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2010年08月21日

●御恩送り


オオケタデ(大毛蓼)/タデ科イヌタデ属。インド、東南アジアヤ中国南部まで至るところで自生。原産地は分からない。
 日本へは江戸時代末期に観賞用とシテ輸入された。文明開化の花だ。
現在では空き地や畑の周縁に野生化している。
花言葉は思いやり、雄弁。

▼幕末に観賞用として西欧から入ってきた植物は多い。文明開化とともに入国し、それから150年を経て、各地の野原に自生し、飽きっぽい新しもの好きの日本人の興味が薄れても、たくましく花を咲かせる彼らに「勝者」のメダルを贈ろう。畦道にはっとする白い星のような花を咲かせる「玉簾」、そして淡い紅色の花列を風に揺らすこの「大毛蓼」は、文明開化とともに日本にやってきて、いまや日本の夏の野にすっかり馴染んでいる。
▼新宿イ・紀伊国屋サザンシアターで、井上ひさし追悼公演「黙阿彌オペラ」を観た。
 時代は幕末から明治にかけての、日本の動乱期。いつまでたっても芽がでないことに絶望し、両国橋から身を投げようと狂言作者・河竹新七(黙阿彌)が、偶然にも隣りで身投げしようとした五郎蔵と出会ったところからはじまる。舞台は全場を通して、両国橋西詰めへ三百歩、柳橋へ二百歩の距離にある「仁八そば」屋の店内。偶然にも店に集まった、新七はじめ、素性も様々な人々の28年間の波乱万丈…。

▼厖大な科白の音色が「仁八そば」の店内で渦巻き、様々な人生が絡まり合う。それを浴びているうちに、ああ、こんな場所があったらなあ、このそば屋こそが理想郷かも知れないなどと思っている。劇が終わっても、その科白の余韻がいつまでも残り、帰りに文庫本になっている戯曲を読み返していると、再び劇を観にいきたくなる。

▼この戯曲は、観客によって、時代によって、たたきつけられる科白が自在に変幻する。2010年8月、前代未聞の「気分の時代」に身を置く、今夜の私は、文明開化の中で外国要人のために、西洋オペラを書くように強要さるも頑として受け入れない新七の言葉に、敏感に反応する。

「 新七:・・・五郎蔵さんたちはお金をもうけるためには使っている。しかし西洋にどうして銀行というものができたのか、それを考えるためには、それこそ一匁の脳味噌も使っていない。
 四人(ぽかんとしている)・・・・
新七:お金のやりとりをうまくやる仕組みがどうしても必要だどいう、世間という大桟敷の思いをがっしり受け止めて、その思いを拠り所に、それこそ脳味噌がなくなるまで考えてやっと仕出かしたものが、西洋の銀行なんじゃありませんか。それをこっちは一匁の脳味噌を使おうとせずに、出来上がった形だけを取り込む。それじゃまるで声色屋ですよ。
五郎蔵:声色屋だと?
新七:ああ、開化にのぼせ上がった西洋の声色屋。」
「新七:芝居小屋の狂言作者部屋からはそう見えるということなんですよ。御一新は大がかりな御家騒動、それもてんでなってない御家騒動。なにしろ大桟敷の御見物衆は置いてきぼりですから。そうも見えますな。
五郎蔵:ちくしょう・・・・!支配人。
孝之進:電信機、鉄道汽車、そして蒸気船と、人間業では出来ないようなものが次々に入ってくる。これらの文明を取り入れちゃいかんというのか。新七さん、この国は、世界から取り残されたままでいいというのかね。
新七:つまらない語尾咎めはしたくありませんが、電信機もなにもかもすべて人間業でしょう。西洋の人間がそれを仕出かすのに、どう脳味噌を使ったのか、そこから始めないと、なにも始まらないと云っているんです。小器用に西洋の上っ面の上前ばかりはねていていいのか・・・・
孝之進:・・・・。
五郎蔵:副支配人。
久次:始めから始めるなんて、そんな悠長なことは云っていられないんだ。おくれているんだから、日本は。
新七:急げばきっと薄いところが出来てくる。そしてかならずやその薄いところから破れがくる。芝居の筋書きだってそうですからな。急いで、いい加減に始めると、きっとあとで痛みがくるんです。・・・・」

▼先日、井上ひさし氏の三女、麻矢さんの話を聞く機会があった。麻耶さんは昨年から「こまつ座」(井上作の戯曲のみを上演する演劇制作集団)の社長を務めている。闘病する父が麻矢さんに「井上ひさしの芝居」を伝えていく仕事を託したのだ。父は残りの時間を、麻矢さんの教育に費やした。毎晩、父は電話をかけ、「こまつ座とは?」「この芝居の意味は?」と問うてきた。父が亡くなった今でも不意に電話がかかってくるような気がする。
▼亡くなる3週間前に、父は新作の「木の上の軍隊」の執筆を断念した。その代わりに父は「黙阿彌オペラ]を再演したい、と言い出した。さっそく、共催者や演出家にあたったが、皆、すぐに同意してくれなかった。それを伝えると父は激しく叱責した。「それを説き伏せてくるのがオマエの仕事だろう。」それから朝まで数時間かけて、父娘は「なぜ、この芝居をやりたいのか?」相手を説得する言葉を一つ一つ、検討した。「この芝居には『今という時代』の要素がすべて詰まっている。」「日本語の美しさ、面白さの財産目録にもなっている。是非、演出してほしい。」  この日以来、父は娘を叱ることもなく、こまつ座はもうオマエに任せたよ」というばかりになった。
▼あの日の、痲矢さんの話には、芝居に対する熱い気持ちが隅々にまでこめられていた。
「偶然、芝居小屋に居合わせた観客、この一回きりの空間に作家、演出家、役者が交わり、全くあたらしい世界が生まれる。一回一回が全く違う空間。観終わった後、お客さんが、『自分人生もまんざらでない』と思えるのがいい芝居だと、父はいつも言っていました。」 
▼あの日の痲矢さんの言葉が、今度は芝居の科白となって浮かび出る。父と娘がつれ合いながら共演しているようだ。

「新七:生きているからには心に様々な屈託が溜まる。その屈託の大きな塊を、いい話、おもしろい話、悲しい話で、笑いや涙といっしょに西の海へさらりと捨ててしまいたい、御見物衆のそういう思いで芝居小屋はいつもはちきれそうです。そしてどなたも、いい科白を聞きたいんだ、耳にこころよい言葉で心の按摩にかかりたいんです。」
「新七:そういう御見物衆が身銭を切って観てくださるからこそ、どこの芝居小屋の桟敷にも大きな力が宿るんです。すべての拠り所になるような力、その力がすべてを裁くんです。作者を、役者を、座元を、そしてひょっとしたら御見物衆そのものをもね。わたしに引き付けて云えば、桟敷に宿るその力、すべての拠り所になるその力を砥石にしなければ、一言半句も書けやしません。」

▼今後、新作の作られることのない「こまつ座」を率いて痲矢さんは、残された60作を一つずつ、再び世に送り出す。その中に散りばめられた、父の言葉を、娘は一つ一つ反芻して、新たな命を吹き込むことになる。私たち観客も、目撃者、いや共演者となって、これからも芝居小屋に通い続けよう。

「黙阿彌オペラ」の中に、心にしみいる、言葉があった。「御恩送り」


おせん:ずっとあとになって、こう気がついたんです。そうか、あの朝の光景を言葉にするとおばあちゃんがよく云う御恩送りになるんだわって。

新七:(噛みしめる)御恩送り。

おせん:(頷いて)お三味線にお唄にそば打ちに煮物、みんなおじさん方やおばあちゃんがあたしに仕込んでくださったもの。そのあたしが生まれて初めてなにかのお役にたつことになった。相手がたとえどこのお人であれ、これまで仕込んでいただいたことを一所懸命にやって、たのしんでもらうのがいい。そうすればおじさん方から受けた御恩が広い世間を回りだす…。

※「こまつ座」次の公演は、11月12日?21日 紀伊国屋サザンシアター
   二つの朗読劇:「水の手紙」「「少年口伝隊一九四五」
http://www.komatsuza.co.jp/contents/performance/index.html

 参考:産経新聞「父を想えば」

2010年08月16日

●根府川のカンナ

カンナ

 Canna lily


原産地は熱帯・亜熱帯。江戸初期に渡来にし日本各地に広がった。

宿根草の多年草、根茎から増やすことができる。茎は直立し、紫色または緑色。葉は広く長さは30センチくらいある。
夏から秋にかけて開花し、赤・黄色・ピンク・白、黄色に赤の絞りや赤の水玉模様のある花を開く。
 がく片3、花弁3個、花弁化した雄しべ3本。

花言葉は、尊敬、情熱、妄想、疑惑

▼酷暑の夏は太陽を浴びながらまっすぐに燃え盛る赤いカンナの花。上の写真は、8月はじめ、広島・平和公園の中で見つけた。
平和公園はもともと、広島一の繁華街だった。被爆後、町の瓦礫や無数の身元不明の遺体の上に盛り土をして公園とした。もとの地面より70センチ高くなっている。その盛り土に根を張り巡らし、真っ赤な花を咲かせるカンナには被爆65年を凝集した執念のようなものを感じる。意志を持った墓標のようにも見える。


▼終戦の翌日見た赤いカンナに強烈な啓示を受け、それを詩にたくした茨木のり子の「根府川の海」という詩が好きだ。いつか海辺の無人駅・根府川駅に咲く赤いカンナを見にいきたいと思いながら何年も過ぎた。

▼8月14日、朝日新聞の夕刊の一面を見て驚いた。根府川駅のホーム越し、相模の海を背景に咲くオレンジ色のカンナの花々の写真が掲載され、その下に茨木のり子の「根府川の海」が載せられている。短いルポもさわやかだ。こういう企画ルポを、夕刊とはいえ、一面トップに持ってくる編集長はなかなかの目利きだ。うれしくなった。よし、これを機会に自分も根府川駅に行ってみよう。

▼16日、65年前、茨木のり子が通過した同じ日に、カメラを持って、根府川駅を訪ねた。朝日新聞の写真のように、ホームに沿ってカンナが並ぶという姿は撮れなかったが、海を背景に点在するカンナを自分のカメラにおさめることができた。


▼残念なことに、記事にも書かれているように、65「年後の駅前のカンナはどれもオレンジ色で、茨木のり子が見かけたような赤い花は見つけられなかった。

無人駅、蒼い海を背に風にそよぐカンナは赤い花であってほしい。もし、花が赤色でなければ、あの詩は生まれなかったのではないか。


         根府川の海               茨木のり子

 根府川  東海の小駅   赤いカンナの咲いている駅
 
たっぷり栄養のある 大きな花の向こうに いつまでもまっさおな海がひろがっていた

 中尉との恋の話をきかされながらも 友と二人ここを通ったことがあった
 
 揺れるような青春を リュックにつめこみ  
 動員令をポケットに ゆられていったこともある

 燃えさかる東京をあとに ネーブルの花の白かったふるさとへ
 たどりつくときも あなたは在った

 丈高いカンナの花よ おだやかな相模の海よ

 置きに光る波のひとひら ああそんな輝きに似た 十代の歳月

 黒船のように消えた 無知で純粋で徒労だった歳月 うしなわれたたった一つの海賊箱

 ほっそりと 蒼く 国を抱きしめて 眉をあげていた 菜っパ服時代の小さいあたしを
 根府川の海よ 忘れはしないだろう?

 女の年輪をましながら  ふたたび私は通過する 
 あれから八年 ひたすら不敵なこころを育て

 海よ あなたのように あらぬ方を眺めながら・・・・・・・・・・・・・・・。

▼ 無人駅のホームでぼんやり海を眺めていると、カメラを持った青年に声かけられた。鉄道マニアだというその青年にうながされて駅の近くの根府川鉄橋を見に行くことになった。
 海岸沿いの斜面にある集落の坂を下って鉄橋の近くまできた。淡い桃色のサルスベリの花の向こうに赤い鉄橋。可憐な鉄橋だね、と言うと青年はわがことのように誇らしげに頷いた。
 65年前のきょう、根府川の駅に停車した列車の窓から、海を背に咲き誇る赤いカンナの花々を、ぼんやりみつめた麗しき乙女。やがて、彼女を乗せた蒸気機関車はゆっくり無人駅を抜け出し、この鉄橋を渡り、戦後に向かって一気に滑り出したのだ。



▼列車が来るまで撮影を続けるという青年を残し、再び、根府川の駅に戻った。
40度近い、この夏一番の猛暑の中、たどりついた駅の山側の広場前で。赤いカンナの花を一輪、見つけた。強烈な太陽光を浴びて、黒ずんで輝くその赤は燃えつきたように咲いていた。。

2010年08月12日

●御巣鷹山で見た花   反魂草


ハンゴンソウ 反魂草

Senecio cannabifolius


キク科キオン属

夏から秋にかけて、本州の中部以北の山地で、黄色い花火のような花を咲かせる。葉っぱが深く裂けているのが特徴。「反魂」とは「死者を蘇らす」という意味。反魂草は、死者を蘇らす花である。

▼8月12日、御巣鷹山に登る。25年前、日航1ジャンボ機123便が墜落した山の斜面には、いくつもの墓標が点在する。その間、黄色い菊の小花が可憐に咲いていた。帰って、その花の名前が「反魂草」と知った。「反魂」とは死者を蘇らす」意味だという。墜落当時、真っ黒い灼熱の荒野だった御巣鷹の斜面は緑で鬱蒼としている。その中を転々と咲くこの草花は、だれかがそっと種をまいたのだろうか、それとも風に乗って、運ばれてきたのだろうか。

▼どこかで、誰かに不義理をしていそうで、気になることがいくつもある。そろそろ、その一つ一つをチェックリストに印をつけるように整理したい、と思うようになった。御巣鷹に登ることもその一つだった。
 私の生まれは1953年の8月12日、その私の32歳の誕生日に史上最大の航空機事故をが起こった。当時、テレビ局の駆け出しだった私は、すぐにスタジオに入り、飛び込んでくる乗客名簿を手にそれを画面表示用に手書きで書き写す、という作業をひたすら続けた。その時、いつか、事故現場を訪ねなければ、と思った。
▼それから、毎年、誕生日がくるたびに、そう思いながら25年が過ぎたが、数日前、取材で御巣鷹に入る後輩から「いっしょに行きませんか。」と誘われた。これで、長年の宿題を果たすことができると思い、同行させてもらった。

▼8月11日の午後、上野村の役場の前の河原に各地からやってきた遺族、JAL関係者、地元の人々が集まる。長年培われた方法に従ってそれぞれが整然と儀式の準備に入る。遺族たちは川面に向かって、金色の造花を一本一本、差し込んでいく。盆花の数は520本、事故の犠牲者と同じ数だ。その盆花の道の先で、男たちが川に入り、灯篭を流す場所を作っている。石を運び、うまく灯篭が流れて行くように試行錯誤する。男たちは主にJALの社員、そこに遺族も加わっている。地元のボランティアのグループがアコーディオンの演奏を始める・・・・すべて、この25年の間に培われた流れだ。その整然とした準備に大勢のマスコミ陣が群がる。
<▼日没の頃、墜落時刻の18時56分、灯篭流しが始める。
河岸には、日航機事故の遺族だけでなく、JR西日本福知山線事故、信楽高原鉄道事故、中華航空機事故、明石歩道橋事故の遺族らも集まってきた。四半世紀たって御巣鷹は、事故の再発防止を願う、安全の聖地になった。


▼翌朝、御巣鷹に登る。険しい山道を想像していたが、道はきれいに整備されていた。毎月、JAL関係者、遺族、地元の人々が山に入り整備してきた。その25年の集積だ。
 
車を降りて30分ほどの山道をゆけば、頂の昇魂の碑に着いた。その間、緑の斜面のあちこちに、墓標が点在していた。犠牲となった乗客は0歳から80歳まで。509人のうち、223人が出張や商用、そのうち企業の管理職は150人を超えた。家族や同僚などと複数で乗った乗客は296人。
 まさに社会の繁栄の縮図が子の山肌に激突して消えた。

▼ここは「彼岸」なのかもしれない。人々は、「此岸」の人々は、盆になるとこの「彼岸」にやってきて再会を果たす。

地獄絵を化した残忍な山。
ここを何度も登るにつれ、やがて人々の心は浄化され、「生き抜く」力を授かるのだ。

25年間、遺族の結束を進化させた8・12連絡会の代表、美谷島邦子さんは今年「御巣鷹山と生きる」という本をだした。息子の健君を9歳で失った邦子さんの言葉。

  喪の悲しみは乗り越えるものではない。
人は悲しみに向き合い、
悲しみに同化して、
亡くなった人とともに生きていく


▼遠くの山並みの中に、U字型に窪んだ森が見える。これは、激突する寸前、日航機の翼が削り取ったものだと聞いた。


▼昇魂の碑の近くに黒く焼け焦げた大木がそびえていた。

四半世紀の残骸が根を生やし、今も聳えたっている。
周りは、何事もなかったように緑の生命力に包まれていく中で、この焼け焦げた大木は「忘れられてなるものか」と決意を示しているようだ。


▼麓への帰り、マイクロバスの中で、美谷島さんといっしょになった。彼女の静かな落ち着きの中に、凛とした光を感じる話に耳を傾けた。
 亡くした息子の分まで生きると決意した母は、風化という無作為に抗して、歩きつづけている。
「マスコミに追い回されることも辛かった。しかし、それ以上に、遺族にとっては、忘れ去られることが、一番怖い。」

なぜ、御巣鷹に来たのか?

ひんしゅくを買うかもしれないとおもいつつ、「あの日、8月12日は自分の誕生日だ」と話した。彼女は驚いたように反応してくれ、こう言ってほほ笑んでくれた。

  「忘れられない日ですね。」