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2014年04月25日

●ハナミズキ満開


ハナミズキ (花水木)/ 別名アメリカヤマボウシ。高さ4?5mになる落葉小高木。枝は横に広がり短く分枝し階段状の樹形となる。原産地は北米東部、メキシコ北東部。明治45年に尾崎行雄東京市長がアメリカに桜を寄贈した謝礼として日本に送られた。木の皮を煎じた汁が犬のノミ退治に効があるといわれドッグ・ウッドとも呼ばれている。果実はやや苦味があり果実酒にいい。
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▼米国・オバマ大統領来日の日本は、春から新緑の季節へ、列島が瑞瑞しく輝く季節だ。東京・日比谷公園のハナミズキの花も満開だ。上の写真、手前のチューリップを撮りたかったのでも、晴れやかなお嬢さんたちをねらったのでもない。その後ろの白い二本の樹、花水木、これを撮りにきた。正確にいうと右奥の花水木である。

▼明治45年(1912年)、アメリカ大統領夫人の要望を受けて、当時の尾崎行雄東京市長は桜の苗木をプレゼントした。今、首都ワシントンD.C.ポトマック公園の春、はなやかに咲きほこる桜並木はこの贈り物から始まった。それから3年後の大正4年(1915年)、アメリカから桜の返礼として農務省のスイングル博士が白い花水木の苗40本を持ち来日、その2年後さらにピンクの苗木12本が贈られた。
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▼その花水木の原木が日比谷公園にあると聞いた。探し当てたのがこの細い樹である。樹の横に札があった。どうやらこの樹の本当の原木は都立園芸高校にあるらしい。最初、確かに花水木は日比谷公園を初め都内の公園屋植物園に植えられたが、太平洋戦争を境に「敵国の贈り物」として所在が不明になった。戦後、中野区の峰与志彦氏が独自に原木探しをし、東京都立園芸高等学校(世田谷区)に2本、農水省果樹試験場・興津支場(清水市)に1本、東京大学理学部付属(小石川)植物園(文京区)に1本、原木の存在が確認された。現在、日比谷公園にあるのは、原木の子だとこの木札で知った。
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▼花水木が渡来した1915年、世界は第一次世界大戦に突入していた。そして、明治以来極めて良好であった日米関係に軋みが見え始めていた時期でもあった。
▼最初の50年間、アメリカは日本の教師であり日本は従順な生徒であった。対中政策でも日本はアメリカの門戸開放政策に従い行動を共にした。しかし、日露戦争後、日本が中国の権益拡大を始めた頃から、両国の関係は悪化の一途を辿った。

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▼日本の権益拡大の起点となったのがこの日比谷公園である。   (以下、臼井吉見の「安曇野を歩く」より引用・・・・)
『 日露講和交渉は明治38(1905)年8月9日から、アメリカのポーツマスで開かれた。交渉は賠償金の問題などでもめたが、日本側はそれを絶対条件と考えていなかったため、樺太(からふと)の南半分の割譲、賠償金なしの線でまとまった。9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)が調印された。中身は樺太南半分の割譲のほか、▽ロシアは日本が韓国を指導、保護、監理する権利を承認する▽ロシアは長春と旅順間の「南満州鉄道」と、遼東半島の租借(そしゃく)権を日本に譲る―などだった。
 大きな成果を得たのだが、目に見える形では樺太の南半分の獲得のみで、賠償金も取れなかったため、国民の多くは「どういうことだ」と、政府に対して激しい怒りを抱いた。大国ロシアを打ち破り、ついに世界の「一等国」の仲間入りを果たしたという奢(おご)りと、現実には重税、物価高騰による生活苦の不満。その鬱積(うっせき)したエネルギーが爆発する。
 講和反対国民大会が9月5日、東京・日比谷公園で計画されるものの、政府はそれを禁じ、公園を封鎖する。押し寄せた数万の群衆は、バリケードを突破して園内になだれ込み、警官隊ともみ合い、政府の御用新聞「国民新聞」の社屋を取り囲む。警官は抜刀、負傷者が多数出て、軍隊まで出動するという大騒動になった。
 夕闇迫るなか、人々は暴徒と化し、警察署、派出所、交番を次々に襲撃、破壊し、焼き払う。
 木下尚江は9月6日夜、公園付近で「軍隊の影の動いて来るのを見ると『陸軍万歳』と絶叫する」民衆を見ている。
 9月10日、平民社の週刊「直言」が「事の真因は如何(いかに)」と題する文章を載せている。「日本人民の心中、実に多大の不平痛恨ありて存す、(中略)彼等(かれら)は種々なる欺瞞(ぎまん)と圧迫とを浴びせらるゝ時、而(しか)して彼等が絶えず飢寒と不安とに襲わるる時、彼等の心中、実に多大の不平痛恨を生ぜざるを得ず、……」
 この「不平痛恨」を募らせてしまった要因の1つに新聞報道がある。戦勝を煽(あお)り、ポーツマス条約が結ばれると、肯定したのは「国民新聞」「中央新聞」のみ、東の「万朝報(よろずちょうほう)」、西の「大阪朝日新聞」の2大紙をはじめ、「時事新報」「毎日新聞」など一般紙は条約破棄を要求した。
 日露戦史に詳しい医師・降旗良知さん(82)=松本市神田1=は、日比谷焼き打ち事件について「米国のおかげで、辛(かろ)うじて勝ったということが国民にはわからなかった。新聞がその事実をきちんと報道していない」と考察する。
 日露戦争の勝利感が国民の意識を、他民族の侵害など全く考えもせずに領土拡大に向けさせる。朝鮮半島のみならず、それまでかかわりのなかった満州(現在の中国東北部)に足を踏み入れ、この権益を守るため軍隊派遣となる。
 作家の半藤一利さんは著書『昭和史』で「日本本土を守るための資源供給地としての満州が注目されたのです。しかし実際、満州には鉄や石炭はたくさんあったのですが石油はありませんでした。(中略)日本が強国であるためには、満州は必要不可欠な土地になったわけです」と書いている。
 満州経営と並行して韓国への圧迫を強め、明治43(1910)年、併合に至る。果てしない自己肥大化。戦争は負けた国より勝った国のほうを、より狂わせると言われるが、日露戦争後の日本がまさにそうだった。「アジアの覇者」になるべく野望を膨らませ、それが米国との新たな摩擦を生じさせてゆくのである.』
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▼歪んだナショナリズムの拠点となった日比谷公園に,1915年、アメリカの花、花水木が植えられた。この微妙な時期に、アメリカに桜を贈った尾崎東京市長、その返礼をしたアメリカ、それぞれがどのような思惑で植樹式典に向かったのか?
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▼それからおよそ100年、第一次世界大戦から100年の今年、ハナミズキ満開の季節に来日したオバマ大統領、クールジャパンのおもてなしを存分に受ける中でのタフな通商交渉、日米関係はどこまで成熟したのか、まもなく大統領は日本を飛び立ち韓国へ向かう。

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