東大作      オークの樹の下で

 カナダからの便りF 「国連にて (1)粘り」 
          2005年7月26日

  <写真> ニューヨーク 国連本部(東氏の奥さん撮影)
◇6月4日から、国連本部政務局、タリバン・アルカイダ制裁委員会で、インターンをすることになった。国連本部に2ヶ月間通い、仕事の手伝いをするということ以外、何も知らされていなかった。どんな仕事をするのか、何ができるのか。ただ、一切お金は支給されず、交通費も宿泊費も全て自分で賄うことだけは、分かっていた。それでも、第一希望だった政務局でのインターンであり、できる限りのことはしようと心に決めて、ニューヨークに入った。

◇ニューヨークに入るにあたっては、もう1つ大事な目的があった。今年の末に、いろんな大学のPhDに申し込むが、それにむけて、国連研究の第一人者であり、新しい理論を打ち立てた教授で、自分が将来、勉強できたらいいなと思っている人達に会い、自分のキャリアや、研究計画について説明し、自分を知ってもらうことだった。

◇何人かお目当ての人はいたが、主には、A大学のM教授と、B大学のD教授であった。M教授は、前回紹介したコンストラクテイビストの代表的な国連研究者。D教授は、リベラリストの国連研究の代表的な研究者で、アナン事務総長の顧問も長く務めた大物であった。

◇これまで取材でお世話になった人に紹介してもらったり、自らメールを送って英語版のビデオなども送付して、4ヶ月がかりでアポイントを取った。最終的に、6月1日にM教授に、6月2日にD教授に会えることになった。

◇二人の教授に会うにあたっては、カナダのUBCの学生仲間4人に、事前にデモを見てもらうことにした。およそ5分間で、自分の経歴を話し、UBCでの成果を話し、そして今後の研究目標を話す。決して楽なことではなく、事前に草稿を書いた上で、仲間に聞いてもらい、質問もしてもらって、即興で応えられるように練習する。
     <写真>セントラルパーク
◇こちらの学生は、みな26才とか28才とかでも様々なジョブインタビューなどを経験しているので、本当にいい助言をしてくれて、内心びっくりした。まず自分が何の目的できたのかを、最初の段階で明確に話すこと。経歴は長すぎず、短すぎないこと。UBCでのこと、つまり現在していることを先に話した方が、北米ではいいということ。目をまっすぐ向けること。手をあまり動かさない(これはちょっと難しかったが)、インタビューでは、多少傲慢になったつもりで、自分の成果をきちっと話した方がいいこと、など、みな懇切丁寧に指導してくれる。8ヶ月間の短いコースワークだったが、いい仲間をもったと実感した。

◇その上で、迎えた面接。M教授は、私の指導教官であるプライス教授とも仲良く、私が資料を送った段階で、やりとりをしてくれていた。その意味では、自分のこともよく知ってくれていて、極めて前向きに相談に乗ってくれ、学部長にもすぐ紹介してくれた。ただ、その際「あなたの研究目標は、トピックはあっても、クエッションがないかも知れない。そこはしっかり、自分の研究テーマの中に書いた方がいい」という助言は大変参考になった。

◇そのまま飛行機でB大学へ向かい、翌日、D教授に会う。世界的な権威であるが、国連の中でも大変な評価を得ている人である。しかし私との30分間は、本当に誠心誠意、私の人生を考え、相談に乗ってくれた。その姿勢は、大変感銘を受けるものであった。
<写真> ニューヨーク 911追悼のパネル
◇まずD教授は一般論として、アメリカの有名大学では、PhDの選考の際、1GPA(大学での成績)と、2 GRE (大学院に申し込む際に受ける、共通一次のような試験)の点数、の二つで、上の段階(第二次選考)に行けるかどうか振り分ける。その上で、第二次選考では、研究目標(これも1,2ページである)や、経歴、これまで書いたペーパーで提出されたもの、などを読んで、慎重に選考するということだった。
 
◇このGREというのは、知っている人はいると思うが、日本人には大変な困難なテストである。数学はなんとかなっても、英語のテストは、どうにもならないという人が多い。私も、テキストを買って一度模擬を受けたが、全く歯がたたない。読解問題はなんとかなっても、テストの7割を占める、ひたすらボキャブラリーだけを問う、ある意味で単純なテストは、ネイテイブの人を審査するためのテストだけに、我々留学生には、本当に至難のテストである。

◇私が一瞬顔を曇らせたのを見たD教授は、「もちろん、他の書類も見るのは見ます。その上で、他の面がとても優れていれば、第二次審査には入るんです」といった。

◇その上で、私の経歴や研究目標、UBCでの成績などを率直に話す。練習した甲斐があったのかD教授は輝く目で「とてもイムプレッシブ(感銘を受ける)だ」と心底言ってくれた。その上で、どんな大学にどんな国連研究の先生がいるのかや、かなり運もあるので、いろんな大学を受けた方がいいことや、それぞれの大学の特徴、申し込む場合どんな点に注意した方がよいかなどについて、懇切丁寧に教えてくれた。別れ際には、「きっといろんな大学からオファーがあると信じています。頑張って下さい」と励ましてくれた。
  <写真> セントラルパーク
◇私のUBCでのGPA(成績)はなんとかなっても、正直、私のGREテストの点数から言うと、そうはうまくいかない可能性が高いことは、よく分かっている。それでも、その道の権威であるD教授の言葉は嬉しかった。それを支えに、国連でのインターンを含め、努力を続けようと思った。

◇その後も、いろんな大学の先生に、アポイントメントを取っては、会い続ける。まるで江戸時代の、浪人の道場巡り、武者修行のようなものだが、自分の経歴と目標だけを頼りに、アカデミックな世界の権威に会うことは、ある意味で面白かった。大学の授業で、文献でしか接することができない理論家が、どんな顔をしていて、どんな言葉使いをしているのかを知ることは、元ジャーナリストとしては単純に興味もあった。

◇基本的にみな親切で、メールを送ると、自分の経歴も面白がってくれて、会ってくれる人が多い。その意味で、北米は個人を重視してくれる。肩書きがなくなると、なかなか日本を含めたアジア地域では人と会えなくなる。その点ありがたかった。最後に、自分の作った英語版の番組を渡して出て行く。なかなか見てもらえないものだが、でも渡せるものがあることは、幸運かも知れない。

◇さて、6月4日からの国連本部でのインターン。なんと去年取材でお世話になった選挙支援部の隣の部屋で、びっくりしてしまった。これも何かの運であろうか。去年ここで撮影をしていた時に、まさかその隣で、翌年インターンをしようとは、想像だにしなかった。

◇具体的には、私が所属したフロアーは、安全保障理事会の中の、制裁委員会を担当している人達が集まるところである。国連は現在、安全保障理事会の決議の下、9つの国や地域、個人に対して、制裁を行っている。私のフロアーにいる人達は、そのどれかを担当して、制裁委員会の事務、運営を担当している。

◇私は、事前にタリバンアルカイダ制裁委員会に所属すると言われていたので、その担当者としか会えないのかと思っていたが、そうではなく、私のフロアー全体が、それぞれの制裁を担当していて、私の直接の上司が、タリバンアルカイダを担当しているということだった。

◇(さて、ここから先の国連の話は、全てウエブサイトなどで公開されている話です。内部の情報を漏らしていることはないので、一応お断りしてきます。)
     <写真>安全保障理事会
◇9つの制裁というのは、具体的には、イラク、ソマリア、コンゴ、スーダン(ダルフォール)、リベリア、コートデイボアール、シェラレリオン、ルワンダ、そしてタリバン・アルカイダ、である。

◇国連の経済制裁は、イラクに対する長い経済制裁のように、一般市民を苦しめるものの、国家指導者に対しては効果がないと、1990年代に盛んに議論された。それを受けて、現在、国連で模索されているのが、「ターゲット制裁」であり、主に特定のグループや指導者個人に対して制裁を行い、国家のビヘイビア(行い)を変えることを目的にしている。

◇その主な手段は、具体的に言うと、1)資産凍結、2)武器禁輸、3)国外旅行の停止、である。それぞれの制裁によって、上の三つ全てが適用されている場合もあれば、1つだけが適用されている場合もある。タリバン・アルカイダでいえば、この制裁委員会のリストに名前が乗れば、上の三つ全てが適用される。そのため、資産も銀行から出せなくなるし、武器も受け取れなくなる。そして国外への旅行もできなくなる。各国がビザもパスポートも発給しなくなるからである。(制裁委員会は、安保理決議のもとに作られ、メンバーは安保理の加盟国から構成される。だから、安保理のメンバーになることは、自動的に各種制裁委員会のメンバーになることも意味し、情報入手の上では大変なメリットがあるのは事実である。)
                         <写真>社会保障理事会
◇国連がここまでやっているのか、と驚く人も多いと思うし、私も正直驚いた。これはダルフォールも同じで、今年三月に採択された決議に基づき、ダルフォールに向けての武器は全て禁輸となった。たとえスーダン政府であっても、事前に制裁委員会から許可が出ない限り、一切、武器はダルフォールに送れないことになった。内政干渉もいいところだが、ダルフォールで生まれている二百万人の国内難民を救い、少しでも紛争のレベルを下げるためには、必要な手段として、決議されたのだ。ダルフォール内の全ての部族、勢力が武器を新たに手にしなくなれば、紛争のレベルを下げる事に役立つという政策判断である。
                                   <写真>国連 地球儀
◇さて、こうした制裁が実際に効力を発揮するかどうかが問題だが、国連では、それをチェックするために、「監視委員会」が、それぞれの制裁体制におかれつつある。タリバンアルカイダでも、専門家による監視委員会が設定され、各国の履行状況をチェックし、国連安保理に定期的に報告している。ダルフォールにしても、今年監視委員会ができ、四人の専門委員が、国境を回りながら、実際に武器の密輸がなされていなか、チェックしている。この専門委員の一人も今フロアーにいるので、話を聞くことができたが、とにかく大変な仕事である。

◇こうしたターゲット制裁の実効性は、今まさに実験されている段階である。しかし、制裁は、国連が武力行使を行う前の段階で、問題を解決するために使うことができる、有力な政策手段であることは間違いない。その試行錯誤の状況を、間近で見ることができることは、国連の安全保障機能を研究しようとしている自分にとっては、これ以上の幸運はないように思えた。それぞれの制裁を担当している人に、時間を見つけてもらっては話を聞きに行く。みな、インターンが無料で働いていることも知っているので、その分、親切に話を聞かせてくれる。これ以上の勉強はない。

◇実際、日本人で、この部局のインターンに採用されたのは私が始めてということだった。コネを使った訳ではなく、ただインターネットで申し込んだだけだったので、本当にラッキーだったと思う。去年国連記者総会の銀賞を取ったことは、一応評価されたのだろうか。その上で、インターンをしている人も過去に例がないのかも知れない。

◇上司のタテアナ・コシオさんは、チェコ出身の女性である。年齢は、おそらく50才前後であろうか。もう制裁の仕事を国連で十数年やっているベテランである。朝は九時から夜は七時まで、びっちり働く。このフロアーの人は本当によく働く。九時から六時までびっちり働き、家に帰ってまた働いている人や、九時、十時まで残業している人もざらである。その中でも、タテアナ氏は、ハードワーカーで定評がある人だった。

◇大変、インターンの面倒見がいい人で、制裁委員会のインフォーマルなミーテイングも連れて行ってくれる。そこでの内容はオフレコだが、とにかく各国の意見が生でぶつかるのは大変面白い。その内容をメモをして、サマリーを書くのもインターンの大事な仕事である。それ以外、個別テーマのリサーチをしたり、プロジェクトの手伝いをしたり、国からのリクエストを整理しなおして、間違いをチェックしたり、日々のオペレーションを手伝う。それに加えて、自らプロジェクトを提案して、彼女の指導の下リサーチを行う。
                          <写真>国連内の絵
◇タテイアナ氏は、時間には厳しい人なので、私はとにかく誰よりも早くオフィスに行き、タテイアナ氏が帰るまではオフィスにいるようにした。そうすると彼女も気に入ってくれて、色々な場所にも連れて行ってくれるし、面白い仕事も任せてくれる。

◇何よりためになるのが、時間の合間をみて、彼女がしてくれる個人的なレクチャーであった。1、国連政務局で働く上で大事なことはなにか。2、制裁の目的は何で、どんな手段があるのか。3,武器禁輸の目的と、その課題などを、的確に教えてくれる。一方的に話すのではなく、まず質問をして、私が応えると、それは間違いとか、それは正しいとか言いながら、彼女なりの答えを教えてくれる。

◇子供はいないが、スペイン語教師のご主人と幸福な家庭生活を送っているタテイアナ氏。私の家族を持ちながら大きな会社を辞めて挑戦を始めたことにも同情してくれたのか、色々教えてくれたり、課題を与えてくれることは、本当に嬉しかった。

◇しかし、ここでも現実にぶつかった。国連で働く道の険しさである。彼女も私に言った。「32歳を越えると、国家別の競争採用試験が受けられない。あなたがそれを越えているとすると、本当に難しいのは事実だ。」ただ、彼女は一方で、「でも諦めたらいけない、200アプライしたら、1つくらい受かるかも知れないと思って挑戦しないといけない。ただ、」そこからが肝要だった。「40歳までには決めた方がいい。40歳を越えて採用するのはかなり国連としても勇気がいることだから。」そして「PhDを取るのは、国連で働く上では、何のメリットもないのよ」とも言った。

◇これは、あと5年ほどかけて、PhDを取った上で、大学でのポストと、国際機関の仕事を平行して探すという私の青写真に根本から疑念を持たせるものであった。PhDを取った時に、私は40歳を越えるのである。

◇それでも励ましてくれること自体嬉しかった。日本の代表部とインターンの間で、懇談会もあったが、そこでは、32歳を越えると、200アプライしても200落ちることが普通だという話だった。正直なニュアンスを教えてくれたのだと思う。インターンを対象とした国連側の説明でも同じような内容が繰り返された。「32歳まで」の連呼である。理論的には知っていたとはいえ、繰り返されると現実にぶつかる感じがある。

◇うーんどうしたものか。暗雲がたれ込める。なかなか自分の考えているようには、人生いかないかも知れない。


◇妻と子供が、一週間の予定でニューヨークに来てくれる。国連職員の日本人で、2週間旅行に行く方が、無料で家を提供してくれたのである。日本人の優しさもまた身にしみる。親切に甘えて、家族3人で過ごす。その間だけは、タテイアナ氏にも了解してもらい、5時半の定刻に仕事を切り上げ、オペラを見たり、ミュージカルを見たりする。家族も一度、国連のオフィスに案内し、フロアーの政務官に紹介する。タテイアナ氏は、妻に「あなたも、ハードワーカーな旦那をもって大変ね。」とにこにこしながら、笑って話していた。


◇我々家族にとって、最大のイベントは、大誠も僕も好きな、ヤンキースの野球を見にいくことだった。あの松井がいるヤンキースだ。

◇地下鉄にのって、球場に行く。一人15ドルの一番安い外野席を取っていたが、なんとアルコール禁止地域であった。それでも周りの人は酔っぱらったような陽気な人が多い。ニューヨークは、ある意味で世界が凝縮している。第三世界と裕福さが同居している。ハーレムと、超高級住宅地が100メートルの差で近接する。ハーレムには月100ドルの家があり、高級住宅地は月5000ドルである。私達の座った席にいる人達は、そんな裕福さとは無縁の人達かも知れないが、なんとなく優しく暖かかった。

◇松井は、三日前に捻挫をして、連続出場が危ぶまれる状況であった。またチームも何度か連敗を繰り返し、昨年までとは全く異なる苦戦を強いられていた。もしかしたら、松井は出ないかも知れない。それを見るために、子供も連れてきたのにと、私は悔しく思った。

◇しかし松井は出場した。捻挫の足を引きずりながら、指名打者として5番に座ったのである。そして彼のその日の粘りは忘れられないものとなった。

◇ヤンキースは、試合途中まで、4対1と3点差を許し、この日も敗色濃厚であった。球場全体は「また負けるのか」という雰囲気に覆われていた。

◇しかし6回、松井は、ライト線に見事なヒットを放ち、必死の走塁のもと、二塁に辿りつき、その後ヒットでホームに帰る。2点差にした。しかし次の回にまた点をとられ、再び3点差になる。しかし7回、松井はツーアウト2塁のチャンスで再び出番を迎え、しぶとくセンターに弾き返す。これで再び2点差。彼のバッテイングは、どんなに苦しくても、絶対に諦めない彼の姿勢を何よりも体現していた。
  <写真>ブライアントパーク  東氏撮影
◇そして九回、ヤンキースは一点差まで迫りながら、ツーアウトを取られ、さすがに万事休すかと思われた。しかし、ツーストライクに追い込まれたあと、同点打が飛び出し延長戦に入る。迎えた10回、ヤンキースの主軸が打ったボールは、諦めずに球場に残った我々外野席のフアンに届く、劇的なサヨナラホームランであった。

◇私も息子も妻も、立ち上がって周りの人達と一緒に大喜びする。私は息子を抱え上げ、ホームベースで抱き合うヤンキースのプレイヤーを祝福する。その中には、足を引きづりながら、同点に向けてヒットを打ち続けた松井の姿があった。この日を境に、ヤンキースは再生し、再び首位戦線に浮上していった。

◇「粘り続ければ何かが起きるかも知れない。とにかく英語で、国際政治を分析し、研究し、それを表現できる力を身につけよう。とにかく諦めずに努力しよう。」私は、歓喜に震える会場の中でそう思っていた。


☆☆☆☆ 店主から一言          ☆☆☆☆
 ▼東君の熱い文章とともに送られてきたニューヨーク写真集の最後はヤンキースタジアム、熱狂のスタンドで、松井選手の背番号55の帽子を深くかぶりバッティング・スタイルでカメラの前に立つ凛々しい愛息の姿で締めくくられていた。その晴れ姿を見て、私はすぐに,NHKスペシャル「松井秀喜 ベースボールの神様に抱かれて 〜作家・伊集院静が見つめた1年〜(平成15年11月23日放送 構成:大谷実)」の冒頭の場面を思い出した。バットを持って構える少年時代の松井選手のセピア色の写真に伊集院氏の随筆が添えられる。
 「海のそばで生まれ育った少年は、いつか自分が、その海に船をこぎだし、旅立つことを夢見ることがあるそうだ。松井秀喜選手は、野球の練習が終わった夕暮れ、一人でこの海を見つめるのが好きだったと、私に話してくれた。
 野球が大好きだった松井少年は、この海をどんな気持ちで眺めていたのだろうか。20年後、この根上(石川県)の海とつながるニューヨークの、それも世界最強のチームで野球をするプレーヤーになると想像していただろうか。・・・・」
こうしてはじまる番組は、海を渡った松井選手の一年を追っている。それを今辿ると、同じように夢を追って海を渡った東君の姿と重なる。この夏、東君一家が松井に引き寄せられてヤンキーススタジアムの観衆となったのは必然の風景のように思う。
 東君にとってのヤンキーズ、国連本部。いつかそこで働くことを希求する思いが、どんどん強くなるのを読みとるたびに、私の中にももりもりと元気がわいてくる。
 東君と可愛い愛息に松井選手が初めてメジャーの打席に立った日の日記からの一文を贈りたい。
 「いまは試行錯誤の連続です。まだ、いけるという確信はありません。でも、とにかくキチッとボールの芯を打ち抜いて、強い打球を放つこと。これが基本となるのは、間違い有りません。その基本を踏まえて、それをどう進化させていけるか。これからの課題は見えています。結果がどうなるかは分かりませんが、僕自身はとにかくメジャーというこの場所で、前に進んでいくだけ。絶対に後戻りはしない覚悟です。結果は必ずついてくると信じています。」(「僕のメジャー日記」より)

 ※東大作 取材・構成の「イラク復興 国連の苦闘」をごらんになりたい方、ビデオをお貸しします。「夢の誠文堂店主」までメールください。個人的に収録したものです。(seibundo@shinyama.com )

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 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡

    ◇「2004年7月19日(夢の誠文堂店主から一言) 曇天に咲く孤高のひまわり」

    ◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」

    ◇「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
    
    ◇「2005年1月1日 東大作 カナダからの便り B<私と息子>」

    ◇「2005年2月6日 東大作 カナダからの便り C<出会い>」

    ◇「2005年3月6日 東大作 カナダからの便り D<壁>」

    ◇「2005年5月13日 東大作 カナダからの便り E<年齢>」

   
                      2005年7月26日