東大作      オークの樹の下で

 カナダからの便りJ 「カナダと新渡戸稲造」 
          2006年10月6日

   一連の写真は、東氏の妻(雅江さん)が撮影






















     

◇春から秋にかけて、超多忙な日々が続き、投稿が遅れてしまいました。
 4月に講談社から「犯罪被害者の声が聞こえますか」を出版した。その本について、誠文堂の店主が、感動的な書評をこの草木花便りに掲載してくれた。心から感謝している。そして、6年以上に渡って取材に応じて下さった、岡村勲さんや岡本真寿美さんをはじめ、全ての被害者の方々に、深い感謝とお礼の気持ちを伝えたい。

◇前回の投稿で書いたPhD(博士課程)の申し込みについては、アメリカの首都ワシントンにあるG大学からオファーがあった。国連の研究者として第一人者であるM教授がいる大学。私の
「国連にて@」に、面会した時のことを書いた教授のいる大学だった。

◇M教授が自分の研究テーマを評価してくれたことは率直に嬉しかった。また、G大学は、全米の政治学科でも評価は高く、特に自分が感心のある政策研究(PolicyStudies)については定評がある。以前大変お世話になった国連の政務官の方も「純粋なアカデミックな大学で勉強するより、実践に近いところで勉強した方がいい」と言い、G大学を一番薦めてくれていた。その大学からオファーがあった。

◇しかし、今いるカナダのUBC(ブリテッシュコロンビア大学)を離れて、アメリカに住み直すことがいいのか、はたと考えてしまった。正直、いち早く合格を決めてくれた今の大学で、自分を真摯に応援してくれている指導教官たちのもと、自分の好きな研究をした方がよいのではないかという思いを強く持った。

◇一つには、カナダが私の研究をしようとしている国連を通じた安全保障や、国家再建活動に非常に熱心で、その研究が非常に盛んであるということがあった。もう一つは、カナダ、イギリス、オーストラリアなどが、伝統的なフィールドリサーチに基づいた、実証研究・調査を今も重視しているのに対して、アメリカの政治学は、完全にゲーム理論や数量分析など、数学を使った分析を重視する世界に移っており、そうした分析手法を使わなければ、いくら実地で詳細な調査をしても、その論文を認めてもらえない可能性が高いという懸念もあった。

◇そして何よりも、この二年間のMAの間に築いた複数の教授の人たちとの信頼関係を失って、また一から別の場で作り直すことが、いいとは思えなかった。

◇もちろん経済的な懸念もあった。今いるUBCからは、最低でも年間200万円近い支援があり、しかも授業料は無料である。また、生活費や医療保険費もアメリカに比べて格段に安い。アメリカのワシントンに家族3人で住んだ場合、「生活費として年間700万円、その5年分の費用を用意して下さい」とG大学側から言われてしまった。電話の先で、こともなげにいう係の人の言葉を聞いて、「アメリカはお金がないと勉強できない国なんだなー」と実感せざるをえなかった。

◇数年で貯金を使い果たし、その後、働きながらPhDを取るような事態になったら、どうなってしまうか分からない。それよりは、今のUBCで経済的な心配をあまりせず、4年間集中して勉強して、尊敬する先生達のもとで、いい論文を本を書くことに専念した方が、自分にとっても妻や息子にとってもよいのではと思った。
◇指導教官のプライスにも相談し、その結果、UBCに残ってここでPhD過程に入ることを決めた。G大学のM教授にも丁寧な感謝のメールを送ったところ、すぐに返事が来て、「私達にとっては残念だけど、UBCにとっては、大変な財産ね。頑張って下さい」という激励を頂いた。M教授の思いやりに、とても感謝した。

◇その後、バンクーバーにも春が来た。私は妻と一緒に、UBCの中にあるNitobeGarden (新渡戸庭園)に足を運んだ。妻が草木花便りのために写真をとってくれる。

◇なぜカナダのバンクーバーに、「新渡戸庭園」があるかというと、新渡戸稲造博士は、昭和8年、バンクーバーの隣ビクトリアで息を引き取ったことが直接の理由である。この年、カナダのバンフで開かれた、「太平洋問題調査会」という、民間の知識人による国際問題を解決するための国際会議に、新渡戸は既に70歳を超えていたが、日本代表として出席した。時は既に、第二次世界大戦を前に国際情勢の悪化が深刻になっていた。その会議の後、新渡戸博士はカナダの地で倒れ、ビクトリアで入院して静養したが、そのまま帰らぬ人となった。「我、太平洋の架け橋とならん」という彼の生涯の夢=目標を考えると、太平洋を挟んだ日本の向かい側であるこの地で息
を引き取ったことは、新渡戸の生涯を象徴しているかも知れない。

◇新渡戸が「太平洋の橋になりたい」と発言する時の太平洋とは、実際には日本とアメリカを指していた。新渡戸は、アメリカのジョン・ホプキンス大学に留学して以来、一貫して日米の親交のために尽くしてた人物である。しかし、その新渡戸の意志と、世界でベストセラーとなった「武士道」の学問上の功績、そして国際連盟の事務次長として活躍した、日本最初の「国際人」と言える新渡戸をたたえる庭園を、わざわざUBC大学の名所として造ってくれている。そんなところに、なんとなくカナダ人の日本に対する率直な気持ちが表れている気がして、私はこの庭園が好きである。

◇勉強に疲れた時、そして、研究に一段落がついたとき、よくこの庭園の芝生に寝ころび、空を見上げる。晴れた日のバンクーバーの空は、美しく、庭園の緑がよく池に映える。桜の季節も見事だった。

◇「日本で最初の国際人」となった新渡戸だが、その新渡戸にとっても、人生の転機が二度あった。一つは、帝国大学を途中退学してのアメリカ留学である。北海道の札幌農学校で、内村鑑三をはじめ、一生を決定づける学友との充実した4年間の学業を終えたあと、新渡戸は東京帝国大学に入学する。22歳の時だった。しかし帝国大学での勉強に飽きたらなかった新渡戸は、一大決心して、本場アメリカに渡ることを夢見る。貧しかった新渡戸は、叔父が、家禄を奉還して政府から受け取った公債証書1000円と実兄から300円を借金して、アメリカ留学に踏み切った。

◇帝国大学に残って学位を取れば将来は保障されていたし、その当時既に有力な政府高官との娘との縁談話もあった。にも拘わらず、あえて自分の夢のために新興国アメリカに渡ることを新渡戸は決意したのだ。その時、彼は友人への手紙にこう書いている。

◇「私はアメリカに行くつもりです。私は十分な学資なしに行くのです。私は危険なことをするのです。それは、あまりに大胆でしょう。しかし私は、結局一生というものは、危険とたたかい、これを突破することだと考えて、渡米することを決心しました。」(新渡戸稲造物語 堀内正巳著より)

◇その時の決断が、新渡戸の一生を決定づけた。ジョン・ホプキンス大学での留学経験が、国際人としての新渡戸を形作った。

◇もう一つの転機は、アメリカとドイツで学位を終え、再び札幌農学校などで教授として教えていた新渡戸が、過労によって神経衰弱に陥り、医者から8年の療養が必要だと言われた時だった。当時、36歳。働き盛りの新渡戸が「完治8年」と言われた時の衝撃は測り知れないものがある。

◇しかしこの病気による療養が、新渡戸の名を世界に知らしめるきっかけになった。アメリカ人であった妻の薦めで、アメリカのカリフォルニアで療養生活を送っているときに書いた「武士道」が、世界的なベストセラーになったのである。その後、日本に戻る前に世界旅行をした新渡戸が、エジプトからの日本行きの船に乗る際、乗船費用がなくなり困っていたところ、船長が「武士道」の愛読者で、その名前だけで日本に帰ることができたほど、世界中でその名が知られることになった。(新渡戸稲造物語より)

◇その意味では、新渡戸の一生もまた起伏に富んだものであった。が、その起伏に沿いながら自分の信念を全うしようとした行き方が、今も世界の多くの人に彼が敬愛されている理由のような気がする。私は全く新渡戸稲造について知識がなく、5000円札に載っているという認識ぐらいしか無かったが、カナダのUBCに来て、新渡戸博士のことを本で読んだりするようになったのも、また不思議な気がする。

◇4月、指導教官のプライスから、メールが来た。今年2006年度の、大学内の特待生用の奨学金に受かり、大学でのアルバイトによる収入(全て働いた場合およそ150万円から200万円)に加え、更に年160万円が、支給されることになったという連絡だった。これは、働かなくてももらえる奨学金で将来返還する必要がないものである。一年目のPhDの学生が貰えることはとても希であり、推薦文を書いてくれたプライスや他の指導教官に感謝するばかりだった。プライスも「この連絡ができることはとても嬉しい」と率直に喜びを伝えてくれていた。

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 ※ 「草木花便り」の中での東大作の航跡

    ◇「2004年7月19日 曇天に咲く孤高のひまわり(「夢の誠文堂 店主より)」

    ◇「2004年8月27日 オークの樹の下で 東大作 カナダからの便り@」

    ◇「2004年10月1日 東大作 カナダからの便り A<誤算>」
    
    ◇「2005年1月1日 東大作 カナダからの便り B<私と息子>」

    ◇「2005年2月6日 東大作 カナダからの便り C<出会い>」

    ◇「2005年3月6日 東大作 カナダからの便り D<壁>」

    ◇「2005年5月13日 東大作 カナダからの便り E<年齢>」

   ◇「2005年7月26日 東大作 カナダからの便り F<国連にて(1)粘り>」

   ◇ 「2005年10月30日 東大作 カナダからの便り G<国連にて(2)テーマ>」

   ◇ 「2006年2月6日 東大作 カナダからの便り H<カナダと格差>」

    ◇ 「2006年2月6日 東大作 カナダからの便り I<結果とオリンピック>」
                      2006年10月6日