東大作 オークの樹の下でー
カナダからの便りG 「国連にて (2) テーマ」
2005年10月30日
◇家族が10日間のニューヨーク滞在を終え、バンクーバーに帰ったあと、私は、コロ
ンビア大学の学生寮に寝泊まりすることになった。一月およそ800ドルである。ベットと机があるのみで、シャワーもトイレも共同のものを使う。クーラーもない部屋だったが、幸い、夜になるとニューヨークは気温がぐっと下がるので、なんとか寝ることはできた。去年まで、NHKの取材で滞在していた時とは大きな違いだが、学生になった以上仕方ない。そのことでみじめな気持ちを持たずにすんだのは、得な性格かも知れない。
◇寮から、地下鉄を乗り継いで、およそ45分で国連本部につく。GREの試験を受けるために必要な英語の単語集をもってきていたので、それを、単語カードに書き移して、行き帰りの電車やバスの中でひたすら覚えようとする。およそ1000個のそうした単語をこの年齢で覚えるのはしんどかった。その1000個さえ覚えれば、試験もなんとかなるのではと期待して、必死に覚え続けたが、それでは全然足りないことは、後で実感することになる。
◇夏のニューヨークの地下鉄は熱かった。地下鉄に乗るとまだ冷房が効いているが、ホームは冷房が効いていないため、まるで蒸し風呂である。毎日背広を着て通っていた私にとっては、修行のような通勤であった。ニューヨークの人たちは、やはりストレス度が高い。人間の限界を超えてしまっていると感じるときもあった。たとえば、雨が降って地下鉄が大変混雑していた時のこと。私が地下鉄に乗り込もうとすると、ドアの付近は人で一杯だった。しかし、中の方はまだ随分余裕があり、詰めれば十分私も乗り込むことは可能だった。東京での満員電車を経験している私は、当然詰めてくれると思い、中に入ろうとした。すると、なんとドア付近に立っている乗客が、ひじで押し返し、私を乗せないようにするではないか。びっくりして、なんとか横から入ろうとするが、それも押し返される。仕方なく、別のドアに走っていき、乗り込もうとすると、今度は別の乗客に押し戻された。呆然とする私を前に、地下鉄のドアは閉まり、走り去っていった。なんとなく、救命ボートに乗りきれなかった乗客になった気がした。日本なら、きっと詰め合ってくれるだろうなとぼんやり思った。ここで、日本人の美徳を思うべきなのか、ニューヨークの人たちのある種の非情さを責めるべきなのか、分からなかった。
◇国連に入ると、世界中の人が働いていることもあり、少しほっとさせられた。私のいた政務局制裁部には、私を含め3人のインターンがいた。一人はメキシコ出身のホアン君。もう一人はパキスタン出身のアブラ君であった。去年に続いて、今年2回目のインターンをこなしているホアン君は、なんと19歳。19歳で、アメリカの大学院の政治学科の大学院生である。両親は、母親がメキシコ政府の外交官で父親が国連職員や、教授などを歴任している。スパニッシュ、英語、フランス語、なんでも話せるホアン君は、国連職員になるべく生まれてきたような青年である。中学校から英語で教育を受けている彼は、英語を書く能力も高く、国連の職員の人にも頼りにされていた。私も英語の報告書のドラフトなどを見てもらって、文法をチェックしてもらったりした。本人も将来は、国連の政務局で働くことを夢見ているし、私はきっとそうなるだろうと思う。最初ちょっと、きざな男かと思ったが、仲良くなると大変親切で、優しい好青年だった。
◇もう一人のアブラ君は、パキスタン政府で働く公務員であるが、二年間フルブライトの奨学金で留学していた。ちょうど30歳手前くらいであろうか。奥さんと、1歳の子供をパキスタンに残している。今年の末には、MAが終わってパキスタンに帰る予定だった。
◇アブラ君は、寮が私と同じだったこともあり、大変仲良くなり、いろんな場所でご飯を食べたり遊びにも行った。現在公務員である彼は、将来、ビジネススクールに行って、ビジネスマンに転向することを夢見ていた。そのため、インターンの合間を見て、ビジネススクールに入るための試験勉強をしていた。
◇アブラ君のもう一つの特徴は、なんといっても女性にもてることであった。国連全体で、夏期に採用するインターンは240人くらいだが、半数以上が女性である。そんな若い女性達ととても仲良くなり、週末はよく遊びに行っていた。この辺りはとても真似できない。とてもダンデイーで優しいアブラ君は、きっと女性にとっても癒し系なのだろう。羨ましいとも思ったが仕方ない。私にとっても、競争:競争といったニューヨークの雰囲気の中で、アブラ君のある種の気楽さというか、リラックスした感じがとても有り難かった。
◇この3人で、週に一度づつ、おいしい日本料理店、パキスタン料理店、メキシコ料理店などをお互いに連れて行き、夕食を共にした。2ヶ月間と短い期間であったが、同じインターンの人とのつきあいもまた楽しい体験であった。
◇将来、国連で働いてみたいと希望していた私にとって、前回書いた年齢での壁に加えて、もう一つ直面したのが、専門性の壁であった。私の履歴を語って国連での職務を聞くと、どうしても、「Public Officer」(報道官)としての仕事ならチャンスがあるかも知れない、という答えになってしまう。つまり、マスコミ出身だから、マスコミ対応の報道官なら、という考え方である。実際、PKOの部署を担当する人事担当の人に質問した際には、「PKOでラジオ局を作る時もあるから、そうした場所ならあなたの専門性を活かせるかも知れません」と言われてしまった。
◇私が、国際紛争の現場で取材してきた経験は、なかなか、私が目指しているPolitical
Officer(政務官)の経験としてカウントしてもらえないのである。それでは、実際にPKOなどで、Political
Officer の仕事は何なのかと別の人に聞くと、「現地の政治指導者と会って、情報収集をして政治情勢を分析し、国連本部に報告するのが主な仕事です。あとは、任務に応じて、現地のリーダーとの交渉を行います。」ということであった。まさに、私が、ドキュメンタリーを作る上でやってきたことなのだが、ドキュメンタリーを作った経験は、そのままでは、カウントしてもらえない。いわゆる「専門性の壁」である。
◇大学で政治学科を勉強していることも、現地経験としては認められないので、そういった意味では、なかなか、なすすべがないといった感じがあった。残る道は、PKOの現地採用の勤務に応募して、半年づつぐらいのペースで、世界中のPKOを転々としながら、本部に引き上げてもらうのを待つ人生であるが、これも、家族がいる自分にとってはなかなか現実味が乏しかった。国連でのインターンは、極めて充実したものであったが、採用のシステムを知れば知るほど、自分には、ほど遠いものであるような気がしてきた。
◇とにかく、先のことを考えても仕方ないので今の仕事と人脈作りに専念することにした。インターンを始めて3週間したところで、私は一つのテーマに関して単独のリサーチを行うことを提案した。上司も受け入れてくれ、残り5週間でなんとかリサーチをまとめることを目指した。
◇リサーチの内容については書くことができない(国連の内規のため)が、制裁に関するある法的手続きの課題を、徹底して調べることであった。仮にそれを、課題Yとする。私が、思い立ったのは、自分の所属するタリバン・アルカイダ制裁委員会だけでなく、それ以外の8つの制裁委員会で、課題Yがどのように取り扱われ、どのような運営と規則を持ち、今後どうなりそうで、各国はどんな主張をしているかを、横断的に調べることであった。
◇国連の政務官の人たちも、自分の担当する制裁委員会に関しては、当然のことながら熟知している。しかし、たとえ部屋を隣にしていても、なかなか別の委員会の細かい状況まで把握できない。超多忙な仕事のなかで、直接仕事に関わらないことを、聞いて回る時間も余裕もないのである。インターンの私が、そうした人たちの間を回って、課題Yにテーマを絞り、インタビューをし、資料をもらい、過去のデーターをあたり、その現状を調べることは、部署全体にとって意義があるのでは、というのが私のねらいだった。政務官の人たちもみな、「課題Y」はどの制裁委員会でも共通する重要なテーマだし、それを調べてくれるのは、大変有り難いといって、積極的に協力してくれた。
◇調査の結果を表にし、それぞれの制裁委員会に関する状況を文書にまとめ、それを各担当官にチェックしてもらい、文書を詰めていく。さらに、必要な資料をもらってはファイルしていく。それに加えて、各国が課題Yについてどんな意見を持っているかも、国連での発言録をあたって詳細に調べた。かつ、NGOや法律の専門家、アカデミックなリサーチャーが、課題Yについて、どんな提言をしているかも、インターネットで調べて片っ端から、集めていった。
◇最後の二週間は、必要な資料を集めたり、文章をまとめるため、夜は12時、1時まで働き、週末も休まず国連に出勤した。インターンは無給なので、残業手当ももちろんないが、調査は面白く充実していた。幸いだったのは、鍵が無くて土日は中に入れない自分のため、まだ若い政務官の一人が、週末に出勤して、自分にも仕事をさせてくれたことである。「君ほど働いているインターンはいない。驚くよ」といいながら、彼はいつも協力してくれた。私より若いオランダ人の彼のおかげで、私はなんとかプロジェクトを終わらせることができた。彼も任期が短い短期の雇用なので、今後もずっと国連にいるかどうかは分からない。お互い、日本酒を飲みながら励ましあったこともあった。
◇インターン最終日。やっとできあがった分厚いファイルを、職場の上司や、部長に持って行く。部長は、「インターンで、これだけしっかりした結果を残してくれたのは君が2番目だ。本当にありがとう」と言ってくれた。別にそれで雇ってくれるわけではないが、具体的に褒めてくれたのは嬉しかった。調査に協力してくれた人たち一人一人にもファイルを見せて、お礼を述べた。みな、「よく頑張ったわね。貴重な財産になるわ」といってくれた。
◇去年撮影でお世話になった隣の選挙支援部の人からも、ほぼ全員から話を聞くことができた。みな、自分の番組の英語版を見てくれ、「素晴らしい番組だ」といいつつ、その後の話を聞かせてくれた。あくまで非公式なブリーフィングだが、アフガニスタン、イラク、アフリカ、それぞれの選挙支援で国連が直面している課題を担当官から聞くことができたのは、本当にラッキーだったし、今後の自分の研究テーマを考える上でも貴重だった。最後の日は、イラクでの選挙を取り仕切る責任者である部長も、40分時間を割き率直な体験談と彼女の哲学を聞かせてくれた。みな、とても親切だった。
◇去年NHKのドキュメンタリーを作る際に大変お世話になった、アナン事務総長の広報官は、今年6月末で、退官だった。去年、国連内の重要人物全員に取材ができたのは彼の協力あってこそだった。私は最後に、1時間話を聞くことを申し込んだ。彼は、仕事が全て終わった後、「これが最後だよ」といって、一介の学生である私のリクエストに応じてくれた。8年間、アナン事務総長の片腕として全てを見続けてきた広報官の話は、具体的で、新たな事実に満ちていた。私は、これまでの彼の好意と、協力に心からお礼を言い、最近再婚した彼の第二の人生を心から祝福した。60歳半ばをこえ「これから国連ときっぱり離れて、余生を送る」という彼と会うのはこれが最後かも知れない。でも、私のこれまでの人生の中でも、最も深く信頼関係を共にした人だった。
◇同じく、去年お世話になった、NHKの先輩や上司、カメラマンの人たちともお会いした。仕事の関係を超えて、励ましてくれることは、本当に有り難かった。みな学生の私を気遣い、ご飯をおごってくれた。
◇国連の政務局で働いている日本人職員の方にもほぼ全員に会った。みな誠意をもって色々助言してくれる。また日本の国連代表部で同じ委員会に出席していた政務官の方や、大使クラスの方とも何人かじっくり会って話ができたことも、成果の一つだった。
◇最後にお会いした、国連で20年以上勤務していて、国連日本人職員協会の幹事を務める方は、「あなたのような履歴を持った人は見たことがない。確かに、今までは、上級職の採用ミッションで応募して日本人が受かるケースは殆どありませんでした。でも、あなたなら、いけるんじゃないかしら。とにかく、諦めないで、挑戦して下さい。」と暖かく励ましてくれた。実際には厳しいことはもうよく分かっているが、ずっと現実的な話を聞かされた最後にこういった励ましは嬉しかった。
◇インターンが終わった翌日、朝一番の飛行機でニューヨークを発ち、バンクーバーに戻る。妻と子供は、日本に夏休みで帰っていた。夏のバンクーバーは温暖で、自然が豊かで、かつ天気がよい。ほぼ2ヶ月半ぶりに、家に戻ると、懐かしいペンキのにおいがした。
◇去年夏、妻と子供と3人で、始めてこの家を訪れた時に感じた、あのペンキのにおいだった。あれから、一年がたった。あのときの緊張感、押しつぶされるような不安感。一年たって、私は少しは成長したのだろうか。
◇次々と現実とぶつかり、自分の「国際紛争の解決に少しでも寄与したい」という夢に近づくために、何が一番の近道かも分からない。やっぱり幻想に過ぎなかったのではないかとも思う。
◇でも、まだ自分は健康で、家族も健康で、私も妻も息子もそれぞれの学校に慣れ、バンクーバーで友人もでき、なんとか3人で前を向いて頑張っている。私も、どの大学で受け入れてもらえるかは分からなくても、何を調査し、何を研究したいのかについては、はっきりしたテーマを持つことができた。21世紀の世界の中で、戦力の行使の規範はどうあるべきかという命題と、戦後の平和構築について、国連がどのような活動をすべきか、について研究することである。今後、何年も続くであろう大学での修行の後に、何が来るかは分からない。でも、たとえたいした肩書きは得られなくても、上の2点について、ちゃんとした専門家になりたい。その上で大学で研究を続けるのか、国際組織を目指すのか、状況にあわせて挑戦し続けていくしかない。できるかどうかは分からない。でも、とにかくその目標だけは持ち続けたい。バンクーバーに帰った日、私は、あがくようにそう思った。
☆☆☆☆ 店主から一言 ☆☆☆☆
▼充実したニューヨークでの研修を終え、東君はバンクーバーに帰ってきた。次回の便りには、美しい紅葉の写真が添えられてくるであろう。今回の便りで東君が締めくくった言葉が私たちを勇気づけてくれる。 「・・・・・でも、まだ自分は健康で、家族も健康で、私も妻も息子もそれぞれの学校に慣れ、バンクーバーで友人もでき、なんとか3人で前を向いて頑張っている。私も、どの大学で受け入れてもらえるかは分からなくても、何を調査し、何を研究したいのかについては、はっきりしたテーマを持つことができた。21世紀の世界の中で、戦力の行使の規範はどうあるべきかという命題と、戦後の平和構築について、国連がどのような活動をすべきか、について研究することである。今後、何年も続くであろう大学での修行の後に、何が来るかは分からない。でも、たとえたいした肩書きは得られなくても、上の2点について、ちゃんとした専門家になりたい。・・・・」
▼ 東君を失った後の私たちの職場は、大幅な減収の中で大改革を迫られている。諸々のことはまたしっかりと報告することにするが、要は、一人一人が個人としてしっかりと時代認識を持ち、目の前をめまぐるしく過ぎていく事象をいかに深く考察できるかが、明確に問われる組織になっているということだろうか。「よらば大樹・・・」の温々とした発想のディレクターやプロデユーサーは容赦なく切られる。特にリストラの最大の対象となっている私たち老兵にとっては、東君の格闘は、切実で、また眩しい。
▼果たして、自分のテーマは何なのか。余りにも個人的な自分の思考を猛省しながら、これからの人生、自分はどう生きていけばいいのか、を考えなければならない。その意味で、併走している若き東君の存在は、わたしたちリストラ世代にとって実に頼もしい。
※東大作 取材・構成の「イラク復興 国連の苦闘」をごらんになりたい方、ビデオをお貸しします。「夢の誠文堂店主」までメールください。個人的に収録したものです。 ( seibundo@shinyama.com )
※東大作のテレビ・ジャーナリストとしての航跡はここをクリックすればでます。
※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡
◇「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」
◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」
◇「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
◇「2005年1月1日 東大作 カナダからの便り B<私と息子>」
◇「2005年2月6日 東大作 カナダからの便り C<出会い>」
◇「2005年3月6日 東大作 カナダからの便り D<壁>」
◇「2005年5月13日 東大作 カナダからの便り E<年齢>」
◇「2005年5月13日 東大作 カナダからの便り F<国連にて(1)粘り>」
|