東大作 オークの樹の下でー
カナダからの便りH 「カナダと格差」
2006年2月6日
↑大学のキャンパスから見た海
◇カナダに来て、2度目の正月を迎えた元旦。高校時代の友人Uから、「謹賀新年」というメールが来た。毎日新聞の鋭敏記者として活躍しているUは、私がNHKを辞めてからも、いつも励ましのメールをくれる。私が2004年春に、ニューヨークで国連のイラク復興に関するNHKスペシャルを取材していた時、彼は、自衛隊に同行し、イラクのサマワを取材していた。そして帰国後「撤退も視野にその活動を考え直すべき」という記事を書いた気骨ある記者でもある。
そのUからのメールに「新年の企画で、『格差の現場から』という特集があって、自分も書いているので、よかったら読んでみて下さい」とあった。私はすぐに、それらの記事を読んでみた。(そのメールアドレスは以下の通りです。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/tatenarabi/ )
◇労働強化が進み、賃金が減る一方で、労働時間が際限なく増える長距離トラックの運転手。日本の年金だけでは生きていけないので、マレーシアやタイで、月数万円の年金生活を送るサラリーマン。生活保護を受ける人の街になってしまった東京山谷。「ITバブル」「規制緩和」「競争至上主義」のかげで、日本で広がっている格差の現場を丹念に追った特集だった。
◇私も、カナダに来てから、「格差」について考える事が多い。それは、世界最長の「軍備なき国境線」を共有しているアメリカとの対比においてである。
◇私と家族は、大学院生とその家族であり、カナダ政府の奨学金などはもらっているにせよ、極めて低所得層である。それでも、大学院生用に用意されている家は、日本で住んでいた家よりはるかに広々としていて、環境も素晴らしい。移動も、バスが殆どである。車が必要な時は、「コーポレートネットワーク」という会に入っていて、バンクーバー市にあるおよそ90台の車を、事前に予約すれば、一時間2ドル+1キロあたり35セントで借りることができる。
◇車を増やさないためと、お互いに車をシェア(共有)しようという目的で始まった制度であるが、随分多くの人が利用している。こちらでは車は中古車も高いし、維持費も税金もガソリンも高いので、この制度は非常に助かっている。
◇バスに乗っても、いろんな階層の人が乗っていて、決してそれで、自分が貧しいなどと感じることはない。そのあたりは、日本で公共交通機関を使う時の気分と同じだと思っていいと思う。
◇医療費も、年間一世帯10万円ほどの経費で公的保険に入れば、基本的に無料である。これはこれで、市民に等しく医療を提供し「格差」をなくす意味で、重要な制度である。
◇小学校なども均等で、どこの地域に住むから、いい学校に入れるというような格差はない。もちろん、金持ちの家庭は、私立に入れたりすることはあるが、それは日本でも同じである。
◇だから、あまり所得を気にせず、十分豊かな気持ちで生きていくことができる。受ける医療の質も、子供の教育の質も、大邸宅に住む人と基本的に変わらない。
◇これが、隣の国アメリカに行くと、そうはいかない。どこにいっても、大きな社会的、経済的格差が存在し、それを意識せずには生きていけない地域が多いのである。
◇医療にしても、一世帯あたり、保険だけで年間100万円以上かかる。その上、医療費の20%は、自己負担である。ご存じの通り、公的保険はアメリカにはなく大量の「無保険世帯」が存在する。
◇また家を借りたり購入するにしても、その値段の高低が、子供の教育環境や犯罪に遭う可能性と直結する。
◇教育でいえば、低所得者層が集まる地域の公立小学校や中学校は、その所得者層の税金で賄われることもあって、質が低くなってしまう。一方、高所得者層の住む地域の公立学校は、極めて質が高くなる。
◇逆に公立学校の質が高いと、金持ちが移り住むため、その地域の地価があがるという面もある。つまり、親の貧富の「格差」が、子供の教育を受けるレベルに直結するのだ。それが、当然、次世代の「格差」をより大きくする。この「貧富の格差」の拡大再生産こそ、アメリカ社会の最大の特徴の一つだと私は思っている。
◇また、貧富の格差は、犯罪率とも直結する。私もアメリカの大学をいくつか申し込んでいることもあり、もし合格した場合、どこに住むかを検討しようと思い、インターネットを見たことがある。もちろん、とらぬ狸の皮算用の可能性は高いが、結果が来たら、比較的すぐ連絡する必要もある。
◇すると、アメリカの家の紹介サイトには、その地域の犯罪率が明記されているのだ。それを見ると、犯罪率の高低と、家の値段が直結していることが分かる。犯罪率の低い地域は、極端に家の値段が高い。
◇つまりアメリカでは、生まれた時から、その親の経済力で、犯罪に遭う可能性も、教育を受けるレベルも決まってしまう面がある。
◇学生である私に住める家など最初から限度がある。これは新たな課題だった。カナダのようにはいかないのである。
◇もちろんアメリカには、片田舎にものすごくいい大学がぽつんとあったりして、そうした所では、安全でかつ、いい家に住めたりする。大学関係者しか住んでいないので公立学校もレベルが高い。そのあたりが救いではある。しかし、都会の真ん中にある大学だと、上のような条件をどうクリアするか、妻と7歳の長男と一緒に暮らしている私としては、深刻な課題である。
◇少し脇道にそれたが、とにかく、そういったことで、「格差」については、アメリカとカナダで大きな相違がある。それでは、なぜカナダで、「格差」が小さいのか。「公共性」と「労働組合」に対する考え方が、大きく影響しているのではと感じることが多い。
◇「公共性」という面では、カナダで公的保険が発達していることなどを見ても歴然としている。「資本主義社会でも公共サービスで賄うべきものはある」という一種の哲学である。
↓オークの実
◇「労働組合」でいえば、去年の10月、我が家の生活を大きく変える事件が、2週間続いた。なんと、私達の住む、ブリテイッシュコロンビア州(BC州)の、全ての公立学校、(小、中、高)が、ストライキに突入し、一切授業がなくなってしまったのである。
◇わが長男も、学校に行けなくなってしまった。それはそれで、嬉しそうで、家の周りで友達と遊んでいたが、妻は一日子供から離れる訳にもいかず、とても大変だった。ましてや、フルに共稼ぎをしている家庭にとってはすごい負担だったと思う。私の指導教官のプライス教授も、奥さんがフルで働いていて「いや、田舎から親に来てもらった。どうしようもなくて」と話していた。
◇しかし、プライス教授も含め、バンクーバーの人たちが、このストライキに同情的だったことが、私にはとても新鮮だった。教師たちの要求は、BC州全ての公共機関の職員に対して決まった一斉賃金値下げを、教師にも適用することを中止すること。さらに、「25人学級の死守」も掲げられた。教育費の削減によって、25人を越えるクラスも次第にでてきているのである。
◇もちろん、日本では25人より多い学級はざらである。日本の先生に比べると、8時半に来て、3時半には帰宅できるカナダの先生は恵まれているようにも思える。もちろん、家でも準備などはあると思うが、私が見ても、健康的で元気な先生が多いと思う。
◇一方、日本では、小学校の先生が、学校の授業だけでなく、他の活動や、研修などに追われ、睡眠時間も5時間ぐらいしかとれないという報道が盛んにある。多くの教師が、精神的、肉体的ダメージで休職している。こうした現状をみると、やはり先生には、カナダの先生くらい元気であって欲しいと、私は率直に感じている。
◇そして、30人も40人も一クラスに生徒がいるよりも、25人学級の方が、教師にとっても子供にとってもいいことは間違いない。
◇こうした意見を、多くのバンクーバー市民も共有していて、ストライキに怒って「すぐやめろ」と言う人はあまり見なかった。「仕方ないわね」という感じである。テレビやラジオの報道も比較的好意的なように私には思えた。あるテレビのリポートでは、年配の教師が、後輩の教師とデモ会場にバスで向かいながら、「僕が若い時には、40日間ストなんかもあった。若い時期に、政府と毅然と闘う経験をすることは、とても大事なことだ」と後輩に話している。そんなシーンを見ると、「随分、日本と違うな」と思って、正直、感嘆してしまった。
◇州政府との交渉は膠着状態が続き、ストライキも2週間に亘ることになった。最後には、他のバンクーバーの公共機関の労働者まで、「シンパシーストライキ(同情、共感、支援のためのストライキ)」なるものを組織し、遂にバスまで止まりそうになった。これなど、まさに「労働者よ団結せよ」という感じだった。
◇最終的に調停案を双方が飲み、今後も話し合いを続けることで、決着を見て、学校は2週間で再開された。しかしこの経験は私にとってカルチャーショックだった。日本の小学校の先生が、2週間ストすることなんてできるだろうか。市民からの一斉非難で、とてももたないだろう。マスコミも激しく批判し続けるに違いない。考えられないことである。
しかしそれが本当によいことなのか。考えこんでしまった。
◇私の大学の同期でも、何年も前から残業代が無くなったと聞く。何時間働いても給料は変わらないのである。これは労働基準法違反ではないかと思うが、会社に居続けたいので、誰も文句を言わないということだった。聞くと、本当に朝9時に出勤し、終電まで働き通しである。カナダだったら絶対に、組合が黙っていない。大変な労働争議になること必至である。
◇一方、カナダは、労働組合が強いことで、色々な不便を被ることは事実である。Telus
という、日本のNTTのような、公共電話会社は、職員のストでしょっちゅう運営が止まる。私の友人の一人は、引っ越しをした後、一ヶ月近く、インターネットをつけてもらえなかった。職員がストで働けないからという理由だった。
◇医療機関も、高度な医療になると、カナダは極端に評判がよくない。たとえば、悪性の腫瘍などが見つかって日本なら直ちに手術するような場合でも、手術を受けるまで、半年かかったりする。ベッドと医者が空かないからである。私も、重い病気に家族がかかったら、日本に帰って、医療保険に入り直すしかないと思っている。他にも、大量に出血して病院にかつぎこまれても、数時間処置してもらえなかった例など、枚挙にいとまがない。
◇ただ、普段生活している分には、公的保険の医療で十分なことも事実だった。風邪など引いても、抗生物質も出ないので、とにかく寝てなおす。日本のように大量に薬をもらうのと、長い目でみてどちらがよいかは、難しいところである。
◇最初に紹介した、毎日新聞の連載記事に対する読者からの反響に、次のようなコメントがあった。
(主婦の方)
通信販売をよく利用するが、配達時間の指定が細かく分かれており、いつ届いても問題ない物でも「指定なし」は選べない。こうした行き過ぎた便利なシステムが、運転手の劣悪な労働条件や環境問題にもつながっていると思う。業界や荷主企業への働きかけも必要だろうが、便利さが少し低下してもいいから、私たちの身の回りの暮らしを見直すことが大事だと思う。家族と過ごす時間もなく、働き続けなければならない社会って何なのだろうか。
◇これはカナダにいるとよく分かる話で、配達など、午前か午後かしか選べない。しかも選んでも、全然別の時間に突然電話があって「今から行っていいか」なんてのんきな声がしたりする。タクシーなども、電話すると交換手が「数分でいくよ」と気楽に言うので頼むと、20分も来ないことが結構多い。
◇このあたりについて、文句を言う日本や韓国の人も多い。しかし、私はなんだか馴れてしまった。まあ死ぬ訳ではない、とか、こんなもんだ、と思うと、少しリラックスできる。こうしたゆったりしたところが、カナダ人の寛容さや優しさの原因のような気もしている。
◇もちろん、だらけているだけだと、国も衰退するであろうが、カナダは、G7(先進国サミット)参加国の中で、唯一、貿易黒字と財政黒字の「双子の黒字」を持っている国でもある。スキー場などにいっても、みなきびきびと働いていて気持ちがいい。サービスも行き届いているし親切だ。
◇大学生も、それまで勉強しなくてもいいこともあり、(大学入試はなく、高校の成績だけで入学が決まるし、他の短大で頑張って転入する人も多い)、大学では、みんなよく勉強している。多くの学生が外でアルバイトしながら、自分で学費を稼ぐ。大学院になると、死ぬほど勉強するが、彼らの中には「これは一年か二年の辛抱」という思いがあるようで、そのあとは、また家族や自分の時間を大事にする生活に戻っていく。
◇私もカナダに来て何が嬉しいかというと、毎日、一週間7日、家族3人で、朝ご飯も、夜ご飯も共にできることである。コースワークの宿題がある時はパニックになるぐらい大変だが、それでもご飯を一緒に食べ、子供からその日一日あったことについて聞くことは、幸せを実感する時である。経済的な尺度では測れない幸福がある。
◇もちろん私は、社会主義者でなく、健全な競争が必要なことを認めている。NHKにいるときなど、内部の下部会社が、ある業務を独占していて、サービスは劣悪、社員も態度が悪く、「競争がないからだ」といつも文句を言っていた。
↓ 2010年オリンピック会場ウイスラースキー場
◇しかし何事もバランスである。人間社会には、「競争」も必要だが、組合を始めとする適度な「抑制力」も、正常に生きていくためには必要だと思う。それは、個人レベルでも同じで、仕事や勉強を一生懸命やることは大事だが、一方で子供と遊んだり、家族でゆっくり時間をすごしたり、体を休めたり、そうした時間がないと、バランスが崩れて、体をこわしてしまう。結局いい仕事もできないような気がする。
◇柳田邦男さんが、「量的拡大」を目標にした時代から、「質的充実」を求める時代に変わる時が来ていると主張されているのを読んだことがある。カナダにいると、「質的充足」の意味を感じる時がある。多少不便があっても、業績が拡大しなくても、心豊かな「時間」を持つことの大事さである。
◇さて自分の近況であるが、去年9月から再び学期が始まった。私は多くの大学のPhD(博士課程)の申し込みの準備、GREというアメリカの共通一次のような試験に向けた受験勉強(これは、私のような年齢の学生には本当に辛く、こたえた)、さらに、日本語での本の原稿などに追われながら、修士課程で必要な最後の一科目を履修した。
◇とったコースは「国際法と国際政治」の授業で、去年最初に履修するかどうか悩んで、「とてもついていけそうにない」と断念したクラスである。私の2回目の投稿「誤算」に書いてあるので、ご記憶の方もいらっしゃるかも知れない。
◇その成績が今年の1月中旬に帰ってきた。なんとクラスでトップだった。これで、去年の2学期以降とった三つのクラスのうち、二つが上から一番で、残りの一つが上から二番だった。必死にやったことを認めてもらった気がして正直嬉しかった。
↓ 2010年オリンピック会場ウイスラースキー場
◇もちろん、私の英語力は、カナダ人が殆どである政治学科の学生の中で、発音も含めて一番低いことは疑いの余地がない。一年たっても、自分の英語の拙劣さにうんざりする日も多い。
◇それでも、英語力でなく、内容を見て評価してくれる先生方に、心から感謝せざるを得ない。最後にとったクラスの先生は成績を教えてくれたあと、「君がこの大学の博士課程を選んだ場合には、喜んで指導教官になる。驚くべきことに、多くの教授がそう思っている」と少しおどけた調子で書いてくれていた。彼も「武力の行使」を巡る国際法と政治分析では全米でも屈指の研究者なので、とても励まされる思いがした。
「自分のようなものでも、努力を続ければ、なんとかなるかも知れない」という思いだった。
◇そうした結果を受け、先日、指導教官であるプライス教授に会った。現在彼は学部長でもある。その時彼はこう言った。
「まだ選考委員会は始まったばかりだけど、問題はないと思う。おそらくアメリカのいくつかの大学からもオファーがあると私は予想している。この大学とアメリカの有名大学双方で合格した場合、どちらに行くか決めているかい?もしこの大学を選ぶ場合、特別な奨学金を、君には、出すべきだという話がでているんだ」と言った。
◇正直、感激してあとで泣きそうになった。もちろん、国際政治学が、アメリカを頂点とするハイレラキカルな世界であり、プライスをはじめ、この大学の先生もみなアメリカでPhDを取っているのは事実である。私も国連の研究をやる以上、やはり東海岸の近くの大学の方がいいかも知れないという思いはある。それは、カナダに来る前に特別に会ってくれた緒方貞子さんの助言でもあった。
◇だから進路については、まだなんとも言えなかった。それでも、とにかく一つでいいから、ちゃんとした大学の博士課程に入りたいというのが、自分のこの2年間の苦闘の最低限の目標だった。逆に言えば、「MAの成績が悪いと、PhDに進むことすらできない」というのが、会社を辞める時の最大のリスクだった。博士課程に入ることさえできれば、とりあえずチャレンジを続けることはできるのである。
◇まだ正式ではないにせよ、UBCというカナダで有数の大学から「大丈夫だよ」と言われたことは、この一年半の苦しい勉強の一つの結果として嬉しかった。
◇しかも、「特別な奨学金も考えたい」と言われた時は、「自分はカナダ人でもなく、税金も殆ど払っていないのに、本当に有り難い」と率直に感激した。この感激は、これからの自分の支えになってくれるのではと思う。
◇これからさらに英語で100枚にのぼるMAの論文を書かなければならない。一月からは、TAといって、大学生相手に教授の授業を手伝う仕事も始めた。
◇またUBCの教授が中心となって、アメリカや日本の著名な教授が共同で出す本の中の一章を、私にも書いて欲しい、という誘いも別の教授から頂いた。MAの学生としては、本当に格別なことで、これにもまた感謝の気持ちで一杯である。時間的に難しい面はあるが、できるだけ、努力したいと思っている。
◇NHKで大きな番組を作っていたときに比べて、なんと小さな成果かと思う。成績にこだわったり、数十ページの出版に必死になったり。しかもあと5年は学生生活が続き、その後も、ただただサバイバル、仕事を得るための悪戦苦闘が続くのである。
◇でも一学生として始める決意をして日本を飛び出した以上、どんなに小さな世界でも、そこで一つ一つ壁を越えていくしかない。カナダに来て一年たって「なんだこいつは、ジャーナリストずらしやがって」と嫌われることもなく、先生たちがみな私のリスキーなチャレンジに共感して支えてくれている。その厚意を私は一生忘れないと思っている。そのことはプライス教授にも言った。「私を支えてくれる先生方に、本当に感謝しています。決して忘れません」
◇その後、高校時代のもう一人の友人N君からメールが来た。彼は、私と同じ国立大学の物理学の修士課程を出た後、東京都立大学の憲法学の大学3年生に編入した。その後、大学二年、大学院五年、研究生二年、さんざん苦労したあと、私が会社を辞めた年に、関西の大学に講師として就職が決まった。現在、憲法学の教鞭を執りながら、研究を続けている。一応永久就職であり、私はその話を聞いた時、芯から嬉しかった。私がカナダに行く際、N君はわざわざ京都から新幹線に乗って東京まで来て、励ましてくれた。
◇そのN君が、メールで一枚の写真を送ってくれた。彼の勤める大学の図書館に、「指定図書」となっている私の書いた「ベトナム戦争・敵との対話」の本が並んでいる写真だった。そこには一言、「この写真を見て、励みにして下さい」と書いてあった。
◇私が11年間会社で働いている間、彼はずっと一苦学生として、先の不安に悩みながら努力を続けていた。だからこそ、今の私の苦しさ、先行きの不安、なども分かるのだろう。そして、私の本が彼の大学で指定図書になっている写真を送って「将来こんな本を出せるように頑張れよ」とエールを送ってくれたのだと思う。
◇NHKの先輩や仲間も、今でも、作った番組を送ってくれて感想を聞いてくれたりする。私もどんなに忙しくても、なるだけ見て感想を送ることにしている。「東にそこまで言ってもらって、この番組作ってよかったよ」とまで言ってくれる人がいると、こちらも努力を続けようと元気をもらう。
◇仕事辞めて一年半、まだ声援を送ってくれる人たち、メールや電話で励ましてくれる人たちに心から感謝の気持ちを伝えたい。それが私の「謹賀新年」である。
☆☆☆☆ 店主から一言 ☆☆☆☆
▼ 拝啓 東様。東京は先ほどからまた、粉雪が舞い始めました。立春を過ぎたのに、日本列島はこの冬一番の冷え込みを記録しています。知ってのとおり、今年の豪雪は記録的で、雪下ろしなどの作業中に転落したり、雪に生き埋めになり命を落とした人はすでに、全国で120人を越えています。その死者の7割が一人暮らしの高齢者です。格差といえば、今回の豪雪で、改めて露わになっているのが、地方の過疎化、高齢化の現実です。
▼小泉首相の登場によって日本社会の構造は良くも悪くも大きく変わってしまいました。最近、よく考えているのが、15年前に取材した日米構造協議のことです。護送船団方式の日本経済の異質さ、日本企業社会の異常さを徹底批判したアメリカは、「日本の社会構造を消費者第一主義に変革する。」を旗印に、日本改造の200項目の要求を突きつけてきました。今、その項目を改めて読み返すと、郵政民営化、商法改正による株式市場への個人投資家の導入など、小泉体制で加速化された諸々の施策が概ね網羅されています。結局、15年かかって日本がたどり着いたのが、あの頃、アメリカが日本に突きつけた要求の現実化であり、それが日本社会をアメリカンスタンダードにすることだったのだと改めて気が付きます。それを全面否定するわけではありませんが、私たちは得たものの代償に、失ったものもたくさんある。
▼当時、私はアメリカが改正を迫った大規模小売店舗法を取材しました。「この法律が、地方の商店街を保護し、大型チェーン店などの外からの参入を妨げている。これが安いものを買いたい、消費者のためになっていない、よって撤廃すべきである。」というのがアメリカの主張でした。構造協議の場で米国通商代表部が論陣を張るのと平行して、アメリカ最大のおもちゃチェーン店のトイザらスが着々と日本進出のスキームを実現させる、という動きをドキュメントしました。あれから、政財連動したこの仕掛けで日本社会のアメリカンスタンダード化は急速に進んできました。おかげで私の故郷にも大型スーパーが次々とできましたがその一方で商店街のシャッターは下ろされたままです。虚飾のアイドル・ホリエモンもこのスキームから産み出されたわけで、ホリエモンが消えても遅かれ速かれ会社法は改正され企業の合併・買収の際に外資参入がますます容易にできる時代になるでしょう。日本は、15年前に突きつけられた200項目のアメリカの要求を、チェックリストをつぶしていくように、着実に実現しているわけです。
▼今回の貴兄の報告にあるように、カナダという国がアメリカの隣国でありながら、節度を持って自国の独自性を保ち続けているという現実は、示唆に富んでいます。「コーポレートネットワーク」などに、これからの日本が、市場原理優先社会の対局として充実しなければならない公助のシステム、互助組織のヒントがあるようです。格差社会の中で、負け組として取り残された個人や地方、それらを結ぶ、重層的な「コーポレートネットワーク」をどう紡いでいくのか、小泉時代の総括として、自分なりに考えていきたいと思います。
▼それにしても、クラストップの成績、敬服しております。夢を持ち続けることがいかに大切か、しみじみ反芻しております。
※東大作 取材・構成の「イラク復興 国連の苦闘」をごらんになりたい方、ビデオをお貸しします。「夢の誠文堂店主」までメールください。個人的に収録したものです。 ( seibundo@shinyama.com )
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※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡
◇「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」
◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」
◇「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
◇「2005年1月1日 東大作 カナダからの便り B<私と息子>」
◇「2005年2月6日 東大作 カナダからの便り C<出会い>」
◇「2005年3月6日 東大作 カナダからの便り D<壁>」
◇「2005年5月13日 東大作 カナダからの便り E<年齢>」
◇「2005年7月26日 東大作 カナダからの便り F<国連にて(1)粘り>」
◇ 「2005年10月30日 東大作 カナダからの便り G<国連にて(2)テーマ>」
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