東大作      オークの樹の下で

  カナダからの便りI 「結果とオリンピック」 
          2006年3月3日

   一連の写真は、東氏の妻(雅江さん)が撮影



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冬季オリンピックは  カナダ・バンクーバーで開かれる。そのスキー会場、ウイスラースキー場。
雪の上にある岩の彫刻は、2010年のオリンピックのシンボルマーク






         
◇イタリアのトリノで開かれた冬季オリンピック、カナダはメダルラッシュに沸いた。 最終的に24個のメダルを獲得し、ドイツ、アメリカに次いで堂々の三位に輝 いた。 これまで史上最高のメダル数が、17だったというから、如何に今回のオリ ンピックがカナダ人にとって嬉しいものだったか、予想できる。私も、半分カナダの人の気持ちで、応援してしまった。二年も住むとだいぶ影響さ
れるものだなと、自分を笑ってしまった。

◇現在私は、今年秋以降進む予定のPhD(博士課程)の申し込みを行い、その結果 を待っている。もちろん、週に三回のTA(大学生に教える仕事)や、MA論文の準 備などで、忙しいのは変わらないが、やはり、毎日のように結果を待つのは、精神的 にしんどいことである。

◇現在通っているカナダのブリテイッシュコロンビア大学(UBC)だけでなく、い くつかのアメリカのいわゆる名門校にも申し込んだのは、理由がないことではない。 国連を研究するのであれば、地理的に近いほうがよいことも事実である。更に大きい のは、私が専攻している、いわゆる「国際関係論」が、アメリカを頂点としたハイレ ラルキーができあがっていて、アメリカのいい大学でPhDを取ると、アメリカだけ でなく、カナダやオーストラリア、はたまた日本まで、就職の先が広がるのに対して、どんなにUBCがカナダの中でよい大学でも、アメリカでは就職が困難であると いう現実がある。

◇アメリカは、自前の制度で資格を取った人間しか認めない面がある。NHK時代に、いくら英語版を作っても、時事問題については、アメリカは他国が作った番組を 購入しないことで有名だった。自らが制作する番組が世界で一番という自負が強いの だと思う。

◇ 私の通うUBCでも、国際関係論や政治比較論の教授は、圧倒的にアメリカのいわ ゆる名門校の出身者が多い。教育の質に差があるとは正直思えないので、これは、ま さにアメリカを頂点としたハイエラルキーのなせる技といえる。

◇逆にUBCでPhDを取った場合、一番現実的な就職が、カナダの他の大学での就職、オーストラリアなど周辺の英語圏の大学での就職、そしてそもそも最初の目的で ある、国際機関への申し込み(就職の可能性は低くても)などが考えられる。

◇そんな状況や、指導教官のプライス氏にも勧められ、いくつかアメリカの大学にも申し込んだ。その中で一番、可能性が高いと思われたのが、ニューヨークからバスで 四時間ほどいった大変な田舎にある、K大学であった。アメリカの名門K大学で世界 的に有名なP教授が、プライス教授の元の指導教官だった。去年国連でインターンを していたとき、私もP教授に会い、P教授は、「自分のオフィスに資料を一括して 送って欲しい。」とまで言ってくれていた。

◇プライス教授も、自分の出身校でもあり、私のジャーナリストしての経験や、UBC の成績、プライス教授も含めたUBCの教授が書く推薦状の内容からいって、K大学 については自信があるようだった。私にも「おそらくK大学は合格するだろう。その 場合、どうするか悩ましいところだね」と言ってくれていた。私も、尊敬するプライス教授がPhDを取った同じ大学で学位を取るのは悪くないと 考え、正直期待していた。また田舎のため、生活費が安く、5年間安心して暮らせる し、ニューヨークにもバスで5時間ほどなので、国連の研究もしやすいと考えていた。また正直、「K大学」という名前にも魅力を感じた。アカデミックの頂点にある 学術誌に論文を出すにも、K大学のPhDは、とても有利なはずだった。

◇ところが、二月の終わり、P教授から直接メールが来た。「申し訳ないが、今日最終選考があり、6人しかない「国際関係論」の枠に君を入れることができなくなって しまった。悲しいニュースになって本当に申し訳ない」という内容だった。ショックだった。K大学の申し込みに向けて、かなり準備を重ねてきたことは事実 だった。しかし、駄目だった。噂に聞いていた通り、私の現場での経験は殆ど考慮さ れなかったということだと思う。アメリカの政治学者の中には、「ジャーナリスト
は、政治学者にはなれない」という偏見を持つ人も多いという。UBCの成績も、最 初の学期はトップではなかったので、それも影響したのか。マークシートテストであ るGREも、自分としては最善を尽くしたが、アメリカ人のスーパーエリートに比べ れば、英語のテストの点が低いのは致し方なかった。

◇もちろん、K大学には国連の研究者がいないことや、子供の日本語の補習校がないなど、完璧といえる環境ではなかった。その場合、子供は英語に専念せざるを得なく なる。しかし、自分にとっては一番現実的な選択だと思っていた。K大学が駄目だと、あとのアメリカの大学は更に難しいと予想される。

◇ちょっと呆然自失という感じになった。仕事を辞めて以来、最大の挫折の一つだった。

◇K大学から不合格の通知が来た翌日、オリンピックでは、5000メートルスピー ドスケートの女子決勝が行われた。ショックを抱えたまま、私はテレビをぼんやり見 ていた。

◇この大会、スピードスケートの話題を一身に集めたのが、カナダの女性スケーター、 シンデイー・クラッセンだった。なんとこの大会だけで、5個のメダルを獲得し、1500メートルでは金メダルを取った。5種目に出場して5個のメダル、つまり出た 競技は全部メダルを取った驚異的な選手である。

◇26歳の伸び盛りの彼女について「一日5時間、スケート以外の練習をし、さらに滑り込む、誰もが認めるハードワーカー」と新聞は書いてあった。天才と言われる彼 女も、その裏には誰にも負けない練習量がある。

◇5000メートルは、彼女の最後の競技だった。クラッセン選手の滑りを見たいと、 私はなんとなくテレビの前にいた。しかし、私が実際に感動したのは、その日、銅メ ダルを取ったクラッセン選手ではなく、同じくカナダ人で、5000メートルのみに 出場した、33歳のクララ・ヒューズ選手だった。

◇最終ランナーだったヒューズ選手は、それまでトップだったクラッセン選手に、最後 の一週まで3秒近く遅れをとっていた。しかし、最後の一週で見事に追い上げ、遂に 逆転、人生初めての金メダルに輝いた。

◇レースが終わった後、ヒューズ選手は、スケートリンクに倒れ込み、しばらくの間、 全く立つことができなかった。後のインタビューで彼女は語っている。「とても動くことができなかった。体全体がばらばらになりそうだった。何度も何度 もハンマーで体を叩かれたぐらい、足が痛かった」

◇まさに全力を絞り尽くした疾走だった。5種目でメダルをとったクラッセンと違い、5000メートル一本に絞り、トップに立ち、そのまま倒れこんで立つことがで きない33歳のママさん選手に、私は感動を覚えていた。

◇その後、ようやく立ち上がり、ヒューズ選手は、クラッセンから渡されたカナダ国旗を持って、リンクを一週した。

◇メダルが表彰され、カナダCBCのキャスターがヒューズ選手にインタビューをした。テレビの実況は、ヒューズ選手が、10年前に夏のオリンピックで自転車競技で 銅メダルに輝き、その後、夏は自転車、冬はアイススケートと、連続してオリンピッ クに挑戦、すでに4っつのメダルをとっていたことを伝えていた。

◇スケートリンクの上で、ヒューズ選手へのインタビューが始まった。インタビュアー が、感極まって以下の質問をしたとき、私は深く心を打たれた。

インタビュアー
  「私は、あなたが10年前に自転車で銅メダルと取ったときにも、こうしてあなたに インタビューをしました。その後、夏、冬、さらに夏、そして今回の冬のオリンピッ ク全てに出場して、遂に初の金メダルを獲得しました。10年間、何が一体あなたを ここまで支えたのでしょうか。何があなたを引っ張り続けたのでしょうか」

◇ヒューズ選手は応えた。
 「私は、とにかく、毎日、毎日を、新しい一日、昨日とは異なる全く別の一日と考えるようにしています。そして、一回、一回のレースを、全て大きな挑戦・チャレンジ だと考えて、全力を尽くしています。」
 「とにかく努力を続ければ、どんな夢だってかなうんだっていうことを、私は、カナダの子供たちや、カナダの人たちに、伝えたいと思っていました。それが今日かなったんだとすれば、私はとても嬉しいです。」

◇優しそうな、見るからに努力家という感じのヒューズ選手。満面の笑顔と、そこに刻まれた皺が、自分とあまり変わらない年代の女性であることが、映像からも分かっ た。

◇10年前に銅メダルととったとき、彼女は22歳だった。それから10年間、毎日を 別の一日だと考え、毎回のレースに新しい気持ちで挑戦し、遂に目標を達成した。そ の事実が、まだ新しい世界に入って一年半しかたっていない自分に対する、厳しい叱 咤のような気がした。

◇その後、ヒューズ選手の記事をインターネットで集めた。競技の翌日、ヒューズ選手が、100万円を、カナダのトロントに本拠を置く「Right To Play」(遊ぶ権利)という団体に、寄付したという記事がでていた。Right to Play は、紛争地域の 子供達に、スポーツなどをする機会を提供し、将来への夢を育んでもらうというNG Oである。6年前に設立され、アジア、中東、アフリカなど20カ国で、50万人の 子供に対して支援を行っている。

◇オリンピックでメダルを取った選手が、寄付を行うことは多い。たとえば、今年アメ リカを代表し、黒人として始めてメダルを獲得したチーク選手は、2種目のメダル獲 得によって、米国五輪委員会から受け取った4万ドル(470万円)の報奨金全額を、アフリカのHIVに関する支援団体に寄付した。

◇しかし、カナダの選手には、メダルを取っても報奨金が一切でないのである。そのため、ヒューズ選手は、自らの貯金から、100万円を「Right to Play」に寄付することを決めた。彼女は 記事の中で、「これは、全てのカナダ人に向けての私の呼びかけでもあります。一人、5ドルでも、10ドルでも、20ドルでもいい。これに応えてくれれば、きっと 多くの子供達を支援することにつながるはずです」とコメントしていた。

◇カナダの選手には、いい意味で、アマチュアの意識を残している人が多いように思う。ある選手は、消防隊員の仕事を続けながら、金メダルを取り、また、カナダの消 防署に帰っていった。「私は、消防隊員としての仕事と、その仲間に誇りを持ってい る」と彼は、テレビのインタビューで語っていた。

◇オリンピックは終わった。四年後には、ここバンクーバーとウイスラーで、冬季オリ ンピックが始まる。閉会式の日には、バンクーバーでは、各地で、四年後のオリンピックを祝う催しが開かれていた。

◇オリンピックが終わった翌日、私の通うUBCから、PhDに関する正式な通知が来た。合格だった。その結果以上に、大学が提示してくれた条件が、私を励ましてく れた。提示された内容は、四年間授業料免除、奨学金が、最初の一年間が2万ドル(およそ200万円)、2年目から4年目まで年間1万5千ドルが最低限保障される とあった。さらに、学内の奨学金や、政府の奨学金に受かれば、その分が上乗せされ る、というものだった。

◇ UBCが出せる条件としては、おそらく最大限のものと思われた。この一年半、お世 話になったUBCの教授や助教授、5人ほどにお礼のメールを送る。みな、「素晴ら しい条件で、自分も本当に嬉しい。おめでとう」と次々メールをくれた。UBCに来 たときから支えてくれているP教授は、「アメリカの大学は成績や試験など、血統書 で学生を決めることが多い。君のように変わった経歴を持ち、特殊な勇気で人生を始 めた人間には、フィットしないことも多いんだ。カナダのような周辺にこそ、創造的 な仕事は生まれるものだ」といって励ましてくれた。

◇まだ、全ての大学の結果が出た訳ではなく、まだどこに行くのか、最終的なことは分からない。国連の近くで、紛争後の平和構築活動の研究を行い、少しでも実際の活 動に影響を与える仕事をしたいという気持ちもまだ諦めきれない。だから最後まで結 果を待つと思う。

◇でも、少なくともこのカナダの地で、自分の好きな先生や、よい生活環境のもとで研 究を続けられることが保障されたことは、嬉しかった。これまでの二年間の経験から、上の条件であれば、今後四年間学生を続けても、貯蓄を使い果たさずにすむこと は、確かだった。

◇もちろん、カナダで進学した場合、最初に述べた、アメリカを中心としたハイレラキカルな世界の中で、どんな仕事が将来できるのかは分からない。しかし、自分に与 えられた環境の中で生きていくしかないことも、また現実である。

◇一方でカナダは、私が研究したいと考える国連の平和構築活動に、世界で最も熱心 な国の一つである。アフガニスタン、ハイチ、ボスニア。カナダを通じて、そんな活 動に関わる機会も、またないとは言えないかも知れない。

◇ヒューズ選手のように、10年後に究極的な目標に達することはできないかも知れない。それでも、毎日、毎日を新しい一日だと考えて、一つ一つの課題を新しいチャ レンジと思って、挑戦を続けたいと思った。それが、このオリンピックが、今の私に 教えてくれたことだった。

☆☆☆☆ 店主から一言          ☆☆☆☆
 

▼ 東君、おめでとう。君がカナダ選手の応援に胸ときめかす様子を想像しながら、君が再出発の最初の地に選んだのが、アメリカではなくカナダであったことは大事な選択ではなかったのか、と思いました。
▼君を採用しなかったアメリカの大学の選択基準は、今の日本にも蔓延する“基準”と同じ気もします。それに比べて、君を選んだUBCのP教授の「アメリカの大学は成績や試験など、血統書 で学生を決めることが多い。君のように変わった経歴を持ち、特殊な勇気で人生を始 めた人間には、フィットしないことも多いんだ。カナダのような周辺にこそ、創造的 な仕事は生まれるものだ」 という言葉は読者である私たちにも強く響きます。
▼最近、自ら果敢に提案しないプロデユーサーが増えています。皆、学生時代は優秀な学生だったにちがいなく思考も極めて論理的で知能指数の高いこともすぐにわかるのですが、「先輩、それはまだやるのははやすぎますよ。様子をみましょう。」
「やってもいいですが、責任はだれがとるんですか。」・・・・出発点が受け身なので、すぐに消極的な方向にそのすぐれた論理を展開しはじめる。なんだか、むなしい場面によくぶつかる。
▼その起点に、熱い情熱がない。かつて、「絵もなにもない、インタビューがとれる確証もどこにもない、だけどやりたい、つくりたい、伝えたい。」と君と語り合った時のような煌めきが、わたしの身の回りから消えつつあります。・・・・・てなことを言っていると「あの上司は思いつきでものをいうだけだから、話なんて聞く必要ないよ。どうせすぐに変わるから。」とまた、笑ってかわされてしまいそうですね。

▼いずれにしても、君が,カナダという未来を先取りした地で,今も熱い情を燃やしつつあるのを確認できるだけでも僕はうれしい。この便りをさっそく皆に知らせるために、アップリンクの作業を急ぎます。ほんとにおめでとう。乾杯

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 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡

    ◇「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」

    ◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」

    ◇「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
    
    ◇「2005年1月1日 東大作 カナダからの便り B<私と息子>」

    ◇「2005年2月6日 東大作 カナダからの便り C<出会い>」

    ◇「2005年3月6日 東大作 カナダからの便り D<壁>」

    ◇「2005年5月13日 東大作 カナダからの便り E<年齢>」

   ◇「2005年7月26日 東大作 カナダからの便り F<国連にて(1)粘り>」

   ◇ 「2005年10月30日 東大作 カナダからの便り G<国連にて(2)テーマ>」

   ◇ 「2006年2月6日 東大作 カナダからの便り H<カナダと格差>」
                      2006年3月3日