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2014年01月17日

●傾いた街路樹


▼ その日から5日後、メリケン波止場に船で入り、壊滅の街を歩いた。神戸は、二十歳代3年間住んだ忘れられない町だ。写真を撮りながら歩いた。かつて馴染んだ路地、その入り口のたばこ屋も壊滅していた。ネガに残る一コマ一コマを今見直すと、呆然として歩いたその時の空気がよみがえる。
▼崩れかかった家を一本の街路樹が支えている。木は、その朝、土中を張る根が激震を受け止めた直後、地上の幹が真横から崩れ落ちる家屋の衝撃を受け止めた。そして、数日、そのままの姿勢で、家屋が国道に崩れ落ちるのを紙一重で防いでいる。その横を、何気なく自転車や車が通り過ぎていく。崩れ落ちた街の中で多くの樹は傾いてはいたが、すくっと空に向かっていた。 「木はしなやかだ。」と思った。


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▼ 西から東へゆっくり歩いているうちに陽が暮れた。街を闇が走った。まるで映画のセットの中を歩いているようだった。その中で時折、スポットライトのようにあたりを照らす炎が点在した。住民が火を起こしあたっていた。皆、意外なほど淡々としている。数日前、家族を一瞬にした失った人もいるだろう。しかし、そこには整然とした気合のようなものが流れていた。リュックから新しい下着を出し手渡した。「お役に立てば」「ありがとう」 その人々の佇まいに、昼間見た街路樹と同じ"精気”のようなものを感じた。神戸の町では震災直後ショーウインドーを荒らす者やコンビニを襲う強盗も出現しなかった。関東大震災の時にあったあらぬうわさに踊らされたパニックも起きなかった。整然とした精気とともに、人々はじっと耐えていた。それは今でもすごいことだと思う。その意識の高さを誇りにも思う。


▼街を横断しながらめざしたのは、レンガの門柱のある屋敷だった。神戸に住んでいた頃、一人の画伯を知った。異人館ばかりを描き続ける小松益喜画伯、小さい体に大きなカンバスを担ぎ、「荒城の月」を口笛しながら、ちょっとせっかちに神戸の坂をのぼる姿は忘れられない。アトリエで人物画を描き続ける同じ神戸在住の小磯良平画伯と対照的に、徹底して風景画にこだわった。異人館の前で画伯がカンバスを広げると住民たちが集まってきた。子供たちのためにいつもポケットに飴を忍ばせていた。異人館の住民には孤老も多くいた。ロシア・ロマノフ王朝ゆかりの人、清朝末期の富豪の末裔・・・それぞれが歴史の転換の中で流浪し神戸にたどり着いた。そして孤独の中にその晩年期を過ごしていた。そんな彼らの前に現れた明るく屈託のない小松画伯は一瞬の日差しのよう映ったのかもしれない。画伯が口笛を吹きながらスケッチを始めると異人館の主たちもカンバスの前に近づいてきた。

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▼小松益喜画伯の画風は徹底した写実主義だった。目の前にあるものはなんでも忠実に描いた。レンガの積み方もイギリス式、フランス式いろいろあるが、それぞれの違いまでをも正確に再現した。徹底した写実だが出来上った異人館のある風景はロマンに満ちたひとつの理想郷を築き上げていた。その異人館の世界が崩れ落ちた。画伯はどれほどショックを受けているだろうか。
▼小松邸前のレンガの門柱は崩れ落ちていた。呼び鈴は通じなかった。アトリエの扉を叩いた。
中からなつかしい声がした。小松画伯の娘、初実さんだった。初実さんは行動派のカメラマンとして世に知られていた。アサヒグラフを中心にパリ・ダカの壮絶な闘いぶりをリポートしたり、中東の紛争地帯にも果敢で出向いていた。時折、神戸に戻り、相変わらず、異人館を描き続ける写実派の父を前に「不恰好な電信柱まで描くのはやめなさい。写実はカメラマンにまかせて」などと初実さんが言うと、画伯はむきになって反論する・・・そんな父娘の微笑ましい口論がなつかしい。。
▼震災の朝、画伯のカンバスが崩れ落ち、画伯の婦人・ときさんがその中に埋まった。闇の中で母を救い出した時の様子を初実さんは語った。画伯は、数ヶ月前から東京の長男の家で暮らしている、という。90歳近くになり体も弱った画伯にはこの震災ののことは伝えていない、という。それを聞いてほっとした。
▼その夜はまだ余震が続いていた。おそらくこれからやらなければならないことが山のようにあるであろうに、その夜、初実さんは神戸の町の下を走る活断層のことについて熱く語った。そして、大学に通って地球の地質の構造を学びたい、という希望まで語った。相変わらずのその旺盛さに圧倒された。実際、その後、初実さんは大学に通い始めた。
▼小松画伯は2002年6月、逝去された。東京に移り住んでからも、東京駅舎などに車で連れていってもらいスケッチを続けた。手が震えて思うようにならなくなりイライラし周りを困らせたこともあったが、絵を描くことを断念したあとは仏様のようにやさしくなったという。震災後、小松画伯が神戸を再訪したのかどうかは、まだ確認していない・・・。

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▼1995年1月、初実さんと話した翌朝、小松邸近くの小学校に出かけた。そこには家を失った人が避難していた。仮設のトイレ、風呂、なにもかも大都市・神戸からは想像できない風景だった。しかし、そこでも人々は淡々と時間の流れに乗っていた。学校の近くの公衆浴場、主人が水を無料で提供した。住民たちの静かな列ができていた。

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