう心がけた。また、毎週のように研究室に通い、それぞれの理論について分からないことを質問する。そして、4枚の小論文については、必ず事前にアウトラインを持って行き、内容について指導や助言を受けてから、実際の原稿に向かうことにした。
コンストラクテイビストが主張する様々な根本命題のうち、もう1つ、感銘を受けたのが、「アイデンテイテイ」が紛争を平和に対して持つ意味の大きさである。これは国家についても、一人一人にとってもいえる。アイデンテイテイとは、簡単に言えば、「自分は何か」ということである。

<写真> バンデューセン植物園の庭
そしてコンストラクテイビストは、「民族などのアイデンテイテイは、自明のように見えて、実は社会的に作られている」と主張する。たとえば、旧ユーゴスラビアで紛争を繰り返した、セルビア、ボスニア、クロアチアなどの民族は、チトー政権における旧ユーゴスラビア時代においては、殆ど意識されず、みな隣あわせて生き、互いに結婚も普通にしていた。

国家の分裂と共に、ミロシュビッチを始めとする国家指導者が、民族としての誇りや敵対心、歴史的な記憶などを煽動し、それに国家の破綻により不安にかられた人々が追随することにより、旧ユーゴ紛争は拡大した。

その理論によれば、ミロシェビッチは、政治的起業家(ポリテイカル、エンタプリナ)であり、民族的扇動者(エスニック・アクテイビスト)である。政治的起業家や民族的扇動者は、人々のアイデンテイテイを敵対心に変えることで、自らの政治的な基盤を確立する。

これは、2002年にイスラエルとパレスチナを取材していた時にまさに私が感じていたことだった。端的に言えば、シャロン首相と、パレスチナの過激派は利益を共有している。話し合いによる和解が進めば、彼らの支持は自動的に下がる。攻撃とテロの連鎖が拡大することで、彼らの支持基盤がかえって拡大するのだ。実際、報復の連鎖が静まったなとほっとすると、またどちらかが、攻撃を開始、また報復の連鎖が始まるのを私自身何度も体験していた。2000年の和平交渉の責任者だったベンアミ元外相も、私へのインタビューで、そのシャロンの政治的手法を激しく批判していた。
      <写真> 赤い花
これは、日朝関係においてもいえることである。日朝の敵対心をあおることで、支持基盤を拡大している政治家は多い。おそらく北朝鮮の側にも、そうした勢力はいるはずである。ブッシュ大統領とビン・ラデインも、また利益を共有している。その意味で世界は今、原理主義者と、穏健主義者の闘いが繰り広げられている。

逆に、アイデンテイテイを共有すると国家や人々が意識できた時、通常の国家間の関係を越える共同体を作ることも可能になる。日本と韓国が、「東アジア文化」と「民主主義」というアイデンテイテイを共有する国家として、ここ数年、急速に親交が深めたことは、日本にとって近年最大の慶事であった。その関係を漁業権も絡まない領土問題で損ねることは、アイデンテイテイの重要さを考えると、最も愚かしい政策だということになる。
<写真> カナダに咲くラバーナムの花
(東氏の奥さん撮影)

 子供も、1月から新しい小学校に通うようになったが、そこには、韓国人や中国人が多く通っている。時々、「日本人とは遊びたくないと言われる。」といわれる、と悲しそうに言うときがある。深い歴史の谷間が横たわっていることを実感せざるを得ない。

私自身目撃したことがある。一度、小学校のアイススケートの授業についていった。滑り終わった後、韓国人らしきクラスメートが、みんなにキャンデイーを配っていた。最後に息子の大誠のところにきて、息子は手を出したが、息子にだけ、くれなかった。

声が大きい割に繊細な息子は、すぐに大声で泣き出した。私も難しい判断に迫られた。なぜ息子を差別するのかと、問いつめるべきか。しかし、お菓子をあげる義務がないのも事実である。

そのとき、同じ韓国人と思われる子供が、キャンデイーを配っていた子供の胸を突き、厳しい目で叱責した。「何してんだ。あげろよ」言葉は聞こえなかったが、彼がそう言っていることは明白だった。たとえ6歳でも、その目には確たる意志があった。

その目に押されるようにして、子供は、息子にキャンデイーを渡した。子供は泣きやみ、やがてにっこりと笑った。その後、息子は、いくつもキャンデイーをもらうことに成功していた。一部始終をみていた私は、なぜか胸が熱くなった。6歳の少年から大事なことを教わった気がした。

                
4月後半、プライス助教授の授業の成績が帰ってきた。総合成績は、クラスで上から二番目の成績であった。4枚の小論文のうち、2枚は、トップであった。そして、プライス助教授は、私のMA論文を指導することを快諾してくれた。

プライス助教授に会いにいく。彼は私の必死の勉強と姿勢を褒め、二つの点で感嘆していると言った。1つは、英語を学ぶ途上にある、留学生であるにもかかわらず、ということ。もう一つが、PhDの学生ではなく、MAの学生であるにもかかわらず、ということ。

しかし、私がもう一つ思ったのは「35歳にもかかわらず」という感慨だった。クラスの殆どは、まだ20代中盤の伸び盛りの生徒である。(それでも3人ほど30代半ばがいるのも、また北米の大学院のいいところである。)その人達の中で、2番目になったことは、適応力という意味で嬉しかった。

もちろんこれについては反論もあろう。仕事盛りの30代半ばで、20代の人達と一緒になって、あくせくして何が嬉しいのかと。その意見もよく分かる。しかし一方で、人間何歳になっても、新しく学べるということも、大事な事実のような気がする。

     
日本では「35未満まで」という仕事案内が至るところにある。北米ではおそらく、そう書くと、年齢による差別ということで、法律違反になる。もちろん、年齢が一切考慮されないということはないと思うが、表面的には、年齢のみで、排除することは許されない。

PhDに行くために、日本の色々な奨学金も探してみたが、私のように35歳になった人を対象にした奨学金は、実にゼロであった。全て厳格な年齢制限がある。その理由はとくにないにもかかわらず、である。

カナダの大学のPhDに行くにせよ、アメリカのPhDに移るにせよ、認められれば、ある程度の奨学金や学費補助が与えられる。年齢による差別はない。そのことは、今の私にとっては、極めて大きな事実である。

      
   <写真>珍し来客 アライグマ
(東氏の奥さん撮影)
                                                                                                     6月から、2ヶ月間、インターンとしてニューヨークの国連本部の政務局で働くことなった。申し込んだところ、最も採用の少ない政務局での勤務が認められた。部署によっては、自分より年の低い職員のもとで、インターンとして、無給でボランテイアすることになる。コピー取りからの再出発である。

しかし、メデイアと、アカデミックを経験した自分にとっても、国際機関の官僚機構での仕事は初めての経験だ。たとえ、35歳のインターンでも、そのことに恥じず、少しでも多くのことを学んできたいと心に決めている。そこで学んだことを、少しでもこうしてサイトを通じて、誠文堂の店主や、NHKの仲間、そしてこの投稿を読んで下さる方に送りたいと思う。



                                <写真> オークの新芽                                          

犯罪被害者の会の代表幹事の岡村勲さんと電話で話す。岡村さんは、この2ヶ月間体調が悪く、ずっとふせっていた。そして、民放やNHKの番組を見続けた結果、出した結論が、「やっぱりNHKを潰したらいけないと強く思いました。各局の番組を見ましたが、やっぱりNHKの番組が一番質が高いです。ちゃらちゃらした番組なんていらない。5%の視聴率でもいい。NHKにしかできない番組を、出し続けてくれればいいんです」

                               
今年76歳を迎えながら、内閣府にできた犯罪被害者の権利拡充に向けた「基本計画」を作る委員会に、被害者の代表として入り、最後の闘いを続けている岡村代表幹事。その言葉を、現場で苦闘している仲間に贈りたい。
           

☆☆☆☆ 店主から一言          ☆☆☆☆
東君ありがとう。君からの便りがどんどん充実してくるのがなによりうれしい。また、奥さんが撮るすばらしいバンクーバーの自然も見事です。黄花藤、まだ一度も見たことのない花園です。ほんとうに素敵な場所で暮らしているのですね。二人のコラボレーションがどんな進展をしていくのか、これからも楽しみにしています。
さて、東家のオークの樹にヘッセの文章を贈ります。
      <写真> 東家のオークの樹
◇ 木は、私にとっていつもこの上なく心に迫る説教者だった。木が民族や家族をなし、森や林をなして生えているとき、私は木を愛する。木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。そのような木は孤独な人間に似ている。何かの弱みのためにひそかに逃げ出した世捨て人にではなく、ベートーベンやニーチェのような、偉大な、孤独な人間に似ている。その梢には世界がざわめき、その根は無限の中に安らっている。しかし木は無限の中に紛れ込んでしまうのではなく、その命の全力をもってただひとつのことだけを成就しようとしている。これは独自の法則、彼らの中に宿っている法則を実現すること、彼ら本来の姿を完成すること、自分みずから表現することだ。・・・・(ヘルマン・ヘッセ「庭仕事の愉しみ」より)

 ※東大作 取材・構成の「イラク復興 国連の苦闘」をごらんになりたい方、ビデオをお貸しします。「夢の誠文堂店主」までメールください。個人的に収録したものです。
    (seibundo@shinyama.com )

 ※東大作のテレビ・ジャーナリストとしての航跡はここをクリックすればでます

 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡

    ◇「2004年7月19日(夢の誠文堂店主から一言) 曇天に咲く孤高のひまわり」

    ◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」

    ◇「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
    
    ◇「2005年1月1日 東大作 カナダからの便り B<私と息子>」

    ◇「2005年2月6日 東大作 カナダからの便り C<出会い>」

    ◇「2005年3月6日 東大作 カナダからの便り D<壁>」

                                   
                      2005年5月13日