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2014年01月26日

●乙女の戸惑い


キンセンカ(金盞花)/キク科キンセンカ属。地中海沿岸原産の一年草。寒さに強い花で暮れから3月ころまで咲き続ける。茎の先端に径5?6cmの花を一個つける。舌状花は赤味を帯びた黄色系で花色の変化が多く,重弁品も多い。室町時代の末期には渡来、唐金盞花とよばれていたので中国経由で入ったと思われる。花言葉は、乙女の美しい姿・失望・悲しみ・用心深い・悲嘆・別れの悲しみ、不安・疑惑・嫉妬(仏)
黄色い金盞花の花言葉は、悲歌・繊細な美。橙色の金盞花の花言葉は、静かな思い

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午後の斜光が、キンセンカの淡い黄金色を包み込んでいる。この一輪の花を、15日に逝った詩人・吉野弘にささげたい。


夕焼け  吉野弘

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に。
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をギュッと噛んで
身体をこわばらせて???。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。
 

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キンセンカの花言葉は、乙女の静かな戸惑い。
 

2014年01月25日

●天と水と人で咲く

▼今日の花は、手のひらに咲いた花にする。「花は咲く」のギターの音色に合わせて咲いた手話の花だ。

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▼1月22日の夕方、福島市の福島赤十字病院のロビーに、ギターの音色が緩やかに、響き渡った。カーネギーホールの演奏で「六弦の魔術師」と異名をとった国際的なギタリスト、長野文憲さんの被災地を巡る旅に同行した。
▼長野さんとの出会いはもう20年前になる。広島に勤務していたころ、市内の「スタンド」で、心の隅々まで流れ込むようなギターの音色を生で聞く機会に恵まれた。以後、奏者・長野文憲さんとのつきあいがはじまった。
 長野さんは、被爆地・長崎で生まれ、焼け焦がれた大浦天主堂を遊び場にして育った。その後、広島に移り住み、ギタリストの道を歩み始める。
 2011年の東北大震災の直後の8月、ギターを持って、被災地に入った。混乱の続く福島赤十字病院の講堂でギターの演奏をした。周りには段ボールが積まれ、わずかな空間の中での演奏だった。意図したわけではないが、偶然、その日は8月6日だった。

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▼それから4年、毎年、赤十字病院を訪れている。長野さんは、今回、NHKのスマイル・キャラバンと連携して、この病院を皮切りに仮設住宅を回った。
▼3年すぎても、放射線への不安の中にある福島の状態は深刻だ。福島赤十字病院には今も毎日50人の子供たちがホールボディカウンター室にやってくる。福島市内には、仮設住宅に入らずに、アパートで一人暮らしをする高齢者が点在している。そういう人たちの心のケアが時間の経過とともに見過ごせない問題となっている。長野さんのコンサートの知らせは病院職員が手分けし一人暮らしの人たちにも伝えられた。
「日本の唱歌メロディ」「アルハンブラ宮殿の想い出」「ラ・クンバルシータ」「さくら」・・・・・被災から3年目、静かに奏でられるギターの音色ほど癒してくれるものはない。

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▼次の日の朝、福島に冷たい雪が舞った。訪ねた会津若松市郊外の仮設住宅は雪の中、軒先には長いツララが伸びていた。あちこちで雪かきをする人がいた。この仮説住宅には、福島第一原発の1号機から4号機が所在する町、大熊町の住民たちが避難してきていた。
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▼長野さんの謙虚な語りに続いて、お馴染みの「禁じられた遊び・ロマンス」が静かに奏でられ、小さなコンサートが始まった。1時間の演奏は、格別であった。観客は、和やかに素直に、演奏に呼応した。すばらしい空間が出来上がった。

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▼仮設住宅のそれぞれの棟には目印として子供たちが描いた絵が貼られていた。その一つを写真に撮った。「天と水と人でさく」これも本日の花として登録しよう。

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2014年01月22日

●奇縁


 ユリノキ / モクレン科の落葉高木。5月?6月に高い梢の葉陰にチューリップ、あるいはユリのような黄緑色の花が咲くところからユリノキという名がついた。葉が着物の半天のようにみえるところからハンテンボクとも呼ばれる。明治7年頃、アメリカから渡来した。

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▼冬、裸となったユリノキが好きだ。突き刺すように紺色の空にまっすぐに伸びた幹、地面に這いつくばって見上げたショットを探っていると、日常の些事があほらしくなる。気が晴れてくる。
一笑されるかもしれないが、ユリノキとは不思議なつながりがある、と感じている。自分にとってのユリノキは、「2001年宇宙の旅」のモノリスのような存在だと思っている。なにか物思いにふけって歩いていると、不思議にユリノキが現れ、啓示をくれる、と勝手に思い込んでいる。
▼新宿御苑には、見事な二本の巨樹が聳えている。10年前、その威容を初めて見た時のことは忘れられない。ハクモクレンやシデコブシの新芽など目の前に現れるものをカメラにおさめて歩き、日本庭園から広場に入った時、二本の巨樹に出会った。

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▼新宿御苑は、江戸時代に高遠藩の下屋敷だったところを明治政府が近代農業試験場として使用していた。そのためモクレン、梅、桜・・古く立派な樹が多いとは聞いていたが、広大な芝生の広場の中心に聳える巨樹、それがユリノキだった。高さ40メートルはあるだろう。太い幹が3本、寄り添うように聳え立つ。さっそくシャッターを押しながら、久々に高揚する自分を感じた。
▼次の日、図書館の棚にある一冊の本を手にとった。毛藤勤治氏ノ「ユリノキという木」(アポック社)という本だ。さりげなく開くと、まさに昨日見た新宿御苑のユリノキの写真が零れ落ちてきた。
さらにキャプションを見て驚いた。そのユリノキこそ日本に渡来した初代だというのだ。その1本のユリノキから日本各地の並木道は始まった。ユリノキ二世達の四谷迎賓館前の並木道、丸の内の並木道・・・いすれも撮影したことがある木々だがそれらはみなこの初代の樹に連なっていたのだ。説明によると新宿御苑のユリノキは明治7年に植栽、樹齢は120年だという。
▼おおげさに言って、また失笑を買いそうだが、2003年のこの日、二本のユリノキの原点ともいえる巨樹と出会えたことに奇縁を感じる。明らかにここを起点に、私の第二の人生が始まった。
▼60歳の還暦の冬、御苑の二本のユリノキの下に立った。自分にとって、ユリノキはやっぱり「2001年宇宙の旅」の「モノリス」なのだ・・・その奇縁を自分勝手に意味付けてみると、このごろの憂鬱も吹き飛んでいくような気がする。

2014年01月21日

●ぶらりぶらり 揺れて


スズカケノキ(鈴掛木)/スズカケノキ科スズカケノキ属プラタナスと呼ばれ、街路樹ではおなじみの落葉高木。東洋種のスズカケノキ、北米種のアメリカスズカケノキ、その2種の雑種のモミジバスズカケノキがある。30メートル以上の巨木が多く、樹皮が大きく剥げ落ち、幹にまだら模様がある。秋から冬にかけ、直径3センチ以上の果実が枝に垂れ下がる。その姿が山伏の襟にかけた白い飾りを彷彿とさせるので、鈴懸木と名づけられた。プラタナスは葉が大きいことから、ギリシャ語の「広い」という言葉に由来している。
 プラタナス全般の花言葉は、天稟・天才・非凡   プラタナス(新緑)の花言葉は、天才・叡智。

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▼聳える鈴懸木の下にくる。今年も冬空に、無数の実が心細げにぶらりぶらりと揺れている。この鈴懸の枝枝を駆け抜けるとき、風はさぞかし愉快だろう。風につつかれて、ざわざわと忙しく揺れる無数の実は風が過ぎ去るとともにその振幅をゆっくりと整え、ふたたび地軸に向かってまっすぐ、何事もなかったようにぶらりと垂れ下がる。

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▼「公正中立について貴方はどう思っているのですか?」
先日、学生時代の先輩が編集長をするT出版社主催マスコミ志望の学生セミナーで、学生達に囲まれて質問を浴びた。
▼うまく回答ができたかどうか、自信はないが、もう一度、私の考えを整理しておきたい。私は、ある問題に対し 対立する主張あるいはイデオロギーがあった場合、Aという論陣とそれに反するBという論陣を均衡に並べて、よしとすることだけが公正中立だとは思わない。かといってAという論陣によりかかり、それを“装置”として提示することを許容するつもりはさらさらない。
▼私にとっての公正中立とは、あるテーマについて、その事の真相を組織や社会の常識にとらわれることなく自分の頭で考え抜く精神の自立を貫くことである。その悪戦苦闘のプロセスを率直に見せることが私にとっての“公共”だと思ってやってきた。
▼白か黒か、君は白派か黒派か・・・こうした思考の図式化が、これまで日本社会が育んできた行間を読みとる冗長性を切り捨てていっているように思う。私にとっての公正中立とは、白と黒の間を右往左往しながら、自分で思考し反芻するプロセスである。

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▼私が取り組んできたテレビの仕事にはそう簡単には割り切れない行間のカオスをあえて引き受けるのを良しとするところがあった。言ってみれば「中庸」の視点である。中庸というと日和見主義ととらえられそうだが、孔子が唱えた中庸の徳は決して投げやりなものではない。事の真相を組織や社会の常識に囚われることなく自分の頭で考え抜く精神の自立がこの中庸という言葉には託されている。かつてテレビの現場にはこの中庸の精神を持ちあわせた職人が大勢いたように思える。
▼デジタルの時代。0か1かの二進法の世界。映るか映らないかの世界、曖昧なゴーストのない世界・・・。それと併走するかのように、世の中には二元論が蔓延しているように思う。左翼か右翼か、勝ち組か負け組か・・・わかりやすい二元論の世界に人々の思考を押し込めて安易で稚拙な行動に駆り立てようとする空気が充満している。もっと思いのままに曖昧なプロセスを漂い中庸にたどり着く多様な道筋があってもいいのに。所属は見えても個人の顔の見えない世界・・・。

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▼生物の基本単位である細胞。我々の体は60兆の細胞から構成されているが、その一つの細胞は、かつて原始の海で対立する二つのバクテリアが融合したものだ。酸素という有毒物質(太古の地球では酸素は有毒であった)を出すどう猛なバクテリアを排除するのではなく、なんとその懐に包み込んだ異端のバクテリアが生き残った。そして爆発的な進化を遂げ、今私たちの体の基本となっている。対立するものと折り合いをつけて、飲み込んでその良さをしたたかに引き出す戦略を持つものだけが繁栄を維持できる、というのが生命の基本原理である。

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▼組織には、実に様々な考えや思想を持つ個性が集まっている。それぞれの個性が無数のベクトルで時代と格闘する、そのプロセスが総体として“公正中立”を奏でている。もし、この装置が二元論という図式に取り込まれて、「左翼か」「右翼か」、「保守か」「リベラルか」、「勝ち組か」「負け組か」に所属を求められ、それぞれの個性が自分という固有名詞を棄てるようなことがあれば、あっという間に、組織は機能不全に陥る。・・・・そんなことを学生に云いたかったのだが、どうもうまく伝わった気配はない。また、誤解されてしまったかもしれない。

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▼鈴懸の実のように、吹き寄せる風に右往左往しながら揺れに揺れても、やがて中庸なポジションに落ち着く、そんな姿勢を貫きたい。その根底に、公のために生きるという捨て身の覚悟を持ち続けたい。

 ※人間のアイデンティティは選択の余地のない単一基準のものだと主張することは、人間を矮小化するだけでなく、世界を一触即発の状態にしやすくなる。突出した唯一の分類法による区分けにとって代わるものは、われわれはみな同じだという非現実的な主張なのではない。われわれは同じではない。むしろ、問題の多い世界で調和を望めるとすれば、それは人間のアイデンティティの複数性によるものだろう。多様なアイデンティティはお互いを縦横に結び、硬直化した線で分断された逆らえないとされる鋭い対立にも抵抗する。お互いの違いが単一基準による強力な分類システムのなかに押し込められれば、われわれが共有する人間性は苛酷な試練を受けることになる。(アマルティア・セン「アイデンティティと暴力」より)                     

2014年01月20日

●速報!紅梅咲いた

紅梅/ バラ科サクラ属。原産地は中国中部以南。万葉の時代には渡来していた。当時は薬用として果実を重用した。花を観賞するようになったのは中国では6世紀、日本では8世紀頃。ウメの語源は、中国で青梅を薫製にしたものを烏梅(ウメイ)と呼んで薬用としていたことからきたという説が有力。花言葉は高潔、独立、忍耐、上品

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▼東京都練馬区光が丘。光が丘第三中学校校庭横。紅梅の花咲いた。今年は底冷えの冬の分、早春は着実に順序よくやってくるようだ。

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2014年01月19日

●黄色い歓声


ロウバイ(蝋梅) / ロウバイ科の落葉低木。花期は1月?2月、江戸時代の初期に中国から渡来した。唐梅(カラウメ)とも呼ばれる。花弁の色や感じが蜜蝋でつくったもののようなので「蝋梅」となったといわれる。花言葉は慈愛。

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▼家の近くの梅林公園の入り口に、蝋梅の花が咲いた。ろう引きしたような半透明の黄色い花弁が芳香を放つ。
▼赤い帽子の保育園の園児たちが二人一組、行列つくってやってきた。
その子たちのはずんだ歓声が、ひっそりとした枝々の下に鮮やかな生気をもってかけぬける。蝋梅の間を一塵の風が吹いた。春はここからやってくる。
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▼気配ということを考える。
「遠く北の海峡の海辺で蝶々が数羽戯れている。彼らの羽の動きがあたりの空気をわずかに震わせる。それだけのことで終わってしまうのが常だが、驚くことにしばしばその空気のかすかな動きが次々に伝わって大きな波動を呼び、ついに気圧図をもかえて、海峡の南に大風を発生させることがある。」(井上ひさし:あてになる国のつくりかた:科学者からの手紙 より) この現象をバタフライ効果というらしい。
ひょとしたらこの世の仕組みは、こうしたとてつもない"ゆらぎ”によってなりたっているのかもしれない。だとしたら、五感や六感を総動員して、"ゆらぎ”がおこる気配を感じとれるようになりたいものだ。

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▼この高層団地の谷間にも、まもなく春がやってくる。今年は去年のように唐突にではなく、なにやら様子を伺いながら、すーと入ってくる気配がする。
 「おじさーん。」黄色い声に呼びかけられて振り返った。「おじさーん。柵の中に入っちゃだめだよ。草をふんじゃだめだよ。」しかられておずおずと退散する猫背の中年が一人、それをみていた老夫婦が笑った。

2014年01月17日

●傾いた街路樹


▼ その日から5日後、メリケン波止場に船で入り、壊滅の街を歩いた。神戸は、二十歳代3年間住んだ忘れられない町だ。写真を撮りながら歩いた。かつて馴染んだ路地、その入り口のたばこ屋も壊滅していた。ネガに残る一コマ一コマを今見直すと、呆然として歩いたその時の空気がよみがえる。
▼崩れかかった家を一本の街路樹が支えている。木は、その朝、土中を張る根が激震を受け止めた直後、地上の幹が真横から崩れ落ちる家屋の衝撃を受け止めた。そして、数日、そのままの姿勢で、家屋が国道に崩れ落ちるのを紙一重で防いでいる。その横を、何気なく自転車や車が通り過ぎていく。崩れ落ちた街の中で多くの樹は傾いてはいたが、すくっと空に向かっていた。 「木はしなやかだ。」と思った。


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▼ 西から東へゆっくり歩いているうちに陽が暮れた。街を闇が走った。まるで映画のセットの中を歩いているようだった。その中で時折、スポットライトのようにあたりを照らす炎が点在した。住民が火を起こしあたっていた。皆、意外なほど淡々としている。数日前、家族を一瞬にした失った人もいるだろう。しかし、そこには整然とした気合のようなものが流れていた。リュックから新しい下着を出し手渡した。「お役に立てば」「ありがとう」 その人々の佇まいに、昼間見た街路樹と同じ"精気”のようなものを感じた。神戸の町では震災直後ショーウインドーを荒らす者やコンビニを襲う強盗も出現しなかった。関東大震災の時にあったあらぬうわさに踊らされたパニックも起きなかった。整然とした精気とともに、人々はじっと耐えていた。それは今でもすごいことだと思う。その意識の高さを誇りにも思う。


▼街を横断しながらめざしたのは、レンガの門柱のある屋敷だった。神戸に住んでいた頃、一人の画伯を知った。異人館ばかりを描き続ける小松益喜画伯、小さい体に大きなカンバスを担ぎ、「荒城の月」を口笛しながら、ちょっとせっかちに神戸の坂をのぼる姿は忘れられない。アトリエで人物画を描き続ける同じ神戸在住の小磯良平画伯と対照的に、徹底して風景画にこだわった。異人館の前で画伯がカンバスを広げると住民たちが集まってきた。子供たちのためにいつもポケットに飴を忍ばせていた。異人館の住民には孤老も多くいた。ロシア・ロマノフ王朝ゆかりの人、清朝末期の富豪の末裔・・・それぞれが歴史の転換の中で流浪し神戸にたどり着いた。そして孤独の中にその晩年期を過ごしていた。そんな彼らの前に現れた明るく屈託のない小松画伯は一瞬の日差しのよう映ったのかもしれない。画伯が口笛を吹きながらスケッチを始めると異人館の主たちもカンバスの前に近づいてきた。

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▼小松益喜画伯の画風は徹底した写実主義だった。目の前にあるものはなんでも忠実に描いた。レンガの積み方もイギリス式、フランス式いろいろあるが、それぞれの違いまでをも正確に再現した。徹底した写実だが出来上った異人館のある風景はロマンに満ちたひとつの理想郷を築き上げていた。その異人館の世界が崩れ落ちた。画伯はどれほどショックを受けているだろうか。
▼小松邸前のレンガの門柱は崩れ落ちていた。呼び鈴は通じなかった。アトリエの扉を叩いた。
中からなつかしい声がした。小松画伯の娘、初実さんだった。初実さんは行動派のカメラマンとして世に知られていた。アサヒグラフを中心にパリ・ダカの壮絶な闘いぶりをリポートしたり、中東の紛争地帯にも果敢で出向いていた。時折、神戸に戻り、相変わらず、異人館を描き続ける写実派の父を前に「不恰好な電信柱まで描くのはやめなさい。写実はカメラマンにまかせて」などと初実さんが言うと、画伯はむきになって反論する・・・そんな父娘の微笑ましい口論がなつかしい。。
▼震災の朝、画伯のカンバスが崩れ落ち、画伯の婦人・ときさんがその中に埋まった。闇の中で母を救い出した時の様子を初実さんは語った。画伯は、数ヶ月前から東京の長男の家で暮らしている、という。90歳近くになり体も弱った画伯にはこの震災ののことは伝えていない、という。それを聞いてほっとした。
▼その夜はまだ余震が続いていた。おそらくこれからやらなければならないことが山のようにあるであろうに、その夜、初実さんは神戸の町の下を走る活断層のことについて熱く語った。そして、大学に通って地球の地質の構造を学びたい、という希望まで語った。相変わらずのその旺盛さに圧倒された。実際、その後、初実さんは大学に通い始めた。
▼小松画伯は2002年6月、逝去された。東京に移り住んでからも、東京駅舎などに車で連れていってもらいスケッチを続けた。手が震えて思うようにならなくなりイライラし周りを困らせたこともあったが、絵を描くことを断念したあとは仏様のようにやさしくなったという。震災後、小松画伯が神戸を再訪したのかどうかは、まだ確認していない・・・。

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▼1995年1月、初実さんと話した翌朝、小松邸近くの小学校に出かけた。そこには家を失った人が避難していた。仮設のトイレ、風呂、なにもかも大都市・神戸からは想像できない風景だった。しかし、そこでも人々は淡々と時間の流れに乗っていた。学校の近くの公衆浴場、主人が水を無料で提供した。住民たちの静かな列ができていた。

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2014年01月16日

●まず咲く花

満作(まんさく)Hamamelis japonica Sieb. et Zucc マンサク科
花は1月?3月頃、葉よりも先に咲く。花には1?2cmでややちぢれた黄色の短冊形の花弁が4?5本ありそれを支えるように赤紫色のガク片がつく。マンサクの名前は花が寒い時期に咲くので「先ず咲く」の意味からつけられたとも、この木の花つきのよい年は五穀豊穣と信じられて「満作」に通じるとしてつけたともいわれる。 花言葉は魔力、霊感。

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▼マンサクには大きく3種類ある。日本原産の「マンサク」は黄色い花弁。葉の表面にはほとんど毛がない。「シナマンサク」はその名のごとく中国原産。花弁は黄金色。マンサクよりやや大きい。葉の表面には無数の毛が密集している。もうひとつは「マルバマンサク」。丸葉という名のように葉がマンサクやシナマンサクに比べて丸みを帯びている。日本海側の山地にはえている。

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▼シナマンサクの花。いつも目を見張るのは、その黄金色の花が、朽ち果てた枯れ葉の中からはじき出されるように咲く風景だ。腐敗の中から生まれ出るかそけき黄金の糸の姿には、大循環の中を巡る生命の定めがこめられている。開花の時、枯れ葉がかなり残っているのはシナマンサクの特徴だそうだ。枯葉が孕むマンサクの花

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▼シナマンサクの花を包む前の年の枯れ葉を見ると、確かに有毛だった。
「葉の表面が無毛ならばマンサク、有毛ならシナマンサク」

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2014年01月15日

●シクラメンの香り

シクラメン/サクラソウ科シクラメン属。
地中海を中心に自生しているが鉢植にされているのは、ギリシャ、トルコ、レバノンに自生するシクラメン・ペルシクムを親として改良されたもの。
花びらが上に反り返るので、篝火に見える事から牧野富太郎博士はカガリビバナ(篝火花)というをつけた。又、「ブタノマンジュウ(豚の饅頭)」という和名もある。これは、原産地の地中海地方で、その球根の形と実際に豚が球根を好んで食べるため、「ブタノマンジュウ(豚の饅頭)」と呼ばれていたのをそのまま訳したもの。
シクラメンの地下茎は、古代ローマではヘビの噛み傷を治す力があると言われ、お守りとして各家庭の庭に植えられていた。
 病気見舞いは「シクラメン」の「シ」と「ク」がそれぞれ「死」「苦」に通ずるとして縁起が悪いと言う人もいる。また、花が炎を連想させると言うことから新築祝いにも不向き。さらに「嫉妬」と言う花言葉もあるため、誤解を招くような相手にに贈らない方がいい。
シクラメン全般の花言葉は、はにかみ・内気・嫉妬・遠慮・切ない私の愛を受けてください・疑惑。

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▼シクラメンの花には香りがない。なのになぜ、小椋佳は「シクラメンのかほり」という題名をつけたのだろうか・・・

 真綿(まわた)色した、シクラメンほど、清(すが)しいものはない    
 出逢いの時の、君のようです
 ためらいがちに、かけた言葉に  驚いたように、ふりむく君に 
 季節が、頬をそめて、過ぎてゆきました

 うす紅(べに)色の、シクラメンほど、まぶしいものはない  
 恋する時の、君のようです
 木(こ)もれ陽(び)あびた、君を抱けば  淋しささえも、おきざりにして 
 愛が、いつのまにか、歩き始めました

 疲れを知らない子供のように時が二人を追いこしてゆく 
 呼び戻すことができるなら  僕は何を惜しむだろう

 うす紫の、シクラメンほど、淋しいものはない  後ろ姿の、君のようです  
 暮れ惑う街の、別れ道には  シクラメンのかほり、むなしくゆれて 
 季節が、知らん顔して、過ぎてゆきました

 疲れを知らない子供のように  時が二人を追いこしてゆく呼び戻すことができるなら  
 僕は何を惜しむだろう
 


▼シクラメンの花にこれといった香りはない。その事実を小椋佳は知っていたにちがいない。そしてあえて「シクラメンのかほり」とつけた。過ぎ去ったのは厳粛な事実ではなく曖昧な幻影だから。

2014年01月14日

●命日の花 2


ストック / 17世紀後半に渡来。茎や葉などが灰色の羅紗(ポルトガル語でラセイタ)に似ていたので「葉ラセイタ」と呼ばれていた。

▼ その瞬間がすぎると、まるでベルトコンベアーに乗ったようにすべてが動きはじめた。その日の夜、東京から到着した長男は嗚咽した。父親が仕事を口実に親業を放棄した我が家にあって、義父は父親がわりを引き受けてくれた。常に普通であることを好み、孫たちとも淡々と接し声を荒げて怒ることはなかった。静かな日常の流れを好んだ義父だった。
▼翌日、妻と次男、三男がやってきた。玄関口で3人の気配がした時、長男は「ついに来たか」と呟いた。その思いが痛かった。妻は冷たくなった父の顔に両手をあてて涙にくれた。次男と三男もいつまでも肩を震わせていた。その時、これは今でも信じているのだが、義父が笑った。ほっとしたように笑った。
▼儀式に向かってすべてがベルトコンベアーに乗ったように進んでいった。その中で、驚いたのが長男のテキパキとした身のこなしだった。何日間かの儀式の流れの中で、長男が大人びていくように思えた。死とは逝くもののためにあるのではなく、残されたもののためにあるのではないだろうか。告別式の弔辞を詠むように指示をした。それも固辞することもなく素直に長男は皆の前に立った。「おじいちゃんを嫌いになったことは一度もなかったよ。」自然体で切々と語りかけた。
▼あれは義父が遺してくれた長男への成人の儀式ではなかったのか。今、そう思う。それから1年後、長男は新しい背広を着こんで成人式にでかけていった。しかし、君にとっての成人式は1年前のあの出来事の中にあったのではないか。
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▼きょうは義父の命日。
早春の南房総半島から義父が送ってくれたストックの花束、花言葉は、豊かな愛、絆、未来を見つめる・・・・

●命日の花 1

 

ストック / アブラナ科の一年草。自然開花は11月から4月。
花の色は白、桃、赤、紫。花言葉は、豊かな愛、幸福、未来を見つめる。長い花穂に優雅な色彩の一重咲き、八重咲きの花を多数つける。

▼成人式の華やぎに呼応するように花屋の店先に並ぶストックには格別の思い出がある。
12年前の早春、南房総半島を旅した義父と義母から香を漂わせたストックの花束が送られてきた。その淡く清楚な佇まいに感心し、ベランダに持出してシャッターを押した。今日掲載したのはそのとき撮った写真だ。
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▼仕事に託けて、家庭を振り返ることの少ないまま20数年が過ぎた。その間、妻は3人の子供を育て、義父と義母が妻を支えた。
▼11年前の正月、父親がわりに子供たちを可愛がってくれた義父が肺炎を患った。その日、仕事の区切りがついたということで、病室を訪ねた。午後3時、義父は酸素マスクをつけ苦闘していた。今しがたトイレに立ち上がったのが悪かったのか急に容態が悪くなったという。ベットの手すりを握りしめ、壮絶な格闘がつづいた。
▼4時近くになった。ベットの横に置かれたテレビが「青年の主張」を映し出している。その日は成人式だった。喘ぎながらも義父はテレビを観たがった。4時になれば大相撲が始まる。これを楽しみににていた。郷土出身の幕下力士の取り組みを観ることになっていた。しかし、テレビのある方向へ寝返りもうてなくなっていた。それでもテレビを観ることに義父はこだわった。テレビを見て過ごす、自分の日常をしっかりと握っていたい、そういう意志が強く伝わってきた。ベットの右側にあったテレビを反対側に移動した。4時になった。しかし大相撲は始まらなかった。シンガポールを訪問中の首相の緊急記者会見が始まったからだ。いつもの時間が狂いはじめた。
▼呼吸はどんどん苦しくなる。看護婦がさかんに個室にうつるようにすすめる。このままでは夜になっても帰るわけにはいかない、つきっきりで看病したい、そのためには大部屋を出て個室に移ってほしい、義弟の説得にようやく義父は承諾した。看護婦達は、その合図を受けると、驚くほどのスピードでベットを動かしはじめた。それは一見、てきぱきとした動きにみえるが、今の義父は、御盆にひかれた水のようだ、あまりにもぞんざいな扱いのように見えた。「もっとゆっくり、ゆっくり」ベットを押さえスピードを制御しようとした。その途中、義父の容態は最悪になった。なんとか必死で酸素を吸おうとするが叶わなかった。それでも諦めずに格闘する、その強い意思が強烈に伝わってきた。ひたすら体を摩りながら祈るしかなかった。義弟が叫んだ。「おやじ、まだやりたいことがあるんだよな。生きたいんだよな。」「おやじは生きたいんだ。」 懸命に生き抜こうとする意志が息子に強く伝えられた。あの緊迫の時間と空間の中に、凝縮された何かがあった。吉本隆明の言葉だったか・・・"人はその生涯を終える直前、生涯を賭けた最大の戦いをしなければならない、しかもその生涯を賭けた戦いは自分が勝つ見込みはまったくなく必ず負ける戦いである。それでも人はその戦いに挑まなければならない”・・・
▼あの壮絶な場面は今も鮮明に思い出せる。一生、忘れることはないだろう。そこに居合わせたものは、義父から「生きぬいく」ことの荘厳さを確かに受け継いだ。

2014年01月13日

●冬の夏みかん

夏蜜柑/夏橙(なつだいだい)が正式な名称。1700年頃(江戸時代中期)、現在の山口県長門市の青海島、大日比海岸に漂着したかんきつの種子を西本於長という女性が播いたのが起源。その原木は昭和2年4月8日に史跡名勝天然記念物に指定され、現在でも、西本家の庭で保存されている。
夏みかんと八朔(はっさく)、外観は似ているが、味は全く異なる。甘夏と呼んでいるのは夏みかんの改良種であり、本来の夏みかんは原産地の萩と和歌山県の一部のみで栽培。大分県原産「甘夏」と宮崎県原産「日向夏」などを含めて夏みかんと総称されることもある。蜜柑(みかん)の花言葉は、木が「寛大」、花が「清浄」。

▼ 冬の日差しを受けて、夏みかんの黄色が暖かく際立っている。その厚い皮の中では静かに果汁が滲み出ていることだろう。夏みかんの果実は秋に実る。この時、あせって採ってはいけない。あまりにも酸っぱくて食べられないからだ。そのままじっと待ってほしい。その黄色い皮の上に雪が降り積もってもじっと待つ。冬の冷気を潜り抜け春一番に実を揺らす黄色い姿を辛抱強く見つめながら、じっと待つ。果実は初夏になってようやく食べごろになる。夏みかんと呼ばれる訳はここにある。

▼子供の頃、故郷の家々の庭に夏みかんの実がいつまでも垂れ下っているのが不思議だった。なぜ食べてしまわないのだろうかと不思議に思っていた。そのじれったい黄色い実が、ある時突然、爆発するのではないかという愚かな妄想に駆られたこともあった。重く垂れ下る夏みかんは黄色い爆弾だと思った。梶井基次郎の「檸檬」を知った時、自分と同じ思いを持つ人がいるものだ、となぜか勝ち誇った気持ちになった。本屋に入り積み上げた本のてっぺんに檸檬を載せ逃げる主人公の弾む気持ちに無理なく共感できた。

▼日差しを受けて鮮やかに浮かび上がる冬の夏蜜柑。重く垂れ下ったその姿には、この退屈でつまらない日常を一気にひっくり返し、忽然と予想外の展開に連れ込む魔性がある。
 蜜柑にはそんな爽快で危険なかおりがある。

2014年01月12日

●吾も赤いぞ!!

吾木香・吾亦紅・割帽額・地楡(われもこう) Sanguisorba officinalis
バラ科ワレモコウ属

 学名のSanguisorbaは、ラテン語で「血」を意味する言葉と「吸う」を意味する言葉を組み合わせたもの。なんだか恐ろしい名前だが、古くから止血薬として用いられていたところから名付けられたらしい。漢方では「地楡(ぢゆ)」、葉が楡(にれ)に似ているところから名付けらした。その根を煎じた汁で口内炎や喉の痛みの時のうがい薬に使われる。
 花びらのように見える部分はガク。花びらは退化している。
ワレモコウの花言葉は、感謝・変化・愛慕

▼年始、あるトップリーダーの年頭挨拶で取りあげられた、ひとつのデータを聞いた時、秋の野辺に咲くワレモコウの姿が頭に浮かんだ。季節をはずしているが、花写真をとりだした。

▼年頭挨拶で紹介されたのは、TBS調査情報2014・1/2「新しい大人社会の到来世代調査から見える明日への『掛け算』」(著:博報堂新しい大人文化研究所所長阪本節郎) 超少子高齢化社会に向けて人口構造が劇的に変化する時代を眺望したものだ。
▼昨年の9月現在で、総人口は約1億2700万人、うち成人は訳1億5000万人。そのなかで、50歳以上は5700万人で「大人の2人の1人は50才以上」、40才以上になると7503万人で「大人の10人に7人は40才以上」となる。これが東京オリンピックの行われる6年後の2020年には「大人10人の6人は50代以上」、「大人の10人に8人が40歳以上」という。ちなみに2014年の日本人の平均年齢は46歳を超えた。
▼この調査は、人口構造の劇的変化を眺望した後、その高齢者たちの意識をあげ、本人たちがシニアと呼ばれることを拒否し、いつまでも自分は若くありたいと願い、積極的に資金運用や消費活動に関わる意識変化が起こっていることを取り上げている。
▼「新しい大人社会」はどうやら、高齢者たちの引退拒否、さらにいえば「稚拙化」「未成熟化」を内在し、これまでの「枯れた老人」の意識を一変しているようだ。

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▼秋の野辺に、ワレモコウが暗紅色の小さな花を咲かせている。ワレモコウは薔薇科の植物である。ワレモコウという名前は、「吾亦紅」とも書く。同じ薔薇科の真紅の薔薇の花のように派手やかな美しさはないが、「俺だって薔薇科だ。俺だって赤いぞ。」とピンとその存在を誇示しているような風情がぴったりだからだ。「吾も赤いぞ」   伸び盛りの若者達、油の乗り切った職場の若手の働きぶりを横目で見ながら「俺だって。」と粋がって見せる自分を思い出すような名前だ。ただ、吾亦紅が花として誇示しているのは実はガクらしい。本当の花はとっくに退化してしまっているのだという。
▼「自分は若い」とピンとするのはいい。しかし、誤解はしたくない。これまでの組織にあぐらをかいてそこで地位保全のためにエネルギーを費やすことはやめなければならない。組織運営は40代前半を核にして、どんどん、新陳代謝すべきだ。そして、われわれ、「新たな高齢者」は、一人一人が自分の中に「ナノ・カンパニー」の旗を掲げ、一人一人が起業し、多彩な社会貢献の道を切り開くべきだと思う。生き方には引退がない。それがワレモコウ精神の神髄だとしたい。

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▼それにしても、東京都知事選の候補者の平均年齢の高齢化が気になる。ここに40歳代の実務家が男女問わず、次々と名乗りを上げてほしい。我々、「新たな高齢者」はそのアシストにまわり、汗をかくのがいい。

2014年01月11日

●冬の薔薇


▼ 冬の裸樹を背景に、青い冷気を突き刺すように空に向う赤いバラの花を見た。凛としたその井手達をカメラにおさめながら、昼休みに聞いたあの話にちょうどいいと思った。

▼山辺の里に粉雪が舞っている。その日、その女(ひと)の家の前でバイクのエンジン音が響く。
バイクから降りたった花屋はどんな風貌の人なのだろうか。おそらく彼は、吐く白い息と共に、両手いっぱいの薔薇の花を抱えて、呼び鈴を押す。そのベル音が響き渡るとすぐに彼女は察するに違いない。玄関の扉をあけると、粉雪が冷気と共に舞いこんで、その後ろから予想よりすっと大きな赤い薔薇の花束が胸に飛び込んできた。

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▼「その時の彼女の笑顔を想像する。その一瞬を思い描くために今年も僕は薔薇の花束を贈る。」 雑踏の中、歩きながら、わがリルケは微笑んだ。くたびれた男にあふれたこの会社の中にも、耳を傾ければ大勢の詩人がいる。そんな?会社の詩人?の中で、その男は?わがリルケ?だ。
 20歳前、同級生に燃える恋をした。彼女に身を焦がし彼女のために一流の男になろうと決意し司法試験を目指した。そして一次試験に合格した矢先、彼女から別れを告げられた。しかも彼女が選んだ男は無二の親友だった。人生の航路を喪失した男は、すべてを捨てて、街を離れた。法律家になることにもなんの意味を見出せなくなっていた。そんな一直線で変幻することを拒絶する剛直な青春だった。
▼ 男は、今、組織という巨大なコンクリートの船に乗り、右往左往しながら、俗世にその身をさらして生きている。しかし、時折みせる君の心の奥底に、純粋時間の中に閉じこもったリルケが住んでいるのを、僕は知っている。君の中に住む孤高の詩人は、今もあの燃え焦がれた時の光点がふと掌に舞い戻る瞬間を待ち続けているのを僕は知っている。
 
ばらよ、女王の座を占める花よ
古代にあっておまえは単純な
花びらをもつウテナだった。
わたしたちにはしかし、かずしれぬ花弁を重ねて充ちる花、
汲みつくせない対象。

おまえはその豊富ななかで、かがやきにほかならぬひとつの裸身を包む衣だ、それをまた包む衣だ。
けれどおまえの花びらのひとつびとつは、同時にあらゆる衣装をさけ、否んでいる。

幾世紀このかた、おまえの香りは
その甘美きわまる名をさまざまに
われらに呼びつけた。
突然、その名は名声のように空中にひろがっている。

しかもわれわれは、どう名づけてよいのかを知らず、憶測を重ねるばかり・・・・・・
そして追憶がその香りに移り住む、
呼びかけのできる時間からわたしたちが乞い受けた追憶が。     (リルケ)

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▼ 山辺の里にひらひら舞い落ちる粉雪は、そのまま、二人の間に積み重ねられた歳月を追憶しているように、慎み深く愛しい。赤い薔薇の花束をその女(ひと)は玄関の棚の上に飾った。冬の斜光が雪の間から申し合わせたように差し込んだ。この場所が薔薇をもっとも長く咲かせるスポットだということを貴方は知っている。毎年の誕生日、遠く彼方のコンクリートの漂流船から届けられる追憶の花びらを貴方はそっと掌にのせて慈しんでくれるだろう・・・・

▼そんな一編の詩を奏でて、わがリルケはエレベーターの向こうに消えていった。くたびれた会社の中にも耳を傾ければ大勢の詩人がいる。

2014年01月10日

●冬の珊瑚


フユサンゴ(冬珊瑚)  / ナス科ナス属 半耐寒性小低木。 明治時代に渡来した帰化植物。 有毒植物。 花を咲かせた後、寒くなると実をつける。実の色は青から黄色、橙色、赤と変化していく。赤い果実を珊瑚玉になぞらえて『フユサンゴ』の名前がついた。別名、玉珊瑚(タマサンゴ)  学名は「偽トウガラシ」の意味があり、その名のとおり毒性があり食べられない。
花言葉は、あなたを信じる・愛情

▼殺風景な冬の公園。ふと、皺だらけの枯葉の中から、紅いに光る真珠玉を発見した。その控えめな草木は、磨かれた赤い珊瑚のような実を持つことから、冬珊瑚の名前を勝ち取った。
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▼身にまとうものをすべて捨て去った冬だからこそ、見えるものがある。こうして、この赤い小さな真珠に、年甲斐もなく、胸躍らせて、何回もシャッターを押しているのも、君の周りに殺風景な光景がどこまでも広がっていたからかもしれない。

▼だから、まわりを気にせずに、君はあるがままに輝いていればいい。誰かがきっと君を発見してくれる。

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そんなことはない 君はりっぱに生きている  <綽迎雲>

2014年01月09日

●壮大な引き算


松/マツ科マツ属
100種類あるが、主として北半球全域に分泌する。日本には6,7種類が自生している。海岸近くにはクロマツ、内陸部にはアカマツ、この二種類以外にゴヨウマツ(関西以西の山地)、キタゴヨウ(北海道から本州中部山地)、チョウセンゴヨウ(本州中部山地と四国の一部や朝鮮、中国東北部)に分けられている。枝には長枝と短枝があり、ごく短い短枝は二本の葉の付け根に存在する。
 花言葉は、慈悲・不老長寿・永遠の若さ・勇敢、長い期間・長持ちする感情(仏)。
 松(樹)の花言葉は、あわれみ・同情・不老長寿(東洋)。

▼クロマツの大木が、厳しい寒風に晒されて揺れている。故郷、山口県防府市の毛利庭園に一際高く、聳える古い松の木の下、その一瞬の風をカメラに閉じこめたいと思うが、素人の腕には手に負えない。松の木の迫力を伝える風景写真にたどり着くまでには、まだまだ歳月が必要なようだ。
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▼寒風を受け止め、猛々しくそびえ立つ松の木の風姿を見事にとらえてみせたのは、桃山時代の絵師、長谷川等伯であろう。一気呵成に書き殴った荒い筆遣いの直線群は、濃い墨、薄い墨の絶妙なバランスによって、風のざわめきの中に揺れる松の存在を唖然とするほどのリアリティで、浮き上がらせた。
▼長谷川等伯・作・「松林図屏風」(国宝)。屏風に描かれているのは、数本の松だけで、背景はほとんど描かれていない余白である。驚くほど、簡素な屏風だが、この水墨画が今、日本美術の最高峰とされている。
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▼2000年に放送されたNHKスペシャル「しずかなる絵?国宝・松林図屏風?」は、作家・五木寛之、能楽師・梅若六郎、日本画家・加山又造らが、屏風と対面し、静寂の中でそれぞれの言葉をぽつりぽつりと置いていくという、味わい深い秀作だった。
「・・・・ものすごく不思議な絵だ。・・・・・自分がどんどん限りなく自由になっていくような、狭い世界から広い世界に開放されていくような・・・・・、なんとも言えない湿った重い空気の中で、あるようでもなく、ないようでもある、霧の中に溶け込んで隠れて消えていきそうでありながら、実は絶対にその存在が溶けたりはしない、しっかりした重いもの・・・・。すごく、いい気持ちになる。自分の心の中のモヤモヤとしたものが、この絵の中のしめった空気と共にすーっと溶けて、モヤや霧や、そうしたものといっしょに流れ出していくような、そんな気持ちがする。」(五木寛之)
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「年をとったらこういう能を舞ってみたい。・・・・・例えば、能の面、装束をつけて非常に煌びやかな演目があったとします。しかしそれが目につくようではまだまだです。それが全部消えて無駄のない、墨だけで表現できるようにならないとだめ。これを拝見していると、変な言い方かもしれないけど、″間がいい″というか、ずうっと彼が考えていたものが、自然にこの″余白″になったに違いないと思える。例えば、能の中でも小鼓の″ポン″という“間”ーー名人の演奏される”間”はじつに心地よい、邪魔にならない、素直に響く、極端にいうとあとに残らない。どういうふうに打ったか、あとに残らない。・・・・・“無”“無心”というが、それは一瞬のことだと思う。等伯が筆を運んだ時に、瞬間だけ“無”になっている。描いていない時はいろんなことを考えていると思う。ただ、筆を運んだ時に“無”になっている。極端に言うと、能も“余白”の芸、何もせずにいる時間、空間を大事にする。その“余白”はただ単に空いているだけでなくいろんなものが詰まっている。″余白″は残すというより、描きたい気持ちをおさえる。何もしない時はただ何もしないのではなく、いろんな動きが中にある。こう拝見していると“余白”からいろんなものがその時々に見えてくる。」(能楽師・梅若六郎)
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「おそらく、いまある、ありとあらゆる日本画の中で、ある意味では一番現代的な絵だと呼べるような気がするほど、この絵は今の時代にピタッとくる。残像というのかな、ひとつ残像が残っている間に次に行く動画と同じ効果をこの絵は持っている。濃い墨と、少し薄い墨と、ほんとうにあるかないか分からない薄い墨が絶妙に溶け合い、すごくやわらかな、しっとりとした、これぞ日本の水墨という優しい情緒感を出している。深い霧にぬれる松林、梢をわたるかすかな風の音。この絵の前にくると、ただシーンという音がある。屏風の中で、命がざわめいている。」(日本画家・加山又造)
▼能登国七尾から上洛した時、長谷川等伯は30歳を過ぎていた。すでに妻子がいた等伯は、なりふりかまわずあらゆる人脈を利用して成り上がった。そして、20年後の52歳の時、念願の大事業を手がけた。依頼主は、最高権力者・豊臣秀吉だった。秀吉の長子鶴松を弔う寺を建てるにあたり、障壁画を依頼されたのだ。等伯は一門を総動員し、もてる力のすべてを発揮した。楓図壁貼付(1593年、左の絵)。金字に鮮やかな色彩を重ねた金碧画の手法を駆使して、紅葉を、秀吉が最も好む豪華絢爛な画風で描きあげた。

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▼等伯の後ろ盾となったのは千利休である。等伯が京で足がかりとした本法寺の住職が、堺の生まれだったために彼を通じて千利休と知り合った。利休は狩野派の権勢を快く思っていなかったともいわれ、等伯が宮中や秀吉関連の障壁画の仕事につけるように働きかけたともいわれている。
▼権謀述数、野望渦巻く都で豪華絢爛で賑やかな障壁画を多産した等伯の作品の中で、松林図屏風は、異色の水墨画である。この絵は、千利休が秀吉に疎まれ切腹した2年後に描かれたとされている。利休が追究した“わび・さび”の世界は、秀吉が追い求めたものと対極的にあった。秀吉の黄金の美学と、飾りを捨て去った、利休の“わび”の美学・・・・・等伯は“楓図”とはあまりにも対照的な墨絵をどのような心境で描いたのか?
▼年表を見る。千利休が没したのは1591年。この年に、秀吉の愛児・鶴松が死去。鶴松を弔う祥雲寺が着工される。92年、等伯は「松に秋草図屏風」という秀吉好みの黄金の障壁画を完成される。推測する。この頃、等伯は、怯えるように、何かせき立てるように、秀吉が愛でる豪華絢爛な桃山文化の頂点をきわまるために過剰な筆を走らせた。それは、秀吉に反した千利休と自分との関係断絶を秀吉に誇示するための壮大なパフオーマンスではなかったのか。師の利休を死に追いやった秀吉に、最も近づいていく。祥雲寺障壁画「楓図壁貼付」が完成したのが93年、
この黄金の障壁画を秀吉に献上した直後、等伯の息子、久蔵が突然、死去している。
▼NHKスペシャル「しずかなる絵?国宝・松林図屏風?」の中で作家・五木寛之はこう分析している。
「僕は等伯の心の中を想像する。能登からはるばる都にのぼって、都の華やかな社交の場の中に出入りして、大名や将軍、大きな自社仏閣の仕事、華麗で華やかな仕事をしながらも、等伯の中には、もう一面、雪の深い能登の風物、原風景が消えずに残っていた。少年のころから20歳代、30歳代のはじめのころまで行き来していた、湿った風の吹く日本海沿岸の松林、その松林の中には人工的なものはなにもない、豪奢な館もないし人間たちの醜い権力抗争もない、そういう物質的なもの人工的なもの、風俗的、都会的なもの、そういうものがなにもない風景、それが等伯の心の中で点滅していた原風景だと思う。こういう絵を描かなければ、長谷川等伯という人は精神上のバランスがとれえなかったとおもう。この絵を描く必然性があったし、この絵を描くことで、芸術家としての彼も人間としての彼も救われることがあったのだろうと思う。」
「 僕は自分に関して考えて見ますと、ひじょうに貪欲に、ありとあらゆるものを手にしてみたいという好奇心の塊のような欲望過剰な部分と、いろんなものを捨てたいという気持ちと、その両方の気持ちの中に引き裂かれて、その統一がとれずに混乱しているのが自分。ものを捨てたいとおもいながらいろんなものが入ってくるという暮らしの中で、もっとシンプルに生きたい、もっと簡素に生きたい、という気持ちがずうっと自分の中にある。乾いた心がなにかそのような湿気を求めている。この松林図屏風を見ることで、自分の中に、まるで砂礫の荒野のように乾ききった空気の中に、なにかとても冷たい、気持ちのいい水が注ぎ込まれるような、生き生きとした感じを受けたことが、一番の収穫だった。」
▼金碧の輝きにあふれた「楓図壁貼付」は桃山時代の本流をゆく揺るぎない作品だ。過剰に筆を重ねつづけ確立した頂点の極みで、等伯はそれとは全く対極にある「松林図屏風」を描き上げる。何の飾りもない、簡素な水墨画。推測する。「楓図壁貼付」の完成直後、等伯は息子、久蔵を失った。それが引き金となって、これまで抑えていた師・千利休への追慕の情が堰を切ったようにあふれ出て、筆をとった。秀吉と対局にある境地に殉じていった利休への哀惜と息子を失ったつきせぬ喪失感が水墨の筆をとらせたにちがいない。そして,静寂の中で、余白に利休と息子・久蔵と故郷、能登・・・と通り過ぎていった時間と空間をめまぐるしく重ねながら、次の一瞬、等伯は一本の松をたたきつけるように書きなぐる。そして再び、余白の中に溶け込んでいく・・・・
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等伯の「壮大な引き算」が作用した屏風は、生まれ出た瞬間から、余白の中に常に静水を注ぎ込みながら、今なお瑞々しく流転している。

●静かな木


春には新芽をつけ、やがて木を覆いつくした新葉がわずかの風にもざわめき立って、 三月の日を照り返す。その光景をうつくしいと思わぬわけではないが、孫左衛門はなにかしら仮の姿を見ているようにも思い、木の真実は全ての飾りをはらい捨てた姿で立っている、いまの季節にあるという感想を捨てきれない・・・・
    藤沢周平「静かな木」より

▼最近、聞いた頼もしい言葉の一つが「結晶的知性(知能)」だ。人の脳の研究はこれまで病気の脳の解明を主に行なわれてきたが、近頃、 健康な脳を調査対象にし解明する動きが活発になっている。その過程で、健康な高齢者の脳の中には決して衰えるばかりでなく、その経験が結実する方向で神経細胞の再構築が行なわれていることがわかってきた。時には老年期になって神経細胞が分裂し増えることもあるという。若い人の脳神経細胞は複雑にはりめぐらされ、未知のものに臨機応変に対応する能力に長けている。それに対して高齢者の脳は、その神経細胞の張りかたはシンプルであっても効率よく情報伝達できるように再構築されて自分が長年培ってきた専門分野に特化し高度な知能を進化させている、というのだ。

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▼冬の公園で、剥き出しの枝振りをみていると、なぜ枝は絡まり縺れ合うことがないのだろうか、とその不思議さを思う。自由自在に伸びているようで、見事に隣の様子を感知して微妙な距離を保っている。イチョウ並木の1本1本の樹どおしもその末端の小枝は触れあわない。剥き出しのウンリュウヤナギをみるに至ってはその無造作な曲線どうしが微妙に距離を取り合っているのには恐れ入る。
この枝の張り方や神経細胞の伸び方にはなにか共通の原則があるのだろうか。
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まっすぐに天空を目指すユリノキの前にたつと「結晶的知性」とはこういう枝振りかもしれない、と思う。

2014年01月08日

●やわらかい気配り


アリストロメリア/以前はヒガンバナ科だったが、最近アルストリメリア科として独立した。リンネが友人のスウェーデンの植物学者アルストレメールの名に因んで名付けた。特徴は、葉の表裏が逆になっているところ。原種は、チリの砂漠やアンデス山脈の4000mクラスの高所に生存。英名は「インカのユリ」という。日本では1970年代に入り、「ゆりずいせん」の名前で親しまれるようになった。現在、日本で栽培されているものは、オランダの種苗会社が登録したパテントのもののほうが多い。花言葉は「やわらかい気配り」「凛々しさ」「人の気持ちを引き立てる」。

▲見留正璽氏 61歳 逝く。ライターであり編集者であり経営者として皆を率いた。大病と闘いながら、その苦闘の様をおくびにもださず、退院するとすぐに取材で全国を軽やかに飛び回った。1985年に彼が編集制作プロを立ち上げた数年後、本作りを共にした。以来、たまにふらっと会い、ビールを飲みながら四方山話をした。60歳の還暦を前に、果たしてこれからの人生どうすべきかなど、端から見ればどうでもいい贅沢な愚痴を、黙って聞いてくれ、前向きな回答を引き出してくれた。まもなく企画を持って訪ねようとしていた矢先に急逝してしまった。この突然の喪失感はなんだろう。取り残されて呆然とするこの気持ちは子供のころ味わった感覚だ。

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▲葬儀は彼が生まれ育った鎌倉で行われた。臨済宗建長寺派の大僧正の荘厳な読経が響き渡る葬場、真ん中にある遺影はそれを楽しむかのような清楚な笑顔であった。取り囲む花園の中の「ゆりずいせん」があなたによく似合った。花言葉は「やわらかい気配り」 
 人生を存分に楽しんで突然消え去った、あなたのライフスタイルをこれからの範としたい。
 深謝!

●椿の自由

<
椿(ツバキ)/ツバキ科ツバキ属。日本、朝鮮半島、中国、東南アジアに分布。その数は200種、特に中国はツバキ属の宝庫。日本にはツバキ(ヤブツバキ)ユキツバキ、サザンカが縄文の時代から自生し、椿油として使われるなど人々にとって大切な樹である。花言葉は、理想的な愛、謙遜、申し分ない魅力。
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   この朝 さきしばかりの 新しき 紅花一輪 
 廊わたる われにむかひて 眼くばせす
   神存す--- わが心 既におとろへ 久しくものに倦んじたり
  神存すとは 信うすき われらの身には 何の証しも なけれども
   われは信ず ただにわづかに われは信ず
   かの紅花一輪 わがために ものいふあるを 如何に 如何に
   人々百度も われをたばかり あざむく日にも 
   われは生きん われは生きん かの一輪の 花の言葉によりてこそ
                                     <三好達治>

▲椿の花がポトリと落ちる。この様を見て、昔から椿は不吉な花だと言われているという。しかし、最近、その姿を見て、別の感慨を持つようになった。樹から離れて落ち葉の上に舞い降りた花に無限の自由を感じる。   
          

 椿 落ちてはじめて空を見る <綽迎雲>

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▼どさっと土に落ちた椿の花に不吉さはない。光輝く紅花一輪が、ぽろりと落ちたその一瞬に思いを馳せることの深遠さを心に留めたい。
      

   落ちざまに 水こぼしけり 花椿   <芭蕉>


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   (大晦日に急逝した見留氏の告別式、葬儀への道で)

 冷たい体を満員電車に押し込む  <綽迎雲>


 

2014年01月05日

●"千団子"はいかが


栴檀(センダン )/ センダン科センダン属 落葉広葉樹 本州南部以南に自生する。5?6月に淡い紫色の小花をたくさん咲かせ、秋から冬にかけてオリーブのような黄色い実が熟する。材は軽くて柔らかく、キリの代用として工芸品がつくられる。別名,オオチ。花言葉は、意見の相違。
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▲木枯らしが吹く中、裸枝にぶら下った無数の実が揺れている。遠くから見ると黄金色の花が咲いているようにみえる。冬の光が丘公園で出会った,これもハッとする光景だ。センダンの実は駆虫剤や殺虫剤に使われる。そのせいで、鳥も寄り付かず手付かずのまま残っているのだろう。
刻一刻変化する季節の流れから、この実だけが置き去りにされた感じもする。
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▼センダンという名前の由来には諸説ある。その中で、一番、気に入っているのが深沢正氏の説である。
「私はセンダンの語源は"千団子"ではないかと思っている。千団子というのは、滋賀県大津の園城寺で、古くは4月16日、今は5月16日より3日間に行なわれる法会の俗称で、千団子祭とも千団子参りともいう。この御堂に祭る神は、千人の子を持つという鬼子神で、これに千個の団子を供えたところから、その名が起こったといわれる。この日、小児の健康、厄除け、安産などを祈願する人々が千個の団子を供えると、参詣の子供たちが争ってこれを持ち帰ったものだという。オウチの実は、それこそ無数の珠を連ねたようになり、冬に入り、葉がすっかり落ちたあと、黄色に輝く実が、枝一面に群がりついた様はまさに壮観である。この様子を千団子に見立てて、これをセンダンゴといい、さらに詰まってセンダンとなったのではないだろうか」(植物和名の語源より
センダンの果実を団子に見立てた発想はユーモラスで面白い。冬の公園で、鳥についばまれることもなく、風にそよいでぶらりぶらりと揺れている黄色い実には、まさに千団子のゆとりがある。

栴檀(せんだん)の 実に風聞くや 石畳   <芥川龍之介>

2014年01月04日

●「春の妖精」の戦略


フクジュソウ(福寿草)/キンポウゲ科の多年草。雪の中から咲く花。旧暦の正月頃に咲き始め、貝原益軒は福寿草とともに元日草と呼んだ。長寿草ともいう。岩手や青森ではマンサグとかツチマンサクと呼ぶ。「土からまず咲く」の意。
福寿草の花言葉は、永久の幸福・回想・思い出・幸福を招く(日本)・祝福、悲しき思い出(西洋)

▲春を告げる花、福寿草。縁起のいい黄金色の花は、新春とともに、殺伐とした公園に一点の豪華さを演出してくれる。まるでパラボラアンテナのように、冬の太陽の恩恵を一身に集める一方で、その黄金色の花弁は春の大地から生まれ出た新鮮な虫たちを呼び寄せる。まだ、競争相手の出そろわない荒涼とした冬の大地を我が物顔に独占する。また、その可憐な花弁は曲者で、大変な毒性を持つ。だから鹿など里山の動物たちの餌食にはならない。hukujyu2.jpg
▲こうして、春から夏にかけて、存分に光合成をやり遂げる。頭上に新緑が生い茂り、太陽光が遮られる季節には仕事を終えて、夏になると地上部が枯れて、そこから次の初春まで地下で過ごす。
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▲ほかのものが出そろうよりちょっと先を行くのがいい。そして大勢がやってくるときには、静かに仕事を終えて次に備える戦略が見事だ。今年も荒涼とした冷気の公園の片隅に顔を見せた黄金色の「春の妖精」を見ると、このような生き方を目指したいいとつい思ってしまう。

2014年01月03日

●”別品”の風雅


▲今、木枯らしの一吹でもあろうものなら、一瞬にして崩れそうな、枯れ葉が裸の枝にしがみついている不安定なその様に"別品”の風雅があると思う。
▲昨年の晩秋、この世を去った希代のコラムニスト・天野祐吉が遺した最期の著作のタイトルは「成長から成熟へ?さよなら経済大国?」、あの高度成長・日本の繁栄を取り戻そうというかけ声の中で、水を差すメッセージとも受け取る人もあるかもしれないが、還暦を迎えた私には違和感なくしみいる。
▲天野はこの中で、70年代の経済学者E・F・シューマッハーの言葉を引用している。「それにしても、『成長は善である』とはなんたる言い草か。私の子供たちが成長するのなら至極結構であるが、この私がいま突然、成長し始めようなら、それはもう悲劇である。」 シューマッハーはそう言って、成熟社会への転換を促した。
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▲公園のいたるところの裸木の幹、晩秋を乗り切った僅少の紅葉の葉を連写しながら、思い起こすのは、天野祐吉が遺作の最後に記したくだりだ。少し長いが引用して、今年の自らの指針としたい。
「30年ほど前、哲学者の久野収先生に聞いた話を、いま思い出しています。昔の中国の皇帝は、画家や陶芸家などを、専門のスタッフと相談してきめたらしい。で、その一等を”一品”といった。天下一品なんていう、あの一品ですね。で、以下、二等・三等・・・・ではなく、二品・三品・・・・という呼び名で格付けたそうです。が、中国の面白いところは、その審査のモノサシで測れないが、個性的で優れていると思わqれるものは、「絶品」とか「別品」として認めた、というんですね。
 そのときの久野先生によると、『別品(別嬪)といったら、いまでは美人のことを指しますが、もともとはちょっと違うようですね。関西では、芸者と御料人さんとか、正統派の美女に対して、ちょっと別の、声がハスキーだとか、ファニーフェイスだとか、そういう美女を別嬪と呼んだわけですね。ところがいまは俗流化して、別嬪というと美人のことになってしまった。僕が言いたいのは、別品とか逸品とか絶品とかいうのは、非主流ではあるけれど、時を経ると、どちらが一意であるかわからないような状況が生じる可能性があるということなんですね。』
 別品。いいなあ。経済力にせよ軍事力にせよ、日本は一位とか二位とかを争う野暮な国じゃなくていい。「別品」の国でありたいと思うのです。」(天野祐吉「成長から成熟へ」より)
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▲今にも吹き飛ばされそうな枯葉の奥から黄色くか細い花弁が顔の覗かしている。マンサクの花だ。
次への命を孕みながら、最期まで人知れず役割を果たす、その枯葉の姿に”別品”の風雅を感じる。

2014年01月02日

●裸木に咲く"赤い花”


イイギリ(ナンテンギリ):イイギリ科イイギリ属 秋に葉が落ちた後赤く熟した実だけが枝に残り、赤い花が咲いたように美しい。雌雄異株で、枝先に、雄株は緑、雌株は小花の集まった、大きな円錐形の花で、花弁はない。実がなるのは雌株だけ。昔、この葉で飯を包んだことから「飯桐」の名がついたといわれている

▲裸の樹木の枝絡まり合う抽象的な冬の公園を歩く時、はっとするときめきを与えてくれるのは、イイギリの樹だ。裸の枝に見事な紅の実を従える、その威容に鳥たちが群がる。光が丘公園のイイギリの”赤い花”は今年も見事に青空に映えていた。
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▲今年は、その幹に手作りの札が結びつけられていた。昨年の光が丘地区祭を記念して、ボランティアの人たちが丹念に作り上げた。そのハンドメイドの札が見事にその乾いた幹に溶け込んでいた。
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▲青空の正月、再び、この凜とたつイイギリの下で、紅の宝石のおこぼれをいただきながら、満ち足りた気持ちになる。ありがたい。
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2014年01月01日

●新宿御苑前の道端の花

▲2014年元旦の午後、閉園となっている新宿御苑の新宿門の前に立つ。縁の外周を飾る紅い椿の群生の下、1センチにも満たない白い花弁をカメラにおさめた。残念ながら、その小さな花の名前は帰って図鑑をひっくり返してみたが見つからなかった。今後の宿題とする
▲昨日の夕方、つまり2013年の大晦日、我が友、見留正璽氏が逝った。その突きつけられた混乱を鎮めるためにも、新宿御苑のこの場所にたつ必要があった。ここで待ち合わせ、二人で御苑前のレストランでワインを飲み、その向かいの模索舎という不思議な書店を探訪し路地を通って見留氏のオフイスに案内された日を辿った。
▲次々と大手術を克服し退院すればすぐに取材旅行に入り徹夜で原稿を書き編集会社の経営者として皆を指揮した。彼の生き方を30年近く横で見ながら「生き方に定年はない。」と教えられ、「生きている限りは希望はある。」と諭された。まもなく彼のもとに企画を持って訪ねようとしていた矢先だった。
▲しばらく、休んでいた「草木花便り」を再開することにした。その最初に、見留氏との別れを書くというのは不思議な因縁を感じる。「再開するのか。いいねえ。」そう言ってくれた友が突然消えた。名前も知らない白い小さな道端の花を遺して。
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