●御巣鷹山で見た花 反魂草
Senecio cannabifolius
キク科キオン属
夏から秋にかけて、本州の中部以北の山地で、黄色い花火のような花を咲かせる。葉っぱが深く裂けているのが特徴。「反魂」とは「死者を蘇らす」という意味。反魂草は、死者を蘇らす花である。
▼8月12日、御巣鷹山に登る。25年前、日航1ジャンボ機123便が墜落した山の斜面には、いくつもの墓標が点在する。その間、黄色い菊の小花が可憐に咲いていた。帰って、その花の名前が「反魂草」と知った。「反魂」とは死者を蘇らす」意味だという。墜落当時、真っ黒い灼熱の荒野だった御巣鷹の斜面は緑で鬱蒼としている。その中を転々と咲くこの草花は、だれかがそっと種をまいたのだろうか、それとも風に乗って、運ばれてきたのだろうか。
▼どこかで、誰かに不義理をしていそうで、気になることがいくつもある。そろそろ、その一つ一つをチェックリストに印をつけるように整理したい、と思うようになった。御巣鷹に登ることもその一つだった。
私の生まれは1953年の8月12日、その私の32歳の誕生日に史上最大の航空機事故をが起こった。当時、テレビ局の駆け出しだった私は、すぐにスタジオに入り、飛び込んでくる乗客名簿を手にそれを画面表示用に手書きで書き写す、という作業をひたすら続けた。その時、いつか、事故現場を訪ねなければ、と思った。
▼それから、毎年、誕生日がくるたびに、そう思いながら25年が過ぎたが、数日前、取材で御巣鷹に入る後輩から「いっしょに行きませんか。」と誘われた。これで、長年の宿題を果たすことができると思い、同行させてもらった。
▼8月11日の午後、上野村の役場の前の河原に各地からやってきた遺族、JAL関係者、地元の人々が集まる。長年培われた方法に従ってそれぞれが整然と儀式の準備に入る。遺族たちは川面に向かって、金色の造花を一本一本、差し込んでいく。盆花の数は520本、事故の犠牲者と同じ数だ。その盆花の道の先で、男たちが川に入り、灯篭を流す場所を作っている。石を運び、うまく灯篭が流れて行くように試行錯誤する。男たちは主にJALの社員、そこに遺族も加わっている。地元のボランティアのグループがアコーディオンの演奏を始める・・・・すべて、この25年の間に培われた流れだ。その整然とした準備に大勢のマスコミ陣が群がる。
<▼日没の頃、墜落時刻の18時56分、灯篭流しが始める。
河岸には、日航機事故の遺族だけでなく、JR西日本福知山線事故、信楽高原鉄道事故、中華航空機事故、明石歩道橋事故の遺族らも集まってきた。四半世紀たって御巣鷹は、事故の再発防止を願う、安全の聖地になった。
▼翌朝、御巣鷹に登る。険しい山道を想像していたが、道はきれいに整備されていた。毎月、JAL関係者、遺族、地元の人々が山に入り整備してきた。その25年の集積だ。
車を降りて30分ほどの山道をゆけば、頂の昇魂の碑に着いた。その間、緑の斜面のあちこちに、墓標が点在していた。犠牲となった乗客は0歳から80歳まで。509人のうち、223人が出張や商用、そのうち企業の管理職は150人を超えた。家族や同僚などと複数で乗った乗客は296人。
まさに社会の繁栄の縮図が子の山肌に激突して消えた。
▼ここは「彼岸」なのかもしれない。人々は、「此岸」の人々は、盆になるとこの「彼岸」にやってきて再会を果たす。
地獄絵を化した残忍な山。
ここを何度も登るにつれ、やがて人々の心は浄化され、「生き抜く」力を授かるのだ。
25年間、遺族の結束を進化させた8・12連絡会の代表、美谷島邦子さんは今年「御巣鷹山と生きる」という本をだした。息子の健君を9歳で失った邦子さんの言葉。
喪の悲しみは乗り越えるものではない。
人は悲しみに向き合い、
悲しみに同化して、
亡くなった人とともに生きていく
▼遠くの山並みの中に、U字型に窪んだ森が見える。これは、激突する寸前、日航機の翼が削り取ったものだと聞いた。
四半世紀の残骸が根を生やし、今も聳えたっている。
周りは、何事もなかったように緑の生命力に包まれていく中で、この焼け焦げた大木は「忘れられてなるものか」と決意を示しているようだ。
▼麓への帰り、マイクロバスの中で、美谷島さんといっしょになった。彼女の静かな落ち着きの中に、凛とした光を感じる話に耳を傾けた。
亡くした息子の分まで生きると決意した母は、風化という無作為に抗して、歩きつづけている。
「マスコミに追い回されることも辛かった。しかし、それ以上に、遺族にとっては、忘れ去られることが、一番怖い。」
なぜ、御巣鷹に来たのか?
ひんしゅくを買うかもしれないとおもいつつ、「あの日、8月12日は自分の誕生日だ」と話した。彼女は驚いたように反応してくれ、こう言ってほほ笑んでくれた。
「忘れられない日ですね。」