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2014年01月03日

●”別品”の風雅


▲今、木枯らしの一吹でもあろうものなら、一瞬にして崩れそうな、枯れ葉が裸の枝にしがみついている不安定なその様に"別品”の風雅があると思う。
▲昨年の晩秋、この世を去った希代のコラムニスト・天野祐吉が遺した最期の著作のタイトルは「成長から成熟へ?さよなら経済大国?」、あの高度成長・日本の繁栄を取り戻そうというかけ声の中で、水を差すメッセージとも受け取る人もあるかもしれないが、還暦を迎えた私には違和感なくしみいる。
▲天野はこの中で、70年代の経済学者E・F・シューマッハーの言葉を引用している。「それにしても、『成長は善である』とはなんたる言い草か。私の子供たちが成長するのなら至極結構であるが、この私がいま突然、成長し始めようなら、それはもう悲劇である。」 シューマッハーはそう言って、成熟社会への転換を促した。
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▲公園のいたるところの裸木の幹、晩秋を乗り切った僅少の紅葉の葉を連写しながら、思い起こすのは、天野祐吉が遺作の最後に記したくだりだ。少し長いが引用して、今年の自らの指針としたい。
「30年ほど前、哲学者の久野収先生に聞いた話を、いま思い出しています。昔の中国の皇帝は、画家や陶芸家などを、専門のスタッフと相談してきめたらしい。で、その一等を”一品”といった。天下一品なんていう、あの一品ですね。で、以下、二等・三等・・・・ではなく、二品・三品・・・・という呼び名で格付けたそうです。が、中国の面白いところは、その審査のモノサシで測れないが、個性的で優れていると思わqれるものは、「絶品」とか「別品」として認めた、というんですね。
 そのときの久野先生によると、『別品(別嬪)といったら、いまでは美人のことを指しますが、もともとはちょっと違うようですね。関西では、芸者と御料人さんとか、正統派の美女に対して、ちょっと別の、声がハスキーだとか、ファニーフェイスだとか、そういう美女を別嬪と呼んだわけですね。ところがいまは俗流化して、別嬪というと美人のことになってしまった。僕が言いたいのは、別品とか逸品とか絶品とかいうのは、非主流ではあるけれど、時を経ると、どちらが一意であるかわからないような状況が生じる可能性があるということなんですね。』
 別品。いいなあ。経済力にせよ軍事力にせよ、日本は一位とか二位とかを争う野暮な国じゃなくていい。「別品」の国でありたいと思うのです。」(天野祐吉「成長から成熟へ」より)
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▲今にも吹き飛ばされそうな枯葉の奥から黄色くか細い花弁が顔の覗かしている。マンサクの花だ。
次への命を孕みながら、最期まで人知れず役割を果たす、その枯葉の姿に”別品”の風雅を感じる。

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